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分類するなら曖昧なほうがいい

「半袖でちょうどいいな、春をとばして夏やな」と思っていたら夜になって「寒いな、冬やん」となる。冬物まだ整理してなくてよかった、と自分のだらしなさを褒めてやる。


発達支援の現場で働いていた時のこと。
ある自閉症スペクトラムの子とコミュニケーションを図ろうとしていたら横で見ていた先輩職員に「その子は自閉症だからそんなしつこく話しかけたらダメだよ」と声をかけられたことがある。「自閉症だからこうする」という関わり方は実際のところない。正確には無いわけではないけれどそんな安直な方法ではなくて、例えば「自閉症でこういった性質をその子は持っているから、その関わりよりもこの関わり方のほうが負担が少ない」といった分解が必要になってくる。その場合にしても「その子」に合った関わりが前提になってくる。

自閉症はその子を形成する数ある要素の一つに過ぎない。けれど、ぼくたち人間はそれが全てかのように見てしまう癖がある。障害、ひとり親、ひとりっ子、容姿、職業、性別、出身…その子の全てではないことは分かっているのに、引っ張られてしまうことがある。

カテゴライズをあいまいに、けれど解像度を上げて

ぼくたちはどうしても、物事をタイプ分けしてカテゴライズする。それ自体が悪いわけではないしたくさんの事象を把握するのに必要な能力ではあるけれど、固執してしまうと足かせとなる。

物事を認識するためには分類して管理することが必要ではあるけれど、認識だけでなくさらに理解することが必要なんだろうなと思う。砕いていうと「ちゃんと知る」ということ。

そのためには、分類を曖昧にすることが大切なんじゃないかなと思っている。


突然ですが、先ほど親戚のおばちゃんからこんな写真が送られてきました。

「GWにお花畑を見に行ったんか」「晴れているな」というくらいしか認識できないです。

もう一枚。拡大写真があります。これで、花の種類がわかります。


グーグル先生に画像検索してもらって「baby blue eyes」と呼ばれている「ネモフィラ」というお花だということがわかりました。これで認識がただのお花畑ではなく「ネモフィラのお花畑」になりました。

ここでは「晴れた日にネモフィラって花を見に行ったんだな」というくらいの認識です。

場所を聞くと舞洲シーサイドパークってところらしいです。
この舞洲シーサイドパークはもともと舞洲ゆり園という所だったらしいけれど台風でゆりがダメになっちゃったらしくて、新たな名所として生まれ変わったそうです。

「台風で一度ダメになったけど新しく生まれ変わった」という要素が加わって、快晴が映える写真に感慨深さを感じます。そのストーリーも含めて楽しんでいるんだろうなと感じることができます。baby blue eyesという英名も新しく生まれた赤ん坊のメタファーのようにも感じられます。


ぼんやりと認識したら「ただのお花畑」で
分類すると「ネモフィラのお花畑」だけど
分類を増やしてそれぞれの要素の理解を深めていくと「色々あったお花畑」となる。
それを理解したうえでまた分類を曖昧にしてその写真を理解しようとしてみると解像度が上がり、全体の「ストーリー」が見えてくる。

こういった「ストーリー」を捉えることが、子どもを見るうえでも大切なんだろうな、と感じている。

先ほどの例でいうと、「子ども」→「自閉症」という分類でその子を捉えている。これを「その子のこと」くらいの曖昧さまで戻して分解する。「虫が好き」「我慢強い」などなど、きっとその中には「自閉症」だけではない色んな要素があるだろう。その要素をさらに分解して理解していく。「虫が好き」なのは「物事に熱中しやすい、動くものに興味がある、物事を深める力がある」、「我慢強い」のは「感覚器が鈍い(痛みに鈍感)、表情に出にくい」などなど、それぞれの分類をさらに分解して理解していく。そこには、それぞれ上の分類と共通することもあるだろうし、矛盾することもあるだろうけれど、そこもこだわりすぎず曖昧に。

で、また関わる時には「その子」くらいの曖昧さまで意識を持っていく。「その要素があるからこうなのだ」というバイアスを意識的に無くすように努める。
全体を捉えることを意識する。

保育や支援に再現性はないと思っている。この時にこうすればいい、という方法論はない。その時のその子の姿を的確に捉えてその場の最適解を導き出すことの繰り返し。だからこそ、木を見て森を見ずにならないように。葉を見て森を見ずにならないように。
森を見ながらも葉も見える解像度で全体を把握しておきたいなと思う。


「春だから」と薄着で出かければ夜になって冷え込むこともあるし、「冬だから」と厚着で出かけた先の暖房が効きすぎていてセーターのなかが汗だくになることもある。

ぼんやりと認識したら「春」で、分類すると「晴れ」
というだけだったら、薄着でいいだろうけれど
「室内は冷房が効いているかもしれない、車移動だし荷物が増えてもかまわない、夜には冷えるらしい、風邪気味だし、」などの細かい情報を加味して総合的に判断して「外では涼しい半袖で、一応羽織れるもの持って行こう」と決めることができる。曖昧にけれど的確に、そのバランスが難しかったりする。

なんて偉そうに言っておいて、ぼく自身が傘を忘れて途方に暮れたり上着を忘れたて震えながら帰宅しがちだ。けれど、朝の自分を間違いにしないためだけに頑なに傘をささずに雨に濡れるなんてバカらしいと思う。素直に受け入れてコンビニで買えばいい。誰かに借りればいい。なにも恥ずかしくない。失敗続きでもかめへんねん。ぼくは、ずぼらだけれど真面目で、大人だけれど子どもで、理屈っぽいけど直感派だけど、カテゴライズせずに曖昧に全部自分だからいいじゃないかと許してやるのだ!

ただ、これだけは曖昧にせずはっきりと言える。今日は暑い。曖昧にできないくらい暑い。半袖短パンで出てきたらよかったと後悔している。


そんなことで、「ぼくが気をつけたいこと」の漫画は、方法論と目的論の間の理論をぼんやりと曖昧に具体的だけど抽象的に伝えられるようにしていきたいと思っています。
「どうしたらいいかわからない」から抜け出して、「こうあるべき」から解放される、そんな活用のされ方であれば嬉しいなと思っています。

いつもありがとうございます。今後もよろしくお願いします。

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