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#0123【心のひだに触れし月(明智光秀)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。
信長を裏切った男たち特集。トリはやはりこの人、明智光秀でしょう。

歴史に詳しくない人でも、明智光秀といえば裏切り者の代名詞のような存在と認識しているのではないかと思います。

天下統一まであと一歩の信長を1582年6月2日(日付は旧暦)に京都本能寺にて攻め滅ぼしました。

信長は、早朝、本能寺が軍勢に囲まれていることに気づくと「何者の手勢か」と問います。
「桔梗の紋所(光秀の家紋)でございます。」との返答をうけ、「是非もなし」といったと伝えられています。

「それでは仕方がないか。」との達観した一言でした。

発言の真偽や真意は推測の域を出ませんか、明智光秀に裏切られたということは包囲網も完璧であり、取りこぼしもないだろうということから早々に達観したのではないかと思います。

信長は、窮地に陥ったと判断すると直ぐに逃走して態勢を立て直すことの天才です。

戦争に強かったイメージのある信長ですが、自分よりも強いと思われた武田信玄や上杉謙信などとは直接対決を徹底して避けるなど「賭け」に出るような姿勢を見せません。

また、逃走を恥とも思わず、場面によって「逃げるが勝ち」を迷わず選択できることも信長の強みだったと思います。

そんな信長を明智光秀は間近でみてきました。旧暦6月1日は新月であり月は出ていません。こっそりと本能寺を包囲し2日早朝から信長の首を上げようと攻撃をしました。

本能寺は炎上しましたが、信長の首を見つけることはできませんでした。このため「実は信長は生き延びた」とする歴史小説や歴史研究があります。

光秀の前半生は謎に包まれていますが、信長に仕えてからは側近として活躍し、強力な鉄砲部隊の運用者という側面だけでなく、高い教養から京都の皇族・貴族対応も任されていました。

自分を高い地位まで引き上げてくれた信長をなぜ裏切ったのか。

様々な説が提唱され、定説となっているものはありません。それぞれに納得できる点、不審に思える点があるからです。

代表的なものとしては、怨恨説(信長への不満)、野望説(自分が天下を取りたかった)、突発説(いつ自分がクビになるか不安)、天皇黒幕説、足利義昭黒幕説などがあります。

あるいは、のちに織田家から天下を奪った豊臣秀吉や徳川家康が黒幕にいたという説もあります。

近年では、光秀が任されていた四国の大勢力との交渉を、信長がひっくり返したことへの反発などを裏付ける書状が見つかるなど、この辺の研究は日進月歩で進んでいます。

新たな発見で、いつの日か定説が生まれるかもしれません。

以上、今週の歴史小話でした!

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発行人:李東潤(りとんゆん)
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https://note.mu/1minute_history/m/m814f305c3ae2
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