群像新人評論賞落選作品

読み返してみると非常に稚拙なのですが、誰かに見てほしいという気持ちが勝り、掲載させていただきます。

題名:アニメ、新型コロナウイルス、これから

アニメを批評することはどのようであろうか。脚本を書いたわけでもない、絵を描いたわけでもない、動かしたわけでもないにも関わらず、ストーリーが、画面の表象がどうこう言うのであるから。感想とは違い、さらにわけの分からない、的外れのことを言っているのかもしれないのだから。オタクから見ると、アニメを馬鹿にしていると捉えられることもある。知識人が自分のフィールドを語る上での道具としてアニメを利用しているのではないか、と。だが作品を消費するだけで満足するのがもったいないと感じるので、敢えて解釈を行いたいと思うのだ。思わぬ形で社会を映し出したり、文化を映し出したりしているかもしれない。それを「発見」するのだ。大澤真幸は『現実の向こう』で、オタク的な論文が増えて『新世紀エヴァンゲリオン』が第二次世界大戦と同様の大きなもののように語られている、と指摘していたが、小説であってもその制約は受けるはずだ。なぜその小説で論じるのかという理由は説明できるのか。松本清張の『砂の器』は社会の動きと関係しているから論じる対象にする妥当性があるのか。戦後の混乱にまったく無頓着で運よく生きていけた人々にとっては『砂の器』を論じられてもピンとこないのではないか。もちろん、戦後の社会の混乱は大規模で、オタクの共通の体験(アニメであればエヴァンゲリオンなど)に比べればずっと普遍性はあるだろう。だが大きな物語が終焉を迎え、インターネットの普及により分節化、島宇宙化が進んだ社会では松本清張の小説のような、創作物に現れる普遍性は失われているのではないだろうか。アニメを批評することで、少なくともオタク的なものの構造は見えてくるはずだ。普遍性を求めるのには限界がある。せめて一部分だけでも理解しようという方向だ。大澤真幸が『現実の向こう』において、オタク的な論文について「なんで俺がこんなこと知らなくちゃいけないの?」と疑問を挟んでいたが、社会のほんの一端でも掬い取っていくことに意味があると主張したい。アニメは登場人物(キャラクター)に萌えを感じることができるという点に特徴がある。キャラクターの見た目や動作に萌えを感じれば、多少ストーリーがつまらなくても見続ける動機になる。データベース消費で、萌え要素をキャラクターに見出し、ひたすら消費をしていく。ただし、萌えだけでアニメが成立するわけではない。日本はストーリーにこだわることでアニメに独自の発展をもたらしたのだから。ジブリアニメは萌えではない。新海誠の『君の名は。』は一般に広く受け入れられた。東浩紀は、『動物化するポストモダン』において、オタクたちはエヴァンゲリオンの世界観にあまり関心を向けておらず、キャラクターに萌えを感じて二次創作を消費することに熱中していたと分析しているが、『君の名は。』はストーリーの面白さと絵の美しさが好評であった。むしろエヴァンゲリオンの時期のオタクがたまたまそのような性質、萌えを全面に押し出した消費をしていただけではないだろうか。テン年代は、『君の名は。』以外でも、2011年の『魔法少女まどか☆マギカ』は衝撃的なストーリーで、2018年の『HUGっと!プリキュア』は子育てやLGBTなどの社会的な要素に切り込んだストーリーで話題になった。ストーリーが重要な要素になったのだ。萌えを主とする作品は『まんがタイムきらら』系の漫画のアニメ化作品に絞られていると言える。全体的に見ればオタクが一般に受け入れられつつあるが、キャラクターへの萌えを重視するオタクはその限りではないかもしれない。ストーリーに面白さを感じることが重視されつつある。「エモい」という言葉が浸透しつつある。「感動する」に類似する言葉であるが、アニメが二次元であるがゆえの美しさ+ストーリーの良さで「エモい」という場合が多いように思える。アニメ受容の仕方が変化している。その中からなにがしかのアニメを引っ張ってきて批評をするという難しさ。アニメ全体を語ることは到底できない。『らき☆すた』や『氷菓』などの、特定の地域が舞台で聖地巡礼が行われるようになったアニメであれば、コンテンツツーリズムの観点から論じることができる。押井守や細田守のアニメ映画であれば、作家性に注目して論じることができる。しかし、ライトノベルや漫画を原作とし、ほぼ原作を忠実に再現しているアニメは、なぜアニメとして論じる必要があるのか、という疑問が湧いてくる。答えとして挙げるとすれば、アニメは毎週決まった時間に放送され、その時間に同時に多くの人が同じアニメを見ることになるので、同時性はライトノベルや漫画より高いため、その点においてアニメとして語る価値があると言える。もちろん、ネット配信によって放映時間以外でも見ることはできるので、同時性が損なわれているという指摘もあるだろう。しかし、アニメは三カ月区切りで春、夏、秋、冬アニメと分けられ、それぞれの季節の「覇権」が議論される。この流れについていきたいと願うオタクは一定数いるので、三カ月スパンでの同時性は保たれると言える。また、アニメが単に親しみやすいという理由で批評に持ってきてしまう安易さがあるのではという指摘もあるだろう。しかし、あくまで小説や映画にこだわるという方針は、『批評空間』が終刊したことを見るに、批評の先細りを招くだけだ。多少下品、性的なものを含みつつ、高い芸術性、そして時折社会性を備えるアニメに現代の文化の可能性があると信じている。オタクだけがアニメを受容するとすれば、アニメはオタクという共同体の小さな物語である。しかし、テン年代はアニメの量が増えすぎてしまい、その小さな物語さえさらに分割されてしまい、軸が失われた。オタクの中で、「教養」として有名アニメは見ておかなければという感覚が失われ、自分の好きなアニメだけ見ていれば良い、という雰囲気が生じた。信じたいものだけ信じるという態度は、価値観の多様化の時代にアイデンティティを保つのには必要なものかもしれないが、視野狭窄を生み、異なる立場の人間への無関心をもたらし、社会が維持できなくなる危険がある。それでも現在、特に日本が国として崩壊しているわけではないので、ここで「大きな物語を復活させて連帯を」などと主張はしない。アニメの潮流は色々な傾向に分かれ、どれが支配的というわけでもない。アニメとしての完成度の高さと売れることには乖離があるが、売れれば正義という価値観も、売れなくても良い作品だから問題ないという価値観も共に相対化していく必要がある。ここでは、批評において全くといって良いほど注目されてはこなかったが人気になったアニメを見ていきたい。『ご注文はうさぎですか?』という、二期分製作され(2014、2015年)、映画も公開され、さらに三期の放送も決まったアニメがある。これは、とある町へ進学のためにやってきた女子高生のココアが、下宿先のカフェ「ラビットハウス」で働きながら、店主の娘のチノやその他の仲間たちと交流を深めていく物語である。内容としては日常系に分類され、キャラクターの容姿、衣装、声などは萌え要素を提供している。キャッチコピーは「とにかく、かわいい。」である。インターネットで検索しても、ファンによる感想ブログはヒットしても、論文や批評が見当たらない。かわいさ、萌えを感じながら見る以上の意味は持っていないのだろうか。社会の競争の激化は創作物にも影響を与え、決断主義的な物語が多く生まれた。その中で変わらない日常を延々と楽しく過ごし続ける、日常系と呼ばれる作品は一種の癒しとして一定の需要を集めた。その中で『ご注文はうさぎですか?』は特に知られている作品になった。だが、他の日常系よりさらに現実を忘れさせてくれる要素がある。それは物語の世界観だ。キャラクターたちは日本人のような名前を持っているのにも関わらず、町にはヨーロッパ風の建物が立ち並んでいる。そして、主人公が働く店をはじめとして多くのカフェが存在している。カフェもヨーロッパ的イメージの表象である。一千夜という登場人物の実家は和風喫茶を経営しているが、そこの制服は大正風の装いである。日本的表象は導入されながらも、近代以降の日本、すでにヨーロッパ化された日本のイメージである。全体としてヨーロッパのイメージを色濃く反映し、しかし日本人と思しきキャラクターたちが日常生活を送るという、極めてポストモダン的な風景が広がっている。そして作品に登場するのは少女ばかりであり、彼女らは学校に通ってはいるものの、物語として多くの時間が割かれるのがカフェで働いたり、遊んだりする場面である。ここには教室の外部の存在の重要性がよく表れていると思われる。物語の舞台が学校の場合が多いことが特徴の日本のアニメでは、玉井建也『幼なじみ萌え』によると、教室の外部を獲得することで話が動き出すパターンが多く見られる。『涼宮ハルヒの憂鬱』ではSOS団を作ることで、『ラブライブ!』ではスクールアイドル部を作ることで、登場人物たちは部活動という教室以外の居場所を獲得するのだ。しかし、近年は「ブラック部活」という言葉が生まれ、部活でのいじめで精神を病み、自殺する生徒も出ている。そのような中で、たとえ教室の外部としての部活動であってもユートピアでないことが視聴者の間で認識されつつあり、部活動を介さない日常系が必要になっているのではないか。『ご注文はうさぎですか?』においては学校での描写は少ないので、教室でのスクールカーストなどの人間関係の困難は描かれない。さらに教室の外部はカフェという「職場」であり、部活動の厳しさも存在しない。「職場」にも厳しさが存在するはずだが、主人公の一人であるココアはこのカフェの下宿人であり、「職場」は「家庭」でもあるため、厳しさは最大限軽減される。また、働いているシーンがあっても、従業員同士のおしゃべりに大体の時間が費やされ、接客シーンはほとんどない。その点でも職場の厳しさは失われている。さらに、「家庭」の血縁は薄いため「疑似家族的」であり、血縁のしがらみや苦しみからも自由なのである。また、作品の世界観自体ポストモダン的で、現代日本の困難も忘れることができる。そして楽しい日常がひたすら繰り返される。極めて現実逃避的だが、だからこそ愛されるのだ。宇野常寛の言葉を借りれば、強固な母性のディストピアである。この作品が2020年に三期目が放送されるというのだから、人気を支えているオタクたちがいかに現実逃避を求めているかが分かる。いや、むしろここまで癒しと現実逃避に特化した作品が生まれ、愛されていることが、日本社会の闇がとても大きいことを表しているのかもしれない。『ご注文はうさぎですか?』のキャラクター、世界観などを全て裏返せば「現実」が見えてしまうだろう。むしろ『ご注文はうさぎですか?』以外の日常系アニメが、少なくとも日本の学校をモデルにしている点において、「現実と向き合っている」と思えてしまう。そして、この現実逃避は『ご注文はうさぎですか?』の問題だけではない。宇野常寛は『うる星やつら』をはじめとする高橋留美子の漫画およびアニメから、日常系を「母性のディストピア」と分析していたが、男女の恋愛が描かれている点で、女性キャラクターだけによる、恋愛要素がほぼ存在しない、ひたすら日常が続く物語には適用できないと思われる。性愛を排除した場では、母親の胎内という隠喩は存在しないはずである。女性キャラクターだけの日常系、もっと大きな、オタク系文化の外に祖を持っていると思われる。そのため、私は日常系の現実逃避の祖を、国民的アニメと呼ばれる『サザエさん』(1969年~)に求めたい。このアニメは萌え要素がなく、男女のキャラクターがバランス良く存在してはいるが、深夜アニメの日常系と基本構造は変わらない。登場人物が楽しい日常を繰り返すのだ。キャラ萌えの概念は1990年代に生まれたため、それ以前から存在している『サザエさん』に萌え要素が無いのは当然である(近年は堀川くんという登場人物が「サイコパスキャラ」としてネット上で話題になるなど、ある種のキャラ萌えが侵入しつつあるが)。『サザエさん』は学校が舞台になることもあるが、基本は磯野家という家庭が中心になって物語が展開する。部活動も存在せず、会社で働くシーンもほぼない。そして作品の舞台は昭和の日本だ。親密なご近所付き合いがあり、三世代同居で、母親は専業主婦。理想化された昭和がここにある。それゆえにむしろ現実味がない。また、恋愛が明確に描かれることは少ない。主要人物は思春期ではないためであろう。男女の話は、磯野家が関わるささやかな日常のハプニングのパターンの一つに過ぎない。これらを踏まえると、『ご注文はうさぎですか?』は、サザエさんのオタク系文化版だと見ることができる。日常系が現実逃避で良くないといっても、『サザエさん』が強力な日常系、「国民的アニメ」として存在している以上、現実逃避は日本全体の問題ではないだろうか。放送開始当初は差別用語が飛び交い、登場人物は血の気が多く、バイオレンスな作風であったが、放送が進むにつれてマイルドになってしまい、それこそがアニメの日常系の原型を用意してしまった。『サザエさん』の呪縛に社会が囚われ続けた。ただし、最近は『サザエさん』の視聴率が下がっているので、オタク系文化以外では現実逃避からの脱却は進んでいるのかもしれない。日常系で現実逃避という構図はオタク系文化の中で保存、強化され、オタクを堕落させたと見ることができる。もちろん、日常系を批評的に描くアニメは存在する。最近では2015年放送の『がっこうぐらし!』が代表的だ。一話で日常系だと思わせ、実はゾンビが溢れる世界だったという話である。主人公は幻覚が見えており、通常の学校生活が送れていると錯覚している。周囲はそれに話を合わせている。これは、日常系が持つ楽しさの不気味さを露わにしている。『がっこうぐらし!』は萌えと日常系を主に供給する『まんがタイムきらら』系の作品であるため(『ご注文はうさぎですか?』の原作もここで連載)、その雰囲気への強烈な皮肉ととることができる。もはやオタク系文化でさえも現実逃避が許されない。日常系の欺瞞は明らかにされてしまったのだ。しかし、その後も日常系作品は絶えていない。欺瞞は承知で楽しい日常を描き続けざるを得ない日本の停滞、現実逃避でとりあえず癒されれば良いという想像力の行き詰まりに陥っているようだ。それはそれでとても美しい。ひたすら苦しさのない日常の美しさを煮詰めることに問題はないだろう。そして原作の『ご注文はうさぎですか?』では、リゼは大学進学、チノは高校進学が決定した。永遠に日常がループする構造ではなかったのだ。もちろん楽しい日常は続く。しかし、月日が経つという緩やかな変化が導入されているところで、サザエさんの呪縛から逃れられるかもしれない。日常の崩壊で無理やり現実逃避を終わらせるより、いずれは変化して物語の終わりが来ることを緩やかに伝えてゆく方が受け入れやすい。ここで他の日常系アニメについても言及する。『ゆるゆり』(2011、2012、2015年)は、原作が「コミック百合姫」に連載されており、題名の通り「ゆるい百合」なのである。ここにおいて、女性同士の恋愛を描くことによって、現実の人間関係、人との結びつきに誠実に向き合っていると言うことができる。キャラクター造形は記号的ではあるが、恋愛要素によってリアリズムが感じられるのだ。また、一期における、主要キャラクターの京子に関するエピソードが出色である。京子は普段は多少の道理が通らないことでも勢いで押し通す性格で、彼女が中心となって茶道部の部室を半ば強引に占拠し、「ごらく部」という部活を結成している。周囲は京子に振り回されながらも楽しく日常をすごしている。しかし、とあるエピソードで、京子は階段から落ちて頭を打ち、真面目な性格に変化してしまう。京子は占拠した部室を立ち退くことを主張し始め、ごらく部は存続の危機に立たされる。主人公たちが京子の頭を殴って元に戻すことで、また日常が戻るが、これにはひやりとさせられる。一人の「キャラ」が変わっただけで日常に亀裂が入るという事実。日常がいかに脆いかを暗示しているようだ。子どもたち、特に学生たちが、自分に課された「キャラ」を演じ、そこに耐えきれなかった者は排除されていくという、『ゼロ年代の想像力』で宇野常寛の主張する「サヴァイヴ系」の流れは、日常系の中でも表れてしまうのだ。さらに、二期においては、日常の繰り返しに関する批評性が込められたようなエピソードがある。その話では、ごらく部の部室からタイムマシンが発見され、主人公のあかりが、一年前(中学校入学の日)へタイムスリップしてしまう。あかりは、入学直後の自分の行動が、自分の影を薄くする原因になってしまったという後悔があり、過去の自分に介入することで「影が薄いキャラ」を変更しようと考える。しかし、姉の説得や、過去を変えてしまったらごらく部のメンバーとの楽しい日々が失われてしまうかもしれないという不安から、介入しないことを決心し、元の時間軸へ帰還する。ここでは「変わらない」というモラルが肯定的に描かれる。運命を受け入れて置かれた場所で生きようという現状肯定の感覚である。タイムマシンで「一年前」に戻ったのではあるが、アニメ内では明らかに「二年」経過しており、この話の前のエピソードで、「二回目」の修学旅行に行き、宿泊先でデジャブを感じ、お土産に買った木刀が、実は「一回目」のときも木刀を買っていたので、部室に木刀が既に一本飾られていることに気づいてしまうという展開があり、批評的な感じがする。「一年前」と言いながら、実際は二年経っており、その歪みになんとなく気づきながらも放っておく。変わらないでいることは、欺瞞なのかもしれない。歪んだ時空の中でタイムマシンを使うのはさらに歪んでいる。しかし、タイムスリップの話の最後で驚きの事実が判明する。実はタイムマシンの話自体、京子が創作した紙芝居の中の話だったのだ。すなわち、あかりはタイムスリップなどしていなかった。この時点で、批評性も何も、全てはひっくり返ってしまい、日常系が戻る。深読みしようとする視聴者を笑い飛ばすかのような展開だ。結局、日常は壊れないのだ。そして女性同士の恋愛によるリアリズムを確保し、視聴者を気持ちよくさせながら、三期分も製作されたのだ。記号的表現でありながらもいささか外していくことで飽きさせない。しかし強力に日常を保存する。とても匙加減が上手いアニメなのだ。新型コロナウイルスの流行は、日常系の欺瞞を再び露わにしてしまった。もはや学校に通うことも感染リスクで、学校生活、日常生活そのものがフィクション化してしまっている。東日本大震災で日常が壊れたときは、原発事故の放射能汚染を別とすれば、破壊の後は再生する一方だった。しかし、新型コロナウイルスの流行は、いつ終わるともしれないものであり、全ての人間が当事者になる。日常のもろさが全国民的に自覚されてしまった。すると、欺瞞を承知で続ける日常系も、とうとう限界がきてしまうのだろうか。新規で日常系作品を立ち上げることは難しいに違いない。

ここまでは日常系アニメを追ってきた。次は非日常を織り込んだアニメについてだ。ファンタジーは物語の展開の幅を大きく広げることができる。そして日常とファンタジーを混ぜている作品で、大ヒットした『君の名は。』(2016年)と『天気の子』(2019年)は再検討する必要がある。『君の名は。』は震災を「彗星の落下という過去の悲劇」の形で表し、ボーイミーツガールの背景にしてしまった。しかし震災を乗り越えるぞという明るさを描くことができているので問題ないのかもしれない。とにかくまっすぐな物語のため、敢えて批判するような要素が見当たらないといえる。異性愛はやはり強い力だ。青春とタイムリープは『時をかける少女』でも使われているが、そのようなパターン的な要素を美しく再構成しているため、「テンプレ」と批判することも憚られる。現代は、物語のデーターベースはほぼ出尽くしてしまっている。もはやどのようにデータベースを組み合わせるか、いかに上手く見せるかが重要になっているので、新海誠はそれが上手いと感嘆するばかりである。口噛み酒や、胸が揺れるシーンや、ヒロインの家庭的な面であるとか、フェミニストが不快に思うかもしれない、思春期男子的な想像力があり、そこが批判される原因にはなる。だが、その感性こそが共感を呼び、作家性を際立たせるので、ジェンダーの観点で批判することも短絡的に思える。

RADWIMPSの音楽に合わせて物語を作ったために、長いミュージックビデオだと言うこともできるこの二作。場面が次々と移り変わり、見る人を飽きさせないテンポ感はまさにミュージックビデオである。スマホ世代の若者は、映画館で長い時間辛抱できずにスマートフォンを見てしまうことがあるという。もはや映画を見ることすらすぐに退屈してしまう時代なのかもしれない。『君の名は。』と『天気の子』のテンポの良さは、飽き性なスマホ世代の若者たちを映画につなぎとめておくことに非常な威力を発揮したのだ。今後の映画、少なくともアニメ映画は、興行的な面を考えると、新海誠作品のテンポ感を取り入れるか、もしくは対抗するかを考える必要があるだろう。『天気の子』は『君の名は。』があってこそ生まれた物語である。前者の登場人物が後者に脇役として登場するという世界観の連続性だけではない。『君の名は。』は運命論で動く世界で、『天気の子』は運命を超えて動く世界だという点に注目する必要がある。『君の名は。』は少年瀧と少女三葉の入れ替わりが起こり、彗星の落下で結びつきが途切れてしまっても、組み紐、口噛み酒などの繋がりを感じさせるアイテムのおかげで二人は出会うことができる。記憶が無くなった後も、心の中に何かが残っており、「ずっと誰かを探している」という風に、見えないもので結ばれているようであり、最終的に再開することができる。これは運命である。『天気の子』においては少年帆高と少女陽菜が結びつく必然的なものはない。むしろ陽菜は降り続く雨を止ませるために人柱にならざるを得ない、つまり死という運命が待っているのだ。しかしここで帆高は抵抗する。警察から逃げ、陽菜を助けに鳥居をくぐる。「世界よりも、俺は陽菜がいい」。「天気なんか狂ったままでいいんだ」と叫ぶ。陽菜を救った結果としての止まない雨により、東京は水没する。ここで決断を後悔しかけるが、気を取り直して「大丈夫だ」と言う。運命に抵抗して世界よりも女の子を選ぶという衝撃。『君の名は。』で運命を描いたゆえに、『天気の子』でそれを覆してきたことへの衝撃は大きい。この二作品は、ボーイミーツガールの形を借りて、人との繋がりの大切さ、人と人とが結びつくことでこそ世界が変わる、ということを訴えている。しかし、新型コロナウイルスの流行により、人との接触はリスクが高まるということが明らかになってしまった。そのような中で、今後も人との繋がりを訴える作品が説得力を持つかが課題になってくるだろう。そして個人と個人の結びつきで世界が変わるという論も怪しくなってくる。新型コロナウイルスの流行に際しての、政府の「世帯ごとに」マスクを給付するという方針は、個人よりも集団、家族を重視する「日本的価値観」が根強く残っていることを暗示している。その価値観の上に個人同士の繋がりを喧伝したとしても、結局は集団や家族へと回帰してしまう。細田守『サマーウォーズ』のように、家族で世界的危機に立ち向かう作品が、より説得力を持つようになる時代へと変わるかもしれない。その中で、あくまで家族的なものを薄めている新海誠(『君の名は。』では母親の不在、『天気の子』では親自体の不在)は何を描くのか。やはり運命を超えるのならば、社会的な制約の雰囲気も超え続けるのだろうか。

続いては『氷菓』(2012年)である。日常系だと思って見るとテンポが違うので戸惑う。ミステリ絡みの、リアルさのある日常を描いている作品だ。丁寧に心の機微を描写していてグッとくる。千反田えるの瞳の大きさが絶妙で、瞳の輝きの美しさも興味深い。人間描写がじわじわと心を温めてくれるような印象を受ける。ミステリと人間関係が深く関係しているのが興味深い。ミステリ映画の犯人予想のエピソードや、文化祭の物品盗難のエピソードなどだ。背景事情が分かったとき、心に傷をつけられたような気持ちになるが、その苦味が魅力でもあると思った。青春はそういう苦味もつきものだから。千反田の「気になります!」によって受動的に事件に関わることが多い奉太郎であるが、文化祭では料理対決の材料を調達する上で積極的な場面があり、これは受動から能動への成長の過程ととることができる。ただしその後全て能動的になったわけではない。初詣、生き雛祭りへの参加は千反田の電話によるものだ。受け身でありつつもなにがしかに貢献するという姿勢に面白さがあるのではないかと感じる。能動的になることを必ずしも「成長」として描かないところが面白い。千反田が奉太郎を灰色から薔薇色へ連れ出してくれる、という構図を批判的に見る人もいるだろう。千反田の母性的なものの庇護の下で全てが動いていくと見ることもできてしまう。もちろん、千反田が知らないところで奉太郎が苦みを引き受ける描写(文化祭の事件の真相と奉太郎の取り引き、バレンタインの事件の顛末)があるので、千反田の母性がどうこうで批判するのは誤りだと主張できるが。「母性のディストピア」であるような、違うような、絶妙な部分を攻めている。リアルな日常なので、あえてアニメにする必要があったのかと考えてしまうが、回想シーンでアニメ特有の表現が行われているのでそこが理由だと思った。また、やはり千反田の瞳の効果が大きくなるのはアニメだろう。「気になります!」で輝く瞳...。これはアニメでしか伝わらないと思う。しかし、絶妙な大きさとはいえ、他の登場人物に比べれば千反田の瞳は際立ってアニメ的な大きさであり、これが視聴者を攪乱する。千反田は萌えの対象になる。だが先に述べたように、リアルさのある日常なので、瞳の大きさも「気になります!」のセリフもあくまで取っ掛かりであり、物語としてもっと見ていくと印象が違うだろう。ミステリ映画の犯人予想を依頼されたとき、探偵をするという超越への憧れを奉太郎は一瞬抱く。依頼者に「期待している」と言われて、自分の存在を「過信」しかける。しかし、自分の予想は実は間違っていたと知り、依頼者の口車に乗せられていたことにも気づき、超越への憧れは失われる。結局、何者にもなれない場合が多く、それを受け入れて生きていくしかないのだろうか。

次は『化物語』(2009年)についてだ。キャラ萌えで楽しむこともできれば、映像が織りなす不思議な世界観を楽しむこともできる作品なのだろうが、どちらかというと男性向けのような話のようである。ブルマやスクール水着などの萌え要素が出てくるところが男性向けであると判断できる理由だ。2020年現在、花澤香菜の「恋愛サーキュレーション」(9、10話のオープニング)の元ネタのアニメとして認識されることが多くなっているように見えるが、アニメ表現としての面白さ(実写をコラージュする、様々な絵柄を使用するなど)がかなりある。また、オープニングが各話の主要人物のキャラクターソングになっているため、誰に注目して視聴すれば良いのかが分かりやすく、その点で演出として素晴らしい。時代と共に埋もれていくには惜しいアニメだ。阿良々木が八九寺に暴力を振るう描写は、ふざけてはいるもののあまり良くないのではと思えてしまう。男子高校生が女子小学生を殴るとは、男性的暴力性が「女子ども」に向けられており、傷つく人もいるように見える。ただし、後に八九寺は実は幽霊だったと明かされるため、男性対女性の問題は立ち消えることとなる。それでもこのような描写については考えておく必要があるだろう。

 次は、『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』(2010、2013年)について考える。このアニメは記号的表現でしかできないことをしている。妹が頭脳明晰、陸上競技の有力選手、読者モデル、そしてエロゲ好きという過剰なまでの設定は、アニメだからこそ説得力がある。現実にありえなくても、アニメならば問題ない。記号的でご都合主義であるがゆえに、ある話ではコミケでオタク系文化の諸相を映し、またある話では懸賞小説の入賞とそれに関してのアニメ業界の描写を行い、これまたある話では陸上選手としての葛藤を描くことができ、話がバラエティ豊かで飽きさせない構造を持つことができている。さらに、記号的だからこそ、兄妹で結ばれるという倫理的には決して称賛されないであろう結末も受け入れられる。これは、『中二病でも恋がしたい』(2012、2014年)にもいえる。このアニメはヒロインがゴスロリを着ており、中二病で、他のキャラクターも中二病や元中二病が多く登場するなど、キャラ造形が記号的である。記号的であるがゆえに中二病の肯定=成熟の拒否が受け入れやすい。『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』ではまた、原作よりもさらに細かく秋葉原の店などを書き込むことで、ゼロ年代の秋葉原の風景を保存することに成功している。とある時期の秋葉原のアーカイブとしての機能を果たしているのである。そしてこのアニメにはオタク系文化と原宿系文化の交差点が描かれていると思われる。主要人物の一人の黒猫は、ゴスロリ(ゴシック&ロリータ)を着る少女だ。初登場した際は、自身の好きなアニメのコスプレとしてゴスロリを着てくるが、この場面ではコスプレとロリータファッションを混同している。作者がオタク系文化の文脈で原宿系を引き込んでしまったことによる違和感のようだ。しかし、後のエピソードで、それとは別のロリータ服を着てきたときに、「私服」だと答えている。ここにおいて、黒猫はコスプレとロリータファッションを区別していると分かる。ロリータファッションはコスプレではないのだが、コスプレだと誤解されがちである。オタク系文化をふんだんに盛り込んだアニメの中で、ロリータ服を着る登場人物がコスプレか私服かを分けて考えているという描写は、原宿系文化(の中のロリータファッション)とオタク系文化を混同することによる誤解を解く助けになるだろう。ロリータファッションとオタク系文化についてもう少し見ていく。『アイドルマスターシンデレラガールズ』に登場する神崎蘭子はロリータ服を着ており、ロリータブランドのBaby, the stars shine templeは、「神崎蘭子コラボドレス」を発売した。この場合、神崎蘭子というキャラクターの服を模したものをそのまま発売したのならば「コスプレ」衣装となるが、「コラボドレス」のため「ロリータファッション」であると考えられる。この事例では、コスプレとロリータファッションの近さと、微妙な違いが分かる。ロリータファッションを着る人たちにとってはファッションであっても、その他の人にとっては、アニメで見たような服となればコスプレと認定されかねない。もちろん、アニメによってコスプレだけでなくロリータファッションへと導かれる人もいるだろう。ロリータファッションはオタク系文化と結びつくことでより多くの愛好者を獲得しているのかもしれない。そしてアニメなどのオタク系文化の文脈でロリータ服を着たキャラクターを出す場合は、製作者はそれが原宿系だということに自覚的になり、注意して描く必要があると思う。『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』へ戻る。このアニメの一期は、テレビ版最終話と配信版最終話(三話分ある)で展開が違う。テレビ版では、主人公の妹の桐乃は陸上の強化合宿のためにアメリカへ旅立とうとするが、直前で取りやめる。配信版では、アメリカへ行ったもののスランプに陥った桐乃を主人公が迎えに行く。この場合、どちらがオリジナルであるか。二期でアメリカに行っていたときの桐乃のライバルが来日するエピソードがあり、もしテレビ版しか見ていないと話がつながらない。ベンヤミンのいうアウラは、最も先に放送されたテレビ版に宿るはずであると思う。しかし、ストーリーで考えると配信版が正式なものとなってしまう。アニメにおけるアウラとは一体何なのかを考えさせられる事例である。ここから考えが広がる。原作のライトノベルにおいて、主人公が別のヒロインと結ばれる「ルート」が描かれている。また、『僕は勉強ができない』というマンガでは、主人公があるヒロインと結ばれた後、別のヒロインと結ばれる「ルート」の執筆を全てのヒロインに対して行うことが発表された。これにより読者は、主人公がそれぞれの読者自身の好きなヒロインと結ばれる「ルート」が正式な展開だと思うことができるのだ。東浩紀は『動物化するポストモダン』において、二次創作文化の下ではオリジナルとコピーの区別が消失したと主張した。しかし当時はまだ作者自身によるオリジナルは一つだけであった。たとえ別の展開を書くとしても、斎藤環『戦闘美少女の精神分析』によると、同人誌で出していた。しかし商業展開での出版、連載の中での正式な告知となると、作者でさえオリジナルにこだわらないということになる。作者がアウラの消失を推進する時代になろうとは、誰が想像しただろうか。「ルート分岐」というゲーム的システムが多くの人の思考を変えているのだろう。ゲーム(特にギャルゲーやエロゲ)には複数の「ルート」が存在する。自分の最も好みの展開がそのプレイヤーにとってのオリジナルになるのだと思う。そして彼ら・彼女らが創作する側になるとき、複数の「ルート」を持つように作る方向へと向かうのだろう。オリジナルがないはずであるがオリジナル的な性質を持つに至った作品もある。『スクールデイズ』である。ゲームが原作のこのアニメは、バッドエンドをアニメ版の最終回として提供した。しかし、その最終回は現実の殺人事件を想起させるとして放送休止となり、またその内容の衝撃から、ある意味ネタとしてネットで人気となった。現在に至るまで『スクールデイズ』といえば「主人公が最終回で殺されるアニメ」という認識である。ここでは後発であるはずのアニメ版が、アウラ的なものを持ったのだった。インターネットでネタと化すことで、その展開がオリジナルとして永遠のものを獲得する場合もあると言える。これは、ネットというコミュニケーションがゲームというコンテンツを上回った例である。

ここからは、アニメとリアリズムについて考えていきたい。現実の人間と同じようにアニメのキャラクターを動かしていくとき、リアルなアニメというものが誕生する。京都アニメーションの『響け♪ユーフォニアム』や『聲の形』、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』などが例だ。細かい仕草、感情の機微をもアニメ―トし、人の怒り、妬みなども正直に描いてしまうことで、プラスの感情も引き立つ。そして風景も美しい。全体として「きれいなアニメ」になる。「きれいなアニメ」は、従来のオタクではない層に受け入れられるだろう。そこには過剰な萌えはない。ハーレムもない。「キモい」要素は全くない。京都アニメーションのようなアニメが広まれば、アニメはメインカルチャーのようになるだろう。ヴァイオレット・エヴァーガーデン』では、感情が乏しい薄幸の少女が主人公である。『Air』や『エヴァンゲリオン』など、90年代後半からゼロ年代にかけてのキャラクター造形の一つとしてよく見られるヒロイン像だが、従来ならば男性を無条件に承認して彼らに生きる意味を与える、もしくは男性に所有されるなど、マチズモを満たすためのキャラクターとして設定されることが多かった。しかし、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』(2018年)では、少女が主体の成長物語であり、唯一所有関係を想起させる少佐は既に死亡している。少佐が失われることで、マチズモは現れない。このようにキャラクター造形の点でもテン年代は「きれいなアニメ」が登場した。マチズモがある、レイプファンタジー的な、男性向けのオタク系文化はどうしても「キモい」のそしりを免れないだろう。ただし『君の名は。』や『天気の子』のように、性的シーンを笑いでさらりと流す技術を使うことで、「キモい」は思春期のあるあるとして大目に見られるだろう。そしてそれはリアリズムではないが、笑いで流せるという記号的表現こそ、「きれいなアニメ」ではないアニメが生き残る道だと考えられる。

 ギャグアニメについて考えていく必要がある。『生徒会役員共』は下ネタに満ちているが、基本ギャグ調なので、過剰なセクシュアリティを感じさせない。たとえ女性キャラクターの胸の大きさが示されようと、すぐさま他のキャラクターの「貧乳ネタ」の文脈に回収される。男性主人公は多くの女性キャラクターからモテるものの、まずギャグがあるため、視聴者が自分の境遇と比較して惨めな気分になることは避けられる。『アホガール』や『手品先輩』などの、15分間のギャグアニメはさらに顕著だ。時間が短いのでエピソードは凝縮されており、とにかくキャラクターはテンプレートな行動、記号的な動きをとる。たとえ性的な表現があろうと、恋愛描写があろうと、余韻なく笑いに変えられてしまう。種々の欲望は瞬間的にかき立てられるどころか、発生する前に終わるようでもある。この瞬間性が、メタ的な視点へと視聴者を導く。感情移入することなく、頭を空っぽに楽しく、精神的に距離をとって見ることができる。入り込み過ぎると、感想を言い合う機会があるときに意見の対立で傷つけ合う危険がある。作品との適度な距離感を考えたとき、自己を失うことが怖い視聴者にとっては、ギャグアニメは最適だと考えられる。『ポプテピピック』はセクシュアリティの無化という点で大変な衝撃である。一応少女のキャラクターではあるが、女性的な部分はない。また、声優が男性であっても女性であっても違和感がない。脱構築という感じがするアニメだ。全ての意味を解体していき、笑いなのか何か別のものなのか。キャラクターの声が変わっても同一性が維持されることが衝撃だ。『映像研には手を出すな!』も出色である。これもセクシュアリティの無化なのである。キャラクターの造形、声優の声、いずれも中性的である。しかし、アニメを作るアニメであるという性質上、大きく広がる想像力で、視覚的に楽しむことができるため、性的なもので興味を引く必要がない。感情移入したい人にとっては、記号的表現よりもリアリズム的作品が心に響くだろう。オタク系文化において、リアリズムが推し進んだのはテン年代であろうか。「オタクが大衆化した」と言われる背景にはリアリズムの伸長があるかもしれない。2020年代は、「アニメオタク」として言われてきた存在は解体された、と宣言する必要がある。アニメの本数はゼロ年代以降、激増している。もはや全てのアニメを見るような「アニメオタク」は存在できないだろう。ただ「それぞれのアニメが好きな人」が存在するだけである。しかし「属性」としてオタクを見る動きは未だに残っているように見える。Twitter上の「オタクvsフェミニスト」の構図や、「オタクくんさあ…。」のようなネタが例である。「オタク」とラベリングしようとしても、好きなオタク系文化の事物や内容によって趣味趣向はかなり違うはずだ。「オタク」と言うときに、マイナスイメージが未だについて回る。Twitterでは、オタクを擁護して他の属性(「陽キャ」、「ウェイ」など)を攻撃すると「バズる」、またオタクの悪い所を自虐的に呟いても「バズる」。「オタク」だとラベリングされることに、誇りを感じつつも不安にもなるというねじれた気持ちが根底にあるのかもしれない。もっと自分の好きな作品のことを大切にし、論戦にむやみに参加しないようにすることが平和につながるだろう。ラベリングされることでオタク同士の連帯意識を高め、お互いの好きな作品を広め合うなど、集団の中で自己の拡張を図る方向へ行けば、島宇宙化するとしても、自分だけの世界という過度な島宇宙化を防げるかもしれない。しかし、結局属性への誇りと不安の混ざり合った不安定な気持ちから、他の属性への攻撃に転じてしまう危険性がある。それを考えると、もはや自分だけの世界に閉じこもった方が良いのかもしれないとも考えられる。

新型コロナウイルスの流行の影響により、2020年4月から放送予定のテレビアニメのいくつかが延期された。ドラマが俳優の感染リスク等で製作中止になることは分かるとしても、二次元も三次元の影響を受けてしまうという事実。アニメ制作は国内だけで行われているわけではない。中国や韓国に映像の一部を委託して製作することが多い。それゆえに、中国から感染が広まった新型コロナウイルスにより、中国が作る部分が滞ってしまい、放送に間に合わなくなってしまったのだ。創作がグローバル化の影響を受けていることを改めて感じさせられる事態である。国内で全て賄えるほどアニメ制作の人材が育成されていないという事実も感じさせられてしまい、「クールジャパン」などと言ってアニメをアピールしている割には将来への見通しが暗いように思える。アーティストが発表の場を失っているにも関わらず補償がないという事実は、文化は軽視されているようだという不安を感じさせる。アニメも安泰ではないかもしれない。虚構は現実に敗北するのか?それが現実なのか。虚構を語ることの困難さが改めて浮上してしまう。だが、新型コロナウイルスの致死率から見るに、人間が全て死ぬわけではなく、世界は続いていく。文化は必要で、オタク系文化も続くだろう。その中で新型コロナウイルスの流行を忘れずに生きていくことになり、政治、経済、社会が変わっていくことになるはずだ。そして創作も変わっていく。再び人との繋がりの美しさを訴えるか、自分の殻に籠る「傷つけあうくらいなら何もしない」という90年代的モラルに戻るのか。オンラインで様々なことができることが明らかになってきた後に、学園生活は復活するのか。もし変化があるとすれば、当たり前のように学園生活が描けなくなるのではないか。そして、思春期の少年少女が主人公のアニメが多いという現状に変化が起こるのか。アニメを見る層は幅広くなっているので、ひねくれたものよりも、前向きなものが受け入れられていく気がする。

新型コロナウイルスの流行は、人々の政治への意識を呼び戻すきっかけとなるかもしれない。自粛要請で、政府は責任を取りたがらず、補償はなかなかはっきりしなかった。緊急事態宣言が出された後は、不用意に外に出ると、いや必要な外出であってもバッシングの対象になってしまった。感情でなんとなく支配される、同調圧力で支配されるという状況だ。対応の遅れはこのままでは駄目だ、声を上げなければ、という意識を高めるきっかけになった。文句ばかり言わずに自分のできることをしようという、嗜めるような意見もあるが、もっと声を上げて助けを求めなければ何も変わらないという考えも広まりつつある。ネット上でどちらの意見が多いかははっきりしないが、政治や社会のことから目を背け続けてはいられないという意識の高まりは感じる。アニメで政治や社会のことを考えていくとなると、代表的なものは押井守『機動警察パトレイバー2 the Movie』(1993年)である。元自衛隊の男が打ち込んだミサイルが原因で、警察と政府が対立し、自衛隊が動き、まるで東京は戒厳令が敷かれたようになる。しかし、実際には日本には戒厳令など存在しない。そのため、人々は通常通り出勤し、電車も満員である。警察上層部は楽観的で、そのことを登場人物の一人に咎められる。「だから遅すぎたんだ!」と。首謀者の男でさえ、町が現実だと思えないと言う。日本は平和ボケで、後方で不正義の平和を得ていると登場人物の一人が言う。政府は新型コロナウイルスに対して油断していたのではないだろうか。何とかなるだろうと、中国でウイルスが流行していたのにも関わらず入国禁止をせず、自粛要請が限界なため、決定的な対策を打てない。「布マスク二枚配布」という政策をなぜか推進する。迷走している。人々の心については、『ユリ熊嵐』(2015年)から考えさせられるものがある。隕石の落下をきっかけに全世界のクマが凶暴化し、人間を襲い始めたため、「断絶の壁」を作ってクマと人間が隔てられた世界の話。人間の側の高校では、クマに襲われないために、友だちと仲良くし、目立たないように「透明」になることを推奨する。しかし、女子生徒の一人の紅羽は、同級生とお互いに「スキ」という気持ちを抱き合っているため、「透明」になることを拒否する。しかし「透明」にならないと排除するという仕組みがあり、「排除の儀」で紅羽はいじめられてしまう。「断絶の壁」を越えて主人公に近づくクマの銀子。銀子は幼い頃に紅羽と一緒に暮らしていた。彼女への「スキ」を諦めないために会いに戻ってきたのだ。紅羽が「スキ」だった同級生が他のクマに食べられるのを目撃しながらも、見殺しにしてしまう。自分の「スキ」のために。いじめられている紅羽を守り、同級生の遺言によって二人は友だちになる。しかしそれもつかの間、見殺しにしたことが発覚し、銀子は紅羽に撃たれてしまう。その後、銀子に関する記憶を失っていた主人公は記憶を取り戻す。実は生きていたクマは暴走して紅羽を食べようとするが思いとどまり、人間たちに殺される覚悟をする。そこへ紅羽が割って入り、「ユリ裁判」によって自分がクマとなり、銀子と共に生きることを選択する。クマを新型コロナウイルスと考えてみよう。クマを恐れるがゆえに過剰に友だちになることを意識し、和を乱す者を排除しようとする高校生たち。彼女らの姿は、自粛要請下で外出する人を、それぞれの抱える理由も考慮せずにバッシングする人々と重なる。友だちになるというのは、自粛ムードの同調圧力だ。「スキ」は、やむを得ない外出だ。生活の糧のための仕事などの合理的にやむを得ない理由と、大学が始まらないので帰省する方が賢明だ、などの判断に迷う「やむを得ない」理由にあてはめられる。「スキ」が抽象的なので、色々な理由を含んだやむを得ない外出に重ね合わせやすい。そして「新型コロナウイルスとの戦争」という表現を使う人への問いかけにもなる。戦争するとしたら「勝つ」という気持ちなのだろうが、ウイルスを撲滅することはほぼ不可能だ。新型ウイルスは今後も現れ続けるだろう。したがって、最終的には人類はウイルスとの共生を目指すことになる。そのような点で、クマを理解して共に生きることにした主人公の心からは学ぶべきものがあるだろう。紅羽も、最初は「私はクマを許さない、私はクマを破壊する。」と言っていた。それが段々とクマを理解する方向へ行ったのだ。コロナウイルスへの対応を巡って考え方が異なってしまった人々をそれぞれ人間とクマに当てはめることもできる。コロナウイルスを非常に警戒する人と、致死率が低いというデータを根拠に気にせずに外出する人。若者と高齢者。政府と休業要請された企業…。それぞれ言い分があり、「断絶の壁」のような絶対に譲れない主張の違いがあるだろう。しかし、それでも歩み寄ることができるかもしれない。「断絶の壁」を越えようと考える人がいるならば。クマになるという描写から、転向は責められることではないことが分かる。『ユリ熊嵐』のように、価値観や主張の違いを乗り越えてほしい。この作品は、女性キャラクターのみで構成されている。異性愛ロマンスが苦手な人でも抵抗なく受け入れられるはずだ。クマも少女に変身してやってきているので、一見同性愛のようである。しかし、実際は、性別のみならず種族を超えた結びつきなので、色々なセクシュアリティの人に届く可能性が高いと考えられる。過剰な連帯も、深刻な対立も推奨しないのだ。クマと人間が戦っていたり、クマが人間に化けたりと、学校が描かれてはいるが、日常風景とは少し違う。そのため、日常が失われた後の社会であってもある程度普遍性はあるだろう。アニメが政治的、社会的なものをどんどん作っていくべきかどうかは簡単には判断できない。方法はいくつかある。思春期向けアニメが多い中で、青春を褒め称えるという流れがあり、そこに学校やスクールカーストなどの、権力に対する主張を織り交ぜていくことで社会と向き合っていく方法がある。もしくは、大人向けアニメで直接社会のことを描くという方法もある。もしくは、アニメだからこそできる記号的な表現で一から世界観を構築し、そこから社会について言及する。もちろん、現実を忘れるためのアニメも必要だ。人間はいつでも現実と向き合っていられるほど心は強くない。だからこそ創作物があるとも言える。そして最も虚構である二次元。その意味を考えながら、アニメを見たり作ったりすることが必要であろう。

これからのアニメやその他オタク系文化にも、社会や個人を少しでも変化させる力はきっとある。それを批評して新たな切り口を見つけることも使命だと思う。思いがけない価値観の創出につながるかもしれないのだから。

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