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#14 最後にモノをいうのは力なり!武士の台頭と鎌倉幕府

このエピソードで学ぶこと

権力争いは貴族や天皇家という限られた階層から
地方を基盤とする武士へと拡大していきます。
武士が権力を握っていく過程には何があったのでしょうか
武士の対応と鎌倉幕府の誕生経緯について学びましょう

本編(0分50秒)

・天皇家が院政をしているときに、武士たちの力を引き上げていった。
・しかし、鳥羽上皇の死後に後白河天皇と崇徳上皇が次代の院政を主催すべく争いをする。
・天皇家同士の争いは貴族も武士も巻き込んだ保元の乱が起きた。
・勝利を決めたのは武士の力が大きかった。平清盛が味方した後白河天皇が勝利。
・保元の乱の3年後には平治の乱という勝ち組の中での決勝戦があり、ここでも平清盛が勝利。
・しかし、清盛がやった政治は、藤原氏の物真似で終わってしまったため、特権階級とその周辺のみが肥えていくという政治に変わりはなく、一般武士にはメリットのない政治が続いてしまった。
・その不満を受け止めたのが、武士の権利主張団体となった鎌倉幕府を築いた源頼朝だったのです。

今回のおさらい(9分28秒)

Q1:鳥羽上皇死後に起きた天皇家・藤原氏・源氏・平氏を二つに分けた内乱は?
→保元(ほうげん)の乱、武士の武力が勝ち組を決めることになった
Q2:保元の乱の後に起きた平治の乱っていったい何だったの?
→保元の乱の後に勝ち残った人たちによる権力争い、平清盛が権力を握るきっかけになった。
Q3:平清盛はどんな政治をしたの?
→権力構造は旧来の政治体制に則っていて、藤原氏、天皇家の代わりに平氏ばかりが権力を独占した。
Q4:源頼朝はどんな政治を目指したの?
→旧来の政治とは別に、武士の権利を拡大・認めさせていった。

次回予告(10分24秒)

長らく天皇や貴族が、権力の中枢を占めていましたが、
地方で力を付けた武士の力がモノを言う時代になっていきました。
武士として初めて権力を握った平清盛は、旧来の政治体制をベースにしたため、
広く一般的な武士の要求を充たすような政治はできませんでした。
源頼朝はその不満を集めて、鎌倉に新しい政治組織を築いていきますが、
京都と鎌倉の共存をいかに図っていくかが次のポイントになります。
次回、京都と鎌倉の衝突、承久の乱と執権政治です。

次のエピソード⇒#15_天皇家の逆襲、承久の乱と執権による武士政治の確立

前のエピソード⇒#13_わたし、天皇のお父さんなんですけど。院政の始まりと白河上皇


↓↓↓ラジレキ メインチャンネルの関連エピソード↓↓↓

<0380_平清盛の先見性と時代の限界>

<0383_源頼朝の意外な人間臭さ>

<0066_ 源頼朝がぼっちになって気づいた武士が求めていたもの>


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