見出し画像

西洋古典を七つ紹介する文章(無料で最後まで読めます)

今度は西洋古典7冊を紹介します。
東洋古典のように体系立てて説明できたらいいんでしょうけども、そうはいかない(笑)。
自分の理解の浅さが露呈してしまいますが、それもまあヤムナシ。

①アリストテレス『政治学』
②マキャベリ『君主論』
③デカルト『方法序説』
④ジョン・ロック『統治二論』
⑤ルソー『社会契約論』
⑥マルクス『資本論』
⑦マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』

①はアリストテレスの『政治学』です。西洋哲学の巨人にして、古典として避けて通れない人物です。何を紹介しようかと思ったのですが、他に取り上げた書籍とのつながりで『政治学』にしました。現代共和制や民主制の源流・源泉はギリシャのポリス国家にあり、分けてもその中心だったアテネは避けて通ることができません。アリストテレスはソクラテスやプラトンを下敷きにしながら、論理を展開して分析を進め彼の結論を下します。

「幸福な国家とは最善の国家であり、かつ美しくふるまう国家であることが導かれる。しかし、美しいことを行わない者たちが、美しくふるまうことは不可能である。そして、徳と思慮を欠いては、人も国家も美しい行為はできない。国家の勇気、正義、思慮は、人間の各々が正しい、思慮深い、節度があると呼ばれるときに分けもつものと同じ力と形をもつのである。」

アリストテレスは「共和制」をもっともよい政治形態とする一方で、意外かもしれませんが、「民主制」を「寡頭制」や「僭主制」といった少数の支配と同列に分類して非難します。この三つはどれも支配者の利益を求める点で同列の政治体制であると喝破するのです。なぜなら、少数(金持ち)が多数(大衆)の財産を奪い我がものにする行為と、多数(大衆)が少数(金持ち)の財産を奪いとる行為は、本質的には一緒であるからです。アリストテレスは人間の本性には善なるものがあると考えますが、その善がしっかりとしたものとして備わることが政治に参画する上で必要だと説くのです。そのため、現代においても義務教育、子に教育を受けさせることが選挙権を持つ大人に課せられた義務となっていくのです。


②はマキャベリの『君主論』です。他に取り上げた書物と趣きを異にしています。この本はイタリア・ルネサンス期に書かれた書物です。当時のイタリアは群雄割拠の時代であり、地中海貿易による富が流入する一方で腐敗や分裂、抗争がイタリアの各都市国家に蔓延しており、統一から程遠い状況にありました。マキャベリはフィレンツェ市の権力者であったメディチ家に対してこの『君主論』を贈呈します。

「(君主は民衆から)愛されるよりも恐れられる方がはるかに安全である。(中略)なぜならば好意は義務の鎖でつながれているが、人間は生来邪悪であるからいつでも自己の利益に従ってこの鎖を破壊するのに対して、恐怖は君主と常に一体不可分である処罰に対する恐怖によって維持されているからである。」

アリストテレスの観点とは真逆の姿勢です。混乱にあえぐイタリア半島の情勢、そして自分自身の不遇な境遇からマキャベリは徹底的なリアリズム、現実路線に目を向けて、あるべき君主像を説いていくのです。マキャベリはイタリア統一のための強い君主像をこの『君主論』の中で提示します。そのために彼は君主の権限の起源や根源についての考察を進めるのですが、皮肉なことにこれが結果として王政や専制政治の秘密を赤裸々にした暴露本のような側面も生み出し、「王に教えを説くふりをしながら、マキャベリは人民に偉大な教訓を与えた。(byルソー)」といった解釈の展開にもつながっていくのです。


③はデカルトの『方法序説』です。この本の名前を知らなくても「われ思うゆえに、われあり」のフレーズは知名度抜群でしょう。デカルトはアリストテレスをベースとしつつ、独自に発展した当時の社会のスコラ哲学に反旗を翻します。『方法序説』の冒頭でいきなり、デカルトは「これまで学校で学んだのは、人生の役に立たないものだった」と言い放つのです。そして、旅に出ます。あらゆる既成概念に対して懐疑的な姿勢を取りながら旅と思索を重ねたデカルトは、

「すべてを偽と考えようとする間も、そう考えているこのわたしは必然的に何ものかでなければならない、と。そして「われ思うゆえに、われあり」というこの真理は、懐疑論者たちのどんな途方もない想定といえども揺るがしえないほど堅固で確実」

という結論にたどり着き、ここから彼の哲学を深めていくことになります。それまでのスコラ哲学、中世ヨーロッパにおいては全ての源泉は「神」にありました。これを人間の思索に置き換えていく大転換となるのです。また、当時は聖職者とそれ以外に真理を認識する能力に生まれ以ての差があるとされていましたが、デカルトは認識する能力自体に差はない、その「方法」にのみ差異がある。であれば、その方法を理解して、用いられるようになればどんな人間であっても認識できないことはないという結論を導き出します。現代社会における科学の力が推進されていく原動力ともなったこの考え方にあるとおり、デカルトは数学の面でも多大な業績を出していきます。なお、デカルトは近世西欧哲学の二つの潮流であるイギリス経験論と大陸合理論のうち、大陸合理論の祖という位置づけにいます。


④はジョン・ロックの『統治二論』です。イギリス名誉革命を理論的にサポートし、その後アメリカ独立戦争、フランス革命に多大な影響を及ぼし、現代社会における国家論、基本的人権などの根幹を提示した破格の名著です。絶対王政や父権(男系)の優越について論破していく様は一種の爽快感を与えてくれます。たとえば、十戒において「父母を敬え」と言っているのに、父だけ敬うのは片手落ちもいいところだと。この統治二論では聖書に根源的な論拠をおきつつ、その上で近代的、現代的な論を展開していきます。もっとも重要な点は、人間は神によって「自殺禁止」となっていることです。神の地上における目的を達成する手段である人間にとってその「生命・健康の維持」は義務であると喝破するのです。であるならば、社会は神に由来するこの義務を奪い取ることはできないということで「生存権」が導出され、さらに自己の生存権を侵害されない「自由」や悪逆な政府への「抵抗権」が導出されていくのです。

「社会における人間の自由とは、同意によって政治的共同体のなかに樹立された立法権力以外のいかなる立法権力の下にも立たないこと」

さらに人類に平等に共有財産として神から与えられた地上において、なぜ個人が専有する所有権が生じるのかについても労働という神由来の人間の行為によって生まれてくるのだという論を展開していきます。


⑤はルソーの『社会契約論』です。ジョン・ロックの統治二論以上にフランス革命の原動力となった書物です。人間は生まれながらにして自由であるはずなのに、いたるところで鎖に繋がれてしまっており、不平等が蔓延してしまっている状況を人間が社会を作り出す前の自然状態から紐解きながら、いかに国家や社会が成立していったかを論評します。そして、主権や政治体制、立法についてどうなされるべきなのかを示していくのです。

「すべての人々の最大の善は、あらゆる立法の体系の究極目的であるべきだが、それが正確には、何から成りたっているかをたずねるなら、われわれは、それが二つの主要な目的、すなわち自由と平等とに帰することを見出すであろう。」

当然、この思想は当時のフランス王国に目をつけられ、またキリスト教会からも強い迫害を受けます。ルソーの社会契約論はその後、フランス人権宣言にその精神受け継がれていき、ナポレオン法典に結集されます。ルソーの社会契約論は明治開国後の日本に一早く中江兆民によって紹介され、そして日本の民法はフランスに倣って整備され空間と時間を超えて現代日本へと繋がってくるのです。


⑥はマルクスの『資本論』です。ソ連崩壊によって共産主義は低迷し、マルクスの思想は死んだかのように捉えられています。一方で資本主義社会における格差の拡大、不平等についての不満や不安はマルクスが『資本論』を展開した19世紀よりも深まっています。マルクスはこの資本論の中で貨幣について考察、論証を進めます。なぜ貨幣が人間の上にたち、資本が人間よりも力を持つのか。本来人間が生存するための手段であった生産活動、そこから派生した経済活動、貨幣経済がいつのまにか人間の主のようにふるまう様、矛盾を解き明かしていきます。
彼は流通過程に目を向けます。もともと、商品売買は「買うために売る」でした。商品(W)をまず売って、貨幣(G)を入手し、その貨幣(G)を使って新しい商品(W)購入します。これを「W-G-W」と表現します。どんどん商品(W)が欲しいんだけど、そのためには貨幣(G)を溜め込まなければいけない。そうすると必然手に入る商品(W)が少なくなってしまうというジレンマが生じます。これを逆転させる、すなわち「売るために買う」とするとどうなるでしょうか。

「G-W-Gという形態であり、貨幣の商品への転化および商品の貨幣への再転化であって、売るために買うことである。この後の方の流通を描いて運動する貨幣は、資本に転化され、資本となる。」

と論じています。Gからより大きなGが生まれていき、それは誰にも止めることのできない運動になってしまうのです。なぜなら、この運動を止めてしまうとWがWのままとなってしまい、次のGを生み出さないからです。かくして資本主義の社会においては定期的に不況がやってくることになります。
このマルクスが暴いた貨幣の自己増殖作用については、政治の世界におけるマルクス主義の敗退があったとしてもひとつの真理を示していることに変わりはないと考えています。また、マルクスの資本論には他にも資本主義における様々な課題について論じています。


⑦、最後はマックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』です。これだけタイトルが長いですね。こちらは資本主義がなぜプロテスタントを主とする社会で発展・展開されていったのかを、その倫理構造・道徳観念から導出した名著です。神の栄光を体現するため、自分に与えられた天職に迷いなく勤しみ、勤勉に禁欲に生きることで手に入る利潤や利得は神の恩寵ととらえられ、いわゆる「金儲け」に対する背徳感を減じることができたのだと説くのです。

「けだし、神の摂理によってだれにも差別なく天職である一つの職業(calling:神の召命)がそなえられていて、人々はそれを見わけて、それにおいて働かねばならぬ。」

プロテスタントは、カトリック教会に対して反発して独立していった経緯があります。ひとつのきっかけが免罪符の販売についてです。カトリックではローマ教皇が神への「執り成し」を行う権利を持ち、それを証券化したものが免罪符ととらえることができますが、金で無罪を獲得するようなやり方には反発があり、のちにカトリック教会は免罪符を撤回しますが、プロテスタントの分離が加速していきました。こういった流れがある中、プロテスタントにおける倫理が結果として利潤獲得、利潤追求を認めることになったというヴェーバーの指摘には逆説的な面白さと意外性があります。当然、この考え方には今も多くの賛否があります。


今回もかなりの長文になりました!最後までお読みいただきありがとうございます。感想などありましたら、コメントを残して頂けると嬉しいです(^^)

また、宜しければ投げ銭をお願いします。

ここから先は

0字

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?