#0096【英3C政策と独3B政策(英独対立、19C末-20C初)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。

No.95では第一次世界大戦前夜の仏独の対立を見ましたが、今回は英独の対立を確認します。

イギリスはアフリカ大陸においては、エジプトのカイロ(Cairo)と南アのケープタウン(Cape Town)を軸に大陸縦貫政策を目指します。

当時すでにインド全域はイギリスの植民地に組み込まれていました。インドの東部にあたるカルカッタ(Calcutta 現コルカタ)もイギリスの重要拠点でした。

インド貿易をさらに推進していくためにカイロ・ケープタウン間とカイロ・カルカッタ間に鉄道を敷設して輸送力を高めようという3C政策がイギリスの重要政策の一つとなります。

しかし、大陸縦貫政策については、その途中をドイツ領東アフリカ(現タンザニア)が遮る形になっていました。

また、鉄道敷設については、ドイツがベルリン(Berlin)・ビザンティウム(Byzantium、イスタンブールの旧名称)・バグダード(Baghdad)を繋げることをドイツの長期戦略として定めており、これが実行されるとカイロ・カルカッタ間の鉄道敷設とバッティングするとともに、イギリスが領しているスエズ運河の重要性が低下することが懸念されていました。

ドイツの鉄道敷設政策はイギリスの3C政策と対比する形で3B政策と呼ばれていますが、同時代には使われていません。後世に名付けられた歴史用語です。

イギリスとドイツはアフリカだけでなく、中東問題でも対立が起きるようになっていきます。

ビスマルクが諫めたドイツの膨張政策は、No.95で取り上げたモロッコ事件で一つの頂点を迎えましたが交渉で解決できたことから戦争へは発展しませんでした。

しかし、フランスとイギリスのドイツに対する不信感は募る一方であり、3C政策と3B政策のバッティングも重なったため抜き差しならぬ関係となっていきます。

1914年にサラエボ事件が発生した際には、これが第一次世界大戦の引き金になるとは考えられていませんでした。

対立に対立を重ねていった結果、遂に全面武力衝突へと発展してしまい、4年間もの間ヨーロッパは荒廃した戦地へと化します。

戦争は思いがけないところから始まってしまいますが、その背景にはマグマのようにたまった不満があり、これが噴出したものと考えることもできます。

国家間の争いである戦争でなくとも、人間関係においても、突然対立が表面化することがあります。

問題を先送りし、根元にあるシコリのような不満を残したまま表面的な解決に終始すると、いずれ大きな反動が起きる可能性があることは、日ごろの生活においても肝に銘じたい歴史の教訓といえます。

以上、今週の歴史小話でした!

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発行人:李東潤(りとんゆん)
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