歴史小話増刊号002【則天武后は自分の娘を殺したのか】

1日1分歴史小話#0024で取り上げた則天武后は、皇后位を得て権力を握るために自分の娘を殺したとされている。

しかし、筆者はこの話に疑問を感じている。

殺したとされる娘は李治にとっても、則天武后との間に生まれた初めての女の子だった。最愛の女性との間に長男・次男に恵まれ、さらに娘まで授かった。

男親として、これ以上の幸せがあるだろうか。

だからこそ、王皇后が殺害したと考えた李治は怒り、重臣たちの反対を無視して、王皇后の廃位と則天武后の立后を決めたのである。

だが、則天武后が殺めたと知られてしまったら、李治の怒りの矛先は則天武后に向かってしまう。

則天武后としても焦っていたことは間違いない。李治と蕭氏の関係は冷え切り、蕭氏の息子が皇太子になることはなかった。一方、他の女性が生んだ李治の第一子が王皇后の養子となり、皇太子に任命された時期だった。

賢明な則天武后も焦りのあまり、賭けにうってでたのか?

この計略が成功するためには、フラリと王皇后が則天武后の不在中にやってきて、出て行ったあとすぐに則天武后が部屋へ戻って娘を殺害する必要がある。誰かに見られたらおしまいなのだ。

周囲の人間を買収するなどの手段も取れるが、相手は現皇后である。彼女にも部下がおり、一人で行動はしない。必ずお付のものがいる。

中国史上唯一の女帝であり、隋の煬帝、唐の太宗ですら成しえなかった高句麗を滅ぼした女性が、そんな一か八かの賭けに出るだろうか。筆者はそうは思わない。

「則天武后は実の娘に手をかけていない。」これが本稿での筆者の主張である。

なお、これは直接的な裏付けがない筆者の個人的な直感である。あくまでも「私見」であることを考慮に入れて頂いた上で読むかどうかを検討頂きたい。

また、こういった性格の文章であることから、ネット上で安易に流布されることを避ける意味を込めて有料課金での配布とした。

ご興味がある方はお読み頂ければ幸いである。


さて、筆者の結論は上述のとおり、「手をかけていない」だが、理由はあまりにもリスクが大きいからだ。失敗すれば、折角の李治の則天武后への愛が冷めてしまう。

立て続けに李治との間に子を成していた状況を考えると、事件当時に李治が則天武后を本気で愛していたことは間違いがない。

父の妻を無理やりに引き取っていることと、息子が家臣の反対を押し切って李治と則天武后を同じ墓に埋葬したことからも疑いようがないと考える。

「同じ墓に入りたくない」という夫婦がいるが、それとは真逆の夫婦関係であったと息子が感じていた。

そう考えると、李治は何としても則天武后を皇后にしたかったと思う。

そのためには現皇后である王氏を除外する必要があるが、王氏にも多くの重臣がついており、相応の理由もなく廃立することはできない。

則天武后を皇后にするために李治と則天武后の二人が考え抜いた結果、この事件に至ったのだと思う。筆者は李治と則天武后は共犯であると考えている。

二人が共犯だったとして、この事件の真相はどうだったのか。

ヒントは、8世紀の中国とはまるで時代も地域も違う18世紀のロシアにあった。

1762年から1796年にロシア帝国に君臨した女帝エカチェリーナ2世との対比で筆者は気付いたのだ。

ロシアの女帝として君臨したエカチェリーナ2世は、女帝に即位する前にはロシアの皇太子であったピョートル3世の妻だった。しかし二人の関係は冷え切っており、お互いに愛人を抱えていた。

やがてピョートル3世は皇帝に即位したが、もともと愚鈍で評判が宜しくなかったことに加え、勝利を目前とした戦争を急に相手国有利な条件で停戦してしまうなどの政治的な失敗を繰り返したことによって貴族や軍人たちの信望を完全に失ってしまった。

情勢を見極めたエカチェリーナ2世はクーデターを起こし、夫ピョートル3世を追放して自ら女帝として即位した。

女帝即位後は自分の愛人関係やその間に生まれた子どもたちを隠すことなく公のものとしていった。

エカチェリーナ2世が権力を握る前は、女性の身であるエカチェリーナ2世の方が不利であり、愛人の存在が公になった場合には自分が追放されてしまう危険性があった。

彼女は愛人との子を孕むたびに、医者と信頼できる数人の仲間を味方にして妊娠隠匿・秘密出産を繰り返していたのだ。

筆者は、この逆を李治と則天武后はやったと考える。

偽装妊娠・偽装出産である。

妊娠したフリをして、実の娘でも何でもない子どもを宮殿外から買ってきて、その子を王皇后が殺害したことにする。

妊娠・出産というデリケートな部分については、いくら現皇后とはいえ介入ができない。則天武后の周囲には彼女の味方だけを配置することができる。医者と身の回りの世話をする一部の人間にだけ計画を共有できればよい。

そして、なにより李治を味方にすることができる。

あとは、王皇后に使者をさしむけて自室に呼びよせ不在にすればいい。則天武后が戻ってくるまでの間、生まれた娘をご覧になってくださいといって、王皇后のみを通すように指示する。

そして、少し待たせたあとに李治に急用を言われてしまい、すぐに戻れそうにないとでも言えば、王皇后としては戻らざるをえない。あるいは、延々と待たせ続けさせることでもいいかもしれない。

その方がより王皇后が怒りのあまりに幼児を殺めたというストーリーに仕立てやすくなる。

王皇后が引き上げたあとに、計画を知っている人間の手によって娘とされる幼児を殺害させる。そして、則天武后は李治とともに自室に戻ればよい。

その後、不在中に部屋に入ったのは王皇后だけであると証言させたことが事件の真相ではないか。これが筆者の考えである。

実の娘に手をかけていないが、それでも殺人を犯していることには変わりはない。

ただ、身分差のあった時代を考えると、ことさらに則天武后の酷薄さを強調するものではないだろうと思う。

もちろん、この考えを裏付ける又は否定する資料があるのかどうかを現時点で筆者は知らない。

一方、則天武后に関する歴史上の著述には、女帝誕生に対する非難や誹謗中傷をするもののが多くある。史料が編纂される過程で意図的に彼女が不利になるようになったものもあるだろうし、無意識的に不利にされた部分もあるだろう。

そのあたりの史料考証をすることは筆者の目的とするところではない。

自分の娘に手をかけるという点で記されている書物や資料は目にしてきたが「李治の娘を殺めた」という視点でこの事件を書いているものを目にしたことがないので、そういった視点を提示したことにおいて、一定の価値がある文章だと自負している。

いずれ則天武后の「小説」を筆者が書くときがきたら、この部分を採用できればと思っている。

あくまでも筆者の直感、私見に基づくものであることを踏まえて頂いたうえで、論評やご意見等あれば、忌憚なく以下メールアドレスにお寄せ頂きたい。

history.on.demand.seminar@gmail.com

以上


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