紙の束

 父は印刷工場で働いていたので小さい頃から、紙だけは常にある家でした。父が紙の束を持って帰ってくるといつも嬉しくて嬉しくて、夜家族が寝た後もダイニングテーブルに紙を広げて絵を描いていました。それはだんだんと漫画のようなものになりました。

 小学校高学年の頃、紙を束ねてホッチキスで止めて冊子のようなものを作り、神様に手紙を書いていました。父や母に言えないことをその冊子のようなものに書きつけていました。どうして手紙なのに、便箋と封筒を使わなかったのかというと、はじめは神様への手紙だと気がついていなかったからです。それは父や母に言えない胸にしまっていることを書いていただけの紙の束でした。
 ある日それを母に読まれてしまいました。かずちゃん、ここに書いてること本当なの? 母に問い詰められたとき、咄嗟に、これは神様への手紙だと私は言いました。

 生きていくにつれて、生きていかなければならなくなりました。私の紙の束は増え、漫画だったものは絵本めいたものに移行していきました。絵本の売り込みに出版社を回って仕事にしたいと思っていた二十代の初め、だめでした。その頃には実家を出て、各地を住み込みのバイトをしながら転々と移動しながら暮らしていました。そんな中で絵本は物語と絵に分裂し、やがて絵は消えました。その頃出会ったインスタレーションという表現方法に私は残された物語を添え、美術へと移行していきました。

 働いて生活をして、作品を作って発表して、働いて生活をして、作品を作って発表して、疲れていた頃にアーティストインレジデンスというものがあることを知り、そこで活動するようになりました。家賃が安く、アルバイトを週に4日に減らすことができるようになりました。制作活動をするコミュニティが既にあり、今まで一人で活動をしていた時とは全く違うスピード感で活動できました。
 急に色々やろうとすると失敗しました。失敗が手まねきをしてこっちにおいでと笑っていました。

 移動を繰り返す生活にも疲れていました。制作した作品は移動をすることを前提に作られていて、解体して箱に入れられるものばかり、大きすぎるものは壊して捨てました。持ち運べる物であるという縛りが自分の中にいつの間にか芽生えていて、物質の残らない、パフォーマンス作品を制作するようになりました。質量のあるものは立ち去る時に私を困らせました。

 その後も生活のためにアルバイトをして、制作を続けました。移動をやめて四年目を迎えました。今は横浜のアーティストインレジデンスで活動しています。もう壊すのも面倒なくらい膨らみすぎた部屋で、最長五年で立ち退かなければならないアーティストインレジデンスの事情があり、そのことを常に考えながら生活をし、そうしているうちに物語の分量が増えていきました。絵本から絵が消えていった時のように、今また美術が私から消えていこうとしているのを感じます。

 人が「挫折」と呼ぶことを私は「移行」と呼んでいます。移行しても移行しても振り落とされずに残った物語は、どんなに貧しい生活をしていても、どんなに移動しても、もう壊すのも面倒なくらい膨らみすぎた部屋で、捨てる必要もなく、最後まで私の中にあります。ここを出る時私は美術を置いていき、物語だけを持って生きていくのだろうと思っています。小説は「不定形な芸術ジャンルという最高のステータス(ことばの学校の講義の中で高橋源一郎さんが言っていました)」とても自由で、今までの移行してきたと思っていた絵、漫画、絵本、美術、その全ては置いてきたのではなく、混淆していく。
 書きたい。どんな媒体でもいい。それが紙の束であったら、もっといい。

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