見出し画像

第17話 7人目

プロローグから読む
前話 目次

 誰にも言えなかったことがある。
 伝えないことを選んだのは自分で、その選択を、ずっと悔いてきたことがある。
 今なら言えるような気がした。同じくらい、ああ、もう何も伝えなくてもいいかと、充足とも、諦めともつかない解放感に浸って目を閉じた。
 熱い。とめどなく額を汗が流れ落ちていく。拭おうかとも思ったけれど、ふと死ぬ人間が汗を拭ってどうするのだと気づき、とたん手を動かすのが億劫になった。体を休めると、皮肉にも体感的な熱さはいや増した。霞んでいく意識の中でぼんやりと、焼死だな、と思った。クジラに喰い千切られるのとどっちがましだろう。
 それより、どうしてこんなところにこんな物があるのだろう。
 眼球を動かすのもだるいのに、意識がそちらに誘い込まれる。左足首に、製図用の大きなコンパスの針が貫通している。めくれ上がった皮膚から角のように突き出た木製の柄に、父のイニシャルが彫り込まれているのだから大した皮肉だ。ゾフは、この場所――というか、筒状の建造物の中だけれど、とにかく、ここの用途を分かって僕を放り込んだのだろうか。今いる部屋は狭い制御室か何かのようで、僕はある意味では折り目正しく、座席に収まっている。目の前には見たこともない計測器の類がびっしりと整列し、その上部には真っ白い壁、いいや、黒板を白く塗り潰したような、ひどく薄い一枚の板が、しかし何を記されるわけでもなく黙然と視界を塞いでいる。
 そう、白く。
「……い」
 どうなるのだろう。どこなのだろう、ここは。ゾフの怒りを思い返す限り、焼却炉にでも投げ込まれたか。でも焼却炉にこんな、運転席のようなものを設ける必要があるだろうか。父のコンパスも。この白い壁も。いいや確か第五立坑では、ゾフに言わせると極秘の計画とやらが進行していたのではなかったか。冗談かと思っていた。
「……るさい」
 白がうるさい。さっきから足元の、その下の、さらにずっと底のほうから――どうも筒状の建造物の各階層が、それぞれに無機質な呻りをあげ、なんらかの大掛かりな装置の起動を試みているようなのだけれどとにかくこの白が。何を訴えるでもないまっさらな視界が。
 目障りだ。ようやく足あとが燃え尽きようとしているのに。何もかもなげうってきた自分の眼前に、この期に及んで立ちはだかり、なお無限に広がろうとする、幾らでも描き得る未来がうるさい。何を考えろというのだろう。何を期せよというのだろう。死に行く人間がどんな願いを胸に抱いたところで、もう、誰のために、何を遺せるわけでもないのに。
 そう、さっきからずっと語りかけているのに。
『――っ……』
 ライラの亡霊は、しきりに僕の足首に刺さった針を抜こうとしていた。
 亡霊のくせいに日に日に肉感的になった彼女は、ついには、人間さながらに頬に涙まで流している。
「……無理だよ」
 おかげで思わず、声をかけてしまった。
「それは抜けないよ」
 ライラの亡霊が怒ったように振り返った。鮮やかな赤毛が鞭のようにしなる。
 ライラには申し訳ないけれど、僕は微笑んだ。旅の間、よく励ましてくれたと思う。こんな幻想を生み出さずにはいられないほど、自分は病んでいたわけだ。
 亡霊が唐突に口を利いた。
『どうして? どうして、そんな意気地のないことを言うの』
 目を見張った。僕の妄想なのだから当然なのだけれど、それにしても自分の中に、まだこんなにもライラの面影が残っていたことに驚いた。
 ライラの亡霊はなおも口を開きかけ、けれど何かを思い直したように、あるいは思い留まったように、ふっと、肩の力を抜いた。……暑さにあてられてそう見えただけだろうけれど、その一瞬、まるで本当に息を吐いたかのように、空気が揺らいで感じられどきりとした。亡霊はやれやれと小首を振り、そのついでに、頬に残っていた涙の粒も――それもそう見えただけだろうけれど、とにかく落涙の軌跡をも、きらびやかに払い飛ばした。僕からいったん視線を外し、足首に無惨に貫通している鋭い針へと向き直る。腰に両手をあて、さあてどうしようかと楽しげに口角を上げる。魂もないくせに、まるで待ち受ける困難に意気込んでいるかのように。
 あまりの人間臭さに、一抹の不安に襲われた。
 今日のライラは――いやつまり、今日の亡霊は、少し妙だった。
 ついこのあいだまでは、容だけを精確になぞらえたものの、中身はまるで辻褄の合っていない人形のようだったのに。
 これでは、まるで。
 僕の困惑を見透かしたように、ライラはまた急に針から顔を上げると、打って変わって僕に流し目をくれた。見るものの心臓を掴むような怜悧な眼だった。……べつだん、珍しいことではない。つまり生前と比べればということだけれど、ライラは明るく活発な気立ての反面、ときどき、猫のようにうるさそうな視線を投げ寄越したものだ。
 その目を、『さあ、見ていて?』と、いたずらっぽく細めるのもいつものことだった。
 さも勿体つけるように、楽しくて仕方ないという風に、唇をひらいた。
『さてはファシオ……私が死んで、グレたでしょう?』
「――――」
 まるで笑えない冗談だったけれど、ライラなら言いかねないと思ってしまったことが、決定的に僕の心情を危うくした。
『図星? まあ、そうだよね。ごめん』
 この話はこれでおしまいとばかりに、僕の足の前に屈み込む。
 唖然とした。
 ごめん……?
 僕に構わずライラは透きとおった手で、であるからにはやはり幻影なのだろうけれど、そのことを本人すらも先刻承知といった強い面持ちで、唇の笑みだけは絶やさず、何度も、何度も、針を抜き去ろうとした。その度に失敗し、まるで人間のように額に汗している。不安になってライラの手元に目を凝らした。指は何を掴むでもなく素通りし、ふわりと宙を切り、見ているこちらが痛々しくなるような無謀な空振りを繰り返している。やっぱり幻じゃないか。
けれどその幻はおよそ往生際悪く、まったく悪びれる様子もなく言ってのけた。
『謝るついでにもう一個。私、ファシオには生きていて欲しいんだよね』
「…………」
『べつに今のファシオに、その気がないのは見れば分かるけど。でも、生前ろくに遊びにすら誘ってくれなかったんだから、このくらいのわがままは大目に見てくれてもいいんじゃない? ほら、痛いのは一瞬だけだから、足上げて!』
 あくまでも快活に、僕を焚きつけようとする。
 けれどそんなライラを前にして、僕はますます動けなくなった。
 元より死ぬつもりで来たのだと、今さらながら思い出す。ここで息を引き取るつもりだった。でも、そういう心理とも少し違う、名残惜しさのような、ともすれば期待のような感情の芽生えに気づいて困惑した。自分でも呆れたけれど。
 僕は一秒でも長く、この亡霊と話をしていたかったのだ。
 そんな愚かな変化に、ライラも気づいたようだった。何か思い当たる節でもあったのか『あ』と小さく口を開き、それから心持ち困ったようにはにかんだ。
『――そっか。そうなっちゃうか』
 心のどこかが軋みをあげた。
 もう、十分だ。これが夢でも。幻でも。妄想でももうなんだっていい。こうしてまた、声を聞けただけで。十分だ。十分のはずだと言い聞かせる。――でも。
 何を、忘れているのだろう。
 何かとても大切な、伝えなければならなかったことがあったはずなのに。
 言葉が出てこない。この期に及んで心をさらけだせない自分に、呆れ、憔悴し、うなだれることしかできない。そんな僕を見かねたのか、ライラはやはりいつものように、つとめて軽やかに笑い声をあげて、肩をすくめた。穏やかに言葉を紡いだ。
『いいよ。ちゃんと分かってるから』
 僕は唇を噛みしめた。
 ありったけの勇気を振り絞って顔を上げた。
「何を」
『ええ? 何、って……』
 きっと今の僕は、見るに耐えない悲壮な顔をしている。ライラはわざとおどけたように明後日を向いてくれる。『やだなあ言わせないでよ、照れる』とつぶやく。
 目頭が熱くなった。
「――僕は、」
 喉からこぼれた上ずった声が、後につかえていた懺悔を引きずり出した。
「僕は何もできなかった。しなかった。どこへだって行けたのにどこにも行かなかった。病んでいく君を見ていることしか。ベルヌイに戻れば治療法だって見つけられたかもしれないのに、怖くて村を出ることすらしなかった。だから、」
『だから、今度は、どんなことでもしようって思ったの?』
 勢いづいた言葉を、またしても呑み込んだ。
 いつのまにか、室内が赤くぼんやりと光っていた。足の裏がじりじりと焼け付くような感触に、もどかしく視線を落とす。床のあちこちからうすらと煙が立ち昇り始めている。すぐ下の階層まで炎がせり上がって来ている。
ライラの瞳の奥にも、きらめくように小さな火花が散って、そして消えた。
『あのね。ここは、移民船の中なんだよ』
「……え?」
『外へ逃げ延びるための船の中。でも、この感じだと失敗しちゃったみたいだね。ファシオはいつも、そんなのばっかりだよね』
「…………」
『お父さんを見殺して、お母さんを置き去りにして、村の外に出たんでしょう。それって、私のため?』
「――――」
『そんな顔しなくたって。言ったでしょう、知ってるよ。ちゃんと分かってるよ。ずっと見てたもの。あなたが誰かを見捨てるたびに、心を取り戻して私は悼んだ。自分の内側に悲しみとか、怒りとか、理性とか、魂の片鱗のようなものが次々に飛び込んでくるのが分かって、怖かったよ。すごく。知らない人たちの人生が雪崩のように押し入ってきて、体が弾けてしまいそうだった。それでも最初は嬉しかったんだ。理由は分からなかったけど、ファシオが見えたから。ああ、やっぱり好きだなぁって、無邪気に喜べた。でもね途中で、これはいけないことだって気づいたよ。感情が取り戻されるたびに悲しくて、それも通り越すとあなたが哀れで、そして愛しくてたまらなかった。だって全部、私のためだったんだよね? もう一度、私が生き直せるように、神さまと取引をしてくれたんだよね? そうだよね、ファシオ?』
 つと、足首に刺さった針の片端に、ライラがひとさし指を乗せた……乗せた、ように見えた。それだけでは触れることもできないはずと知っていながら、けれどぐっと、肉に押し込むような仕草を取られたとき、思わず僕は悲鳴を上げた。
『……ファシオは優しいね。でも嘘はだめだよ』
「――――」
『あなたは、私を助けたかったわけじゃない。だってほら、早く死ねばいいと思ってたんでしょう?』
「――違う、あれは、」
『いいよ、もう。誤魔化さなくても』
 口調は優しい。けれど血を流す僕の足下に跪き、その傷口にじっと指を置いているライラが今、どんな表情をしているのかが解らない。見えないのではなく、痛みのあまり視界がちらつき始めた。
『ファシオが村を出たのは、お義母さんを巻き添えにしないためでしょう。あれ、それも違うのかな。本当は外に出たかったのが先で、お父さんもお母さんも、ただの口実だったのかな』
「――違う、」
『でも、何もしなかったじゃない』
 深く針を押し込まれる錯覚に、呻き声をあげた。
『私を助けるためなら、進んで6人を犠牲にすることもできたはずなのに。でもあなたは何もしなかったじゃない。何も。私を看取ったときと同じ。ファシオは別に、私のために6人を見捨ててきたわけじゃないんだよ。むしろ本当は誰一人犠牲にしたくなかったんでしょう? みんな助けたかったんでしょう? ……手を、差し伸べたかったんだよね。でも黒髪だとか、何より私のことが脳裏をよぎって、もしかしたらっていう可能性に縛られて選べなかった。割り切れなかったんだよ。だから助けることも見捨てることもできずに、ただ、見ていた。ファシオは決断から逃げただけ。何もしなかったっていうのは、そういうこと。結果として6人が亡くなってしまったけれど、それはファシオのせいじゃないよ。だって、あなたは何もしていないんだもの。それを、』
 ようやく、ライラは針から手を離した。
『都合よく、私のために何かを捨てたなんて思わないで。勝手に美談に置き換えないで。あなたは被害者ではないし、ましてや加害者でもない。あなたの周りで6人もの人が亡くなったのは、ただの偶然。ただの不幸だよ』
「――――」
『誤解しないで、べつに責めてるわけじゃないんだ。目の前で人に死なれ続けたら、誰だって心がまいるよ。何か原因があるとでも思わないとやりきれないよ。例えば、自分の不甲斐なさのあまり救えなかった命が、もし仮に恋人を生き返らせるための糧となるなら、少しは救いがあるものね。解るよ、そんな風に考えたくもなる気持ちも。でも、ファシオ。死んでしまった人たちの命は、死んでしまった人たちのものだよ。その人たちの人生まで、あなたが見捨てたなんて思い込むのはおこがましいよ。それぞれが自分の人生の主人公だったはずなのに、あなたの一存で勝手に脇役に貶められてしまったら、立つ瀬がないと思わない?』
「――だけど君は、」
 現にこうして蘇ったんじゃないのか。僕が6人を見限ったせいで。
 言葉にするより早く、それまで穏やかに話していたライラが、急に髪を振り乱して苛立たしげに叫んだ。
『私も冒涜されたと思ってる』
 あまりの気迫に怯んだ。後ずさろうとしたけれど、椅子に縫いとめられていた僕に退路があるはずもなかった。ライラは焦れたように血まみれの針を一瞥し、それから気を鎮めるためか、鋭く息を吐いた。
『……言ったでしょう、ファシオは私を助けたかったわけじゃない。私のために何もできなかった、自分を助けたかったんだよ。婚約者のために何一つできなかった、格好悪くて情けない過去の自分を書き替えたかったんだよ。解ってたんでしょう、本当は自分でも。今度こそ、私のためにちゃんと動いたって、墓前で言い訳がしたかったんでしょう? だから、村を出たんでしょう? 何かをしたっていう印が欲しくて。でも、そんな自己満足の懺悔のために、ファシオの人生のやり直しのためだけに、こんなところまで呼び出された私は、……私も――』
 言葉をとめ、ほんの少しためらうように唇を結んだ。けれどここで彼女が引き返すような性格なら、きっと僕は、そもそもライラに出会ってすらいない。案の定、最後はいつものように、――それがどんなに弱々しく、消えてしまいそうな痛ましい記号だとしても――それでも僕の目にも笑顔だと分かるように、あたたかく、泣きそうな目尻にくしゃりとしわを寄せてくれた。
『私も、いい迷惑だったよ』
「…………」
 いつか、誰かに言われた言葉が、耳の奥で風のように鳴った。
 傷つけるほうだって痛いんだ――その風に共鳴するように、いったい何を守るために厚くしていたのか、心臓の内側に設けていた壁が、音もなく崩落していくのを感じた。ちょうど炎の熱にあてられた建物の内壁が、溶解し、ゆっくりと剥落していく様を視界の端に留めながら。
『だから、もう終わりにしよう』
 ライラは、べつになんということもないというように、肩をすくめて笑った。
『こんなことされても嬉しくない。7人目なんていらないよ』
 思わず閉じた瞼の裏側に、これまで見捨ててきた6人が、薄く引き伸ばされた陰影となり、ゆらゆらと整列しているのが見えた。今にも霧散しそうに危うく、けれど黒い瘴気のようにしつこく、存在を保っている。
 きっと恨めしさだけで、彼岸から僕の言葉を待っている。
「――つまり僕は」
 心の底にしまいこんでいた思いに指先を伸ばした。触れた瞬間に、引き千切られるような痛みが走った。
「僕は地獄を見て、そしてこれからも生きろってこと?」
 愛すべき人が、悲しそうに微笑んだ。その顔を見て悟った。
 取り返しのつかないことをしたのだ。
 それを、ライラは許さないと言っているのだ。
 あのときと同じだ。歩き疲れたのだ。一度しゃがみこんだが最後、立たないだろう自分だけが赤裸々に想像できた。だったらいっそ眠ってしまえと、最後くらい思いきり生水を飲んでしまえと、前のめりに泥の中に倒れ伏した。泥はやわらかくて気持ちよかった。
 でもライラは、僕が眠ることを許さなかった。
 地面を駆る勇壮な蹄の音が、鈍った耳を叩き起こした。轟音だった。首都にいた頃も聞いたことのないくらい、激しい。
 気づけば目の前に手が差しだされていた。小さな手。
 だけど無骨な――
「……?」
 手は、なかった。
 血を流しすぎたのだろうか、襲い来る睡魔に目をこすった。ライラは、いつのまにか僕の傷口から離れ、立ち上がり、颯爽と背を向けていた。
 もう、一緒には行けないよと言われた気がした。
 あるいは、私が先に逝くから見ていてと、背中で別れを告げられたのかもしれない。
 どちらも違った。
 どちらも、とんだ僕の勘違いだった。
 ライラはさっきまで僕を煩わせていた、あの純白の壁の下に、挑むように一人で立ち向かっていた。永遠に未来を失った後ろ姿とは思えないほど勇ましく、もう二度と何ものもつかめないはずの手が、固く握り締められていった。神々しさすら感じさせる懐かしい後ろ姿が、――幸せそうにつぶやいた。
『ヴォルト』
「え?」
 予期せぬ名前に、僕もつられて白い壁を見上げた。 

 そこに突然、燃え盛る炎が映し出された。
 ライラの言う移民船、運転席に掲げられた真っ白い画面に、前触れもなくどこかの部屋が映し出された。爆煙に包まれ、焦土と化していく様を投影していた。
 信じられない思いで画面を凝視した。
「……ヴォルト……?」
 その隣にレアもいる。映像の精度はおぞましいほど高く、手足の青い痣までまざまざと見てとれる。僕が巻尺で緊縛した際に付いたものだ。
 混乱した。なぜ二人が一緒にいる。
 しかも映像で確認する限り、彼らが映し出されている建物の内部構造は、ここに酷似している。
 まるで今現在の、同じ建物の内部のように見える。
 なぜ。ヴォルトは、水の国でよろしくやっているんじゃなかったのか。
 なにしろ僕は黙って出てきたのだ。考えられうる限り最も酷薄な別れ方をした。それもこれも、パーニャの家を継いで、エトリに新たな生活の基盤を築き、あの国で農民として平穏に暮らしていくのならばそれは僕ではなく、ヴォルトのほうが遥かに、……そう。
 僕の居場所を、ヴォルトが生きてくれればと。
「――――」
 一度は捨てかけた願いが、喩えようもない羨ましさが、嫉妬が、たった今決したばかりの思いに呆気なく砂をかけ、揺さぶりをかけた。
 どうして、僕が生きなきゃいけない。
 蟻地獄に吸い込まれていくように、さらさらと心が沈み込んでいく。こんなにも広い世界で。こんなにもたくさんの人がいる中で。数多ある役割の一つ一つに必死に意味を見出して、前向きに生きようと励んでいる人たちがいるその傍らで。
 僕でなければならない理由がどこにある。
 ヴォルトでいいじゃないか、誰かがつぶやく。世界は、ああいう男がいたほうがきっと豊かになる。鎌首をもたげてくる黒い感情に、戸惑っている間にも足下の地盤は過熱し、そのさらにずっと底のほうから地響きがした。
 その音に連動するように、映像の中からもおぞましい爆音が発せられた。
 我に返った。食い入るように画面を見上げた。
 ヴォルトは、隣のレアをかばうように身を屈め、業火の中で歯を食い縛った。けれど衝撃に耐え切れなかったのか、あの忍耐強いヴォルトが、泣きそうな顔で何事かを叫ぶ。
 聞こえない。
 こんなにも鮮明なのに、腹立たしくも言葉だけが何一つ聞こえてこない。
 僕は知らず身を乗り出し、そして初めて激痛に顔をしかめた。自分の傷を思い出した。わずかでも体を動かそうとすると、父のイニシャルが、足首に貫通した針が、これでもかと痛撃を送り込んでくる。
 まるで、どこへも行くなと言わんばかりに。
『無理だよ』
 それまで僕と同じように映像に向かっていたライラが――てっきり、僕を置いてどこへでも旅立つのだと信じていた婚約者が、くるりと顔を向けた。
 奇妙な違和感を覚えた。
 ライラはこんなときだというのに、なぜかおかしさすら噛み締めているように含み笑いを寄越した。
『それは抜けないよ』
「―――-」
 冗談を言っている場合か。
 けれどライラは、どこか諭すように、ゆっくりと首を横に振った。
『“それ”は、抜けないよ。どんなに見ないふりをしても、簡単に抜けるものじゃないよ。その傷はきっと塞がらない。死ぬまでだらだらと血を流しながら、歩いていくしかない。気づいてるんでしょう? ただでさえ手に負えないそれを、そこまで重く、醜いものに変容させたのが誰なのか。それでも助けたい?』
「当たり前だ」
 嘘でもよかった。
 一秒でよかった。たった一秒、今、この瞬間だけいい、それすらも信じ抜くことができないのならば、どの道、僕に生きていく勇気は望めない。
 言った。
「ヴォルトは友達だ」
『――そう』
 ライラは微笑んだ。
 その笑みが、鋭利に吊りあがった口角となった。
 裂け上がった頬となり、耳までぱっくりと三日月のように割れた顔面となり、およそ人の形相からかけ離れた球状の物体と成り果て、べろりとめくれた皮膚の隙間から、ひどく愉快そうな嘲笑が漏れた。
『じゃあ、やっぱり7人目は彼にしよう』
 火柱が噴き上がった。
 ライラの頭から。
 顔面が爆発し、眼球がぽんと弾けて宙を舞い、赤い髪は夕焼けを浴びた薄野のように逆立ち、そして血の雨が降った。僕は全身にそれを浴びた。本能的に身体が萎縮した。今まで見ていた、会話をしていたものは何だったのだ。やはり自分は狂っていたのか。混乱する間にも、ライラは、ライラだと思っていた何かは見る影を亡くしていく。血と肉片と炎を噴き上げ続ける頭の重みに耐えかねたように、ぐにゃりと体が歪み、そしてどろどろと溶けてく。
 既視感があった。
 レアの。姉を見殺したときと同じだ。
 あのときは確か、クジラの毒にあてられて、獣の血中に含まれた何かに反応して溶け出してしまったのだと、そんな風に思っていたのだけれど、これは。
 ライラの、いいやライラだった何物かの体液は、溶岩のように白い燐光を放ちながら床に広がり、そしてじわじわと全てを焼き尽くしていった。マグマに溶かされて室内が傾き始めた。ぐらり、と椅子が沈み、その勢いで足首に突き刺さっていた針がさらに奥深く、抉るように突き立った。激痛に視界が明滅した。
 目の前の、ヴォルトを映した画面が、壁ごとぐらりと傾いだ。
 僕めがけ倒れてくる――下敷きにされると覚悟した刹那、それよりもわずかに早く、狭い部屋の中央、そうちょうど僕の足下、父のコンパスの針が突き立っているまさにその直下の、床が抜けた。
 ごおっと、耳元に風鳴りの音が逆巻いた。
 倒壊に巻き込まれたのだ。息を吸おうと喉を開いた瞬間、過熱した大気が流れ込んできて咳き込んだ。目に見えない拳を咽喉にねじ込まれたような強烈な違和感に、吐き気と涙が込み上げた。けれどその痛みより何より、ただ、呆然とした。
 今の今まで厚みのない映像として捉えていた地獄が、目の前にあった。
 そしてその中央に、ヴォルトがいた。
 レアを抱きかかえて。
「――ヴォ」
 名前を呼ぼうとした。けれど声は出せなかった。炎をまとった煙が気管に侵入し、肺まで潰されていくような苦しさに悶絶した。暑さと、もどかしさのあまり首を掻き毟るように襟元を開いた。糸がちぎれ、布の裂ける音が響く。けれどその苦悶の音すらも、ばちばちと内装が燃えていく音にかき消されて届かない。父のコンパスの針に縫い止められ、駆け寄ることも適わない。痛みと悔しさで視界が歪み、映像を飛び越えて一度は近づいたはずの友の姿が遠のいていく。
 けれどそのとき、奇跡が起きた。
 この、目の前を生き抜くだけで気が狂いそうな極限の状況下で、何を感じ取ったのか、ふと前触れなくヴォルトが顔を上げたのだ。
 僕は愕然と硬直した。
 自慢の金髪が、見る影もなく焼け焦げてしまっていた。汚らしくちぢれ、額から頭頂部にかけては剃り上げたように禿げ、ただれ、左半面は真っ赤な筋肉が露出していた。ぞろりと、場違いなほど整った歯並びが見えた。それだけではなかった。
 この惨事の中で両眼を失ったらしい。
 固く瞑られた端から、涙のように二筋の血が流れていた。
『……ぉ?』
 ただれた顔面の真ん中で、唇が蠢くのを見て本能的に怖気が走った。
 あれは友だと、言い聞かせ、理解しようと心を奮い立たせないと、人ならざるものに標的を定められたような恐ろしさに身が竦んだ。その一方で僕は、ヴォルトの目が潰れていることに、一瞬、けれど確かに、安堵した。
 親友を、怯えたことを気づかれずに済んだと。
「――っ……」
 悲しいのか悔しいのか、情けないのか助けたいのか、何がこんなに恐ろしいのか、分からないままに叫び、そして叫びは炎に舐め取られた。
 吐いた息を端から押し戻すように灼熱が口腔に流れ込み、食道に焼き篭手を押し込まれたような感触に体が痙攣した。類焼していく建造物の悲鳴で、鼓膜が裂けそうに痛んだ。
 痛みに任せて足首の針を、コンパスを、血を迸らせながら抜き去った。
 今行く、と言いたかった。現実は声にならず、意に反して体がのけぞり、前のめりに倒れた。信じられない思いで自分の足首を凝視した。
 針の抜けた穴から、とろとろと冗談のように血が噴出していた。歯を食い縛って手で押えた。焦りで震える指を押して、上着の裾を破り取って固く縛り上げた。
 その瞬間、布を巻きつけている自分の足に、鬱血したレアの足が重なって見えた。
 暴行の記憶に、その後悔に、また踏み出す一歩が重くなり、それでも歯を食いしばって前を向いた。
 今を逃したら、どんなに悔いても悔い切れない絶望がやってくる。
 手で、腿を持ち上げるように引きずって這った。這いつくばった跡に、糸を引いたように血の道が残されていく。
 足あとを振り切るように前を向いた。顎に擦りつく鉄の床から、呪わしい熱が伝導してくる。自分が虫になったような錯覚に捉われた。眼前にのあちこちに、用途の分からない機械類の残骸が、半ば溶解し、もはや原型の分からない鉛の塊と成り果て、どろりと異臭を放ちながら転がっている。鼻先にそうした障害物をつきつけられるたび、脚を持っていないほうの手でのけた。加熱した鉛は皮膚に張り付き、べったりと容赦なく表皮を剥ぎ取っていく。あまりの痛みに、もう止まってしまいたいという抗いがたい欲求が湧き起こる。
 どうせ助からない。
「――っ……」
 ふざけろ。蛋白質の焦げるおぞましい臭いが、極至近から鼻腔に滑り込んでくる。吐いた。煙を噴く吐瀉物の中を、それでも腕力だけで体中を引きずって進んだ。ふと、腕の感覚が消えていることに気づいた。なんとしても追いつきたい二人に、かざすように差し伸ばした手のひらが、五本の指が、ただれて真っ赤に膨れ上がっているのが見えた。
 虚を衝かれた。
 もう二度と、使いものにならないのではないかという思いが脳裏をよぎる。
 構うものか、と誰かが言う。
 ペンは投げたのだろう。
「――――」
 そんなことよりも、そんな実態のない希望よりも、掴み取りたいものが目の前にあるのだろう。
 けれど、あとほんの少しで二人の傍に着けるところへ。
 僕とヴォルトの間を阻むように、まるで嘲笑うように、ふわりとライラの影が降り立った。僕の足が書き足した血の軌跡を、そうおぞましい足跡を、軽々と飛び越えて。
 ふわりと。ライラの影が。
 いいや光が。
「……っ……?」
 おかしいな、と間抜けにも頭を悩ませた。床に這いつくばったまま、眼前にすらりと並ぶ二本の足首を見た。さっき、彼女は爆発したのではなかったか。いやあれは僕の妄想か。どうでもいいか。そんなことよりも邪魔だからそこをどいてくれと、言いたいのにやはり声が出ない。ならば行動で示すしかないと、目の前を塞いでいるライラのくるぶしに手を伸ばしかけたそのときだった。
 青々と、痣が浮き出ているのが目に留まった。
 そこで初めて、僕はぼんやりと足首の主を仰ぎ見た。
「――――」
 待て。
 すぐさまヴォルトに視線を走らせた。
 じゃあ彼が今、腕の中に必死に庇っているのは誰なんだ。
 あまりの不可解さに、かえって冷静さが立ち返ってきた。ひたりと、熱さばかりのせいではない汗が背中に滲んだ。
 ヴォルトは閉じた両目から血を垂れ流したまま、けれど不思議と穏やかに、白昼夢でも見ているような面持ちでつぶやいた。
『……ライラ?』
 違う。
 声が出ない。どんな物理的障害に阻まれたとしても今回ばかりは口を割らねばならないのに、金縛りにでもあったように体中が動かない。指先一つぴくりとも。なぜ。焦りばかりが累積する。どうする。今、救いを求められる相手は一人しかない。
 どういう手違いか分からないけれど、とにかく目の前に立っている既知の少女に、ヴォルトを引っぱたいてでも、ここから連れ出してもらうしかない。でも。
『あぁ、そうか……俺で7人か』
 鳥肌が立った。
 呟いたのはヴォルトだ。見る間に相好を崩していく。さっき、腹立たしいほど何も聞こえてこなかったのに、こんなにも自分の声は届かないのに、この瞬間、炎の中で、どうして彼の言葉だけが異様にはっきりと聞き取れるのか。
『死人が生き返るわけねえのにな。解ってんだ、俺だって。でもなぁ……こんな風に、ああもうどう考えても自分が死ぬってときに、幻覚だろうとなんだろうと、現れちまったらなぁ……そっかファシオ、“こういう”感じか。ずっと、こういう……』
 肉を削がれ剥き出しになった白い上顎と、あまりにも美しく整った歯が、灼熱の炎を照り返しきらきらと閃いた。血に爛れた筋肉が静かに脈を打っていた。
 それだけのことで、悲しくなるほど、ヴォルトは笑っているのだと伝わった。
『いいぞライラ。交替だ』
 ふざけろ。そんなことがあってたまるか。なんのために置き去りにしたと思ってる。なんで来た。なんで今。
 どうして、いつも一番傍にいて欲しくないときに。
 苛立ちとも悲しみともつかない感情に、鎮みかけた心に火がついた。
 僕が。止めなければ。
 助けなければ。
 あと一歩、いいや半歩でいい、匍匐したまま前進を再開すると衣服が煙を上げ、破れ、胸の皮膚が焼けた床にこそぎ取られた。痛みに涙が滲んだ。叫びたかった。
 悲鳴でいいのだ、とにかく今度こそ、頼むから声になってくれと、決死の思いで、目の前を阻んでいる少女に向かって息を吐いた。
「――レア!」
 救いを求めた少女は、しかしヴォルトに差し向かうのではなく、僕を振り返った。
 時が止まったように感じた。
 その目は、なんだ。
 存在する全てが赤黒く膨れ上がったこの地獄で、遠く、清らかに、遥かここではない世界を映しているような、青く透きとおった瞳をしていた。
 燃え盛る炎の揺らめきはおろか、今、この部屋に存在するあらゆる事象の動きを封じ込めたかのような静かな色だった。
 なぜ、そんな穏やかな目で僕を見る。この極限の状況下で、なぜそんな和らいだ光を湛えていられる。
 君は、ヴォルトのことが好きなんじゃなかったのか。
 混乱したのはほんの一瞬だった、けれどその一瞬の間に、レアは黙って僕を横切った。
「――え?」
 慌てて振り返ろうとした。けれどやはり体が言うことを聞いてくれない。首から上が動かない。もどかしさに歯噛みしているうちに、ごとりと、何かが床から持ち上げられたような感触が、微弱な、けれど生々しい振動となって、這いつくばったままの腹に響いてきた。
 次いで、右耳を掠めるように足音が、いいや音は聞こえないのにかすかな気配が、そう何かが、通り過ぎたような風が切った。
 人間とすれ違った気がしなかった。
 地獄に突然生まれた微風は、心がおかしくなりそうなほど甘やかな香りを孕んでいた。
 気づくとレアは、再び僕の前に立っていた。
 手に、長柄の棒状のものを持っていた。この灼熱の地獄から拾い上げたらしい。だというのに不思議なことに、指には火傷一つ負っていない。
 一方、拾い上げられたそれには覚えがあった。本体は四角い木製だ。二つ折りに畳まれ、一部、鋭利な先端が銀色に閃いている。その輝きにまとわりつくように覚えのある赤が滴り落ち、ちょうど、木製の柄に彫り込まれた馴染み深いイニシャルに、伝い、落ち、流れ込み、まるで手垢のような臙脂色に染め上げている。あふれた赤は溝から這い出て、レアの手首を舐めるように汚していった。
 拘禁したあとの青い痣が、真っ赤に浸食されていく。
 レアは気兼ねする風でもなく、少女が扱うには決して軽そうでもないそれを、指揮棒のように見目鮮やかに振り上げた。
 ヴォルトに向かって、歩きながら。
 ヴォルトは変わらず、呑気に膝をつき、そうしながら、誰とも分からない誰かを守るように掻き抱いていた。
 その誰かの顔が、わずかに見えた。
「――――」
 心が、いよいよ軋みを上げた。
 鳥肌が立つようなおぞましい疑問に苛まれながら、けれど僕は、それが何であり、元は誰であったのかは、一瞬たりとも疑いはしなかった。
 押し寄せる圧倒的な猜疑の中で、けれどその一点においてだけは、辻褄を問うことすら思わず、ただ、ただ譲れない確信に打ちのめされた。
 ヴォルトが、さも大事そうに腕の中に庇っていたのは、亡骸だった。
 それもとうに腐敗が進み、皮膚も内臓も失われ、もはや面影なんて認めようもない白骨の遺骸そのものだった。
 それでも僕には、それが誰だったのか一目で分かった。
 理屈じゃない。朽ちた衣服と、頭蓋骨にわずかに残っていた髪の色は、確かに手がかりにはなりえたろうけれど、そんな即物的な理由から辿りついたわけではない。
 目にした瞬間、湧きあがったのはどうしようもない懐かしさだった。
 もう二度と適わないと諦めていた再会への尽きせぬ感謝だった。
 明日、この世の全てが壊れてしまえばいいのにという茫漠とした願いだった。
 嗚咽が漏れた。まだ出せる声があったのかと他人事のように思った。この炎の中で、初めて自分の声を聞いた気がした。耳の中に直接、上ずった呼吸音が反響してやかましかった。こんなにも視界は明るいのに、火明かりで何もかもが考えられないくらい光り輝いているのに、耳から、青灰の海に溺れてしまいそうだった。周囲の一切の音が遮断されていた。その静けさのせいで、絶望にまみれた息切ればかりが、何層にも木霊して聞こえた。まるで目の前のあらゆる存在が、炎に燃やされその本源的な意味までも消失してしまったかのようだった。
 実際、そのときはどうでもよかったのだ。
 全てが。
 だから手遅れになった。
 目の前で、ちらりと淡い銀髪が炎に揺らめいた。少し前までは肩口で切りそろえられていた髪が、いつのまにか腰まで伸びていた。彼女の姉よりも長く。しなやかに。そしてその豊かな髪は、一筋たりとも業火に焼かれることなく、むしろたっぷりとあでやかな輝きを湛え、まるで生まれ持った、そう天性の灼髪であるがごとく、明々とうねりを帯びた。
 ヴォルトの誤解が、束の間、現実になったかのように見えた。
 あるいは僕の妄想が。
 あまりにも無慈悲な後姿が、なぜか、髪色のせいか、それとも女友達というのは似てくるものなのか。
 生前のライラに重なって見えた。
 ふりかぶった少女の影は、製図用のコンパスの針を、愛する人の胸に一突きした。
 深々と。
 ただでさえ赤かった世界に、すでにしつこいほどの終焉一色に塗り潰されていた赤黒い視界に、はっと息を呑むような新鮮な赤が塗り足された。
 ヴォルト、と叫んだと思う。
 分からない。自分が無茶苦茶に声を上げているのが、膨張しそうなほど頭に上り切った血と、張り裂けそうな心臓の鼓動からだけ伝わってきた。耳が痛かった。耳鳴りが酷かった。音という音が聞こえないのに、やはりヴォルトのとぼけた声だけが、心に直接響くかのように、静かに降り積もった。
「……あれ、レア……?」
 てっきり瞑れてしまったのかと憂えていた目を、あるいはこれから最後の光を焼き付けでもするつもりかのように、血を流しながら、ゆっくりとヴォルトは押し開いた。
 かすかに、草原色の虹彩が、驚きに揺らめいた。
「――ファシオ?」
 僕は大きく頷いた。それだけの動作で酷い頭痛に襲われた。眩暈に失神しそうな痛みに覚えがあった。どうしてこんなときに思い出すのか。
 初めて、村でライラと一晩過ごした夜と同じ痛みだ。あの、空に近い天国のような村で、標高に順応できず苦しんだ記憶。
 気が遠のきかけた。このまま眠ってしまいたかった。歯を食い縛り、頬の肉を食い千切り、別の痛みを上書きすることで気力を奮い起こした。焼き尽くされそうにな心に、ありったけの酸素を送り込み、もうたった一歩を踏み出そうとした。手で、這って、何を血迷ったのか分からないレアを止めるために。
 けれど、その歩みこそヴォルトの告白で止められた。
 こんなときに、一刻を争う事態だというのに、ヴォルトはゆっくりと自分の胸を見下ろし、そこに凶器が突き立っていると知ると、どっと疲れたように肩を下ろした。それから自分の腕が掻き抱いていた骸骨に目をしばたたき、ああ、と合点がいったように再び顔を上げた。
 レアを、まじまじと見つめた。
「好きだ、レア」
 場違いなほど優しい声音に、なぜか僕の身が凍りついた。
 眼前にいた少女も、時を止めたように見えた。
 ヴォルトの胸に、より一層深く針を押し込もうと、全体重をかけて傾いていた無慈悲な背中が、かすかに強張った。
 たった一言をつぶやいたヴォルトの口からは、とぷりと血があふれた。
 その血が、唇が触れ合いそうなほど近づいていたレアの髪に、頬に、胸元に、手に、指先に、ぴしゃりとかかり、その後はまるで優しく撫でるように、伝っていった。
 落ちていった。
 涙のように。
 ヴォルトは、血を吐ききるついでに大きく息をつくと、腕の中に抱えていた骸骨を静かに床に横たえた。手を離すとき、少しだけ寂しそうに眉を下げた。それから、どこにそんな力が残っていたのか、僕がずっと羨み、憧れていた大柄な体躯を、ぐいと勢いよく立ち上がらせた。
 針に胸を貫かれたまま。
 突然のことにレアがたたらを踏み、後ろに倒れかける。それをヴォルトが引きとめた。飄々と片腕で小さな体を捕まえて、巻き取るように抱き寄せた。
 固く、抱きしめた。
 その結果、自分で、自分の胸に、深々と針を押し込むことになると知りながら。
 ヴォルトはどこまでも満足そうに、目を閉じた。もう、視界に他者の存在を捉えることにも疲れはてたのだとでもいうように。レアを抱いているのに、レアに抱かれているように、朗らかで、なんの迷いも見つからない顔をしていた。
 もう一度だけ、囁いた。
「好きだ」
 どうしてか、やはり自分が心臓を針で突かれたような痛みを感じた。そしてすぐにその理由に気づき、今度こそ僕は身動きが取れなくなった。
 いかにもヴォルトらしい、と思ってしまったのだ。
 長年付き合ってきた親友が、もし一瞬で自分の死期を悟ったら、きっと遺す言葉なんて選ばない。時間がないのだから、いちばん言いたいことを、いちばん言いたい人に言う。それだけだ。言葉を残された人間がどう思い、何を戸惑い、どんな葛藤を抱えて生きていくかなんてヴォルトは考えない。いなくなる者が言葉の責任など負えるはずもないと、あるいはそんなことすらも考えず、一切をあきらめ、割り切れてしまう。
 そういう男だ、と思うにつけて体から力が抜けていった。
 間に合わないのだ。
 そのことを、たぶん誰よりヴォルト自身が悟ってしまっている。
 ずたずたに裂けた体から、穏やかに繰り返された声が奇跡のように思えた。そのあまりにも直球で、飾り気ない、人の不意を衝く言葉は、いつだって真面目で小難しく考える人間を困らせる。
 今も、てきめんに効を奏したようだった。
 どんな因果で気を違えてしまっていたのかは知らない、けれどレアは、――あるいはこのまま気づかないほうが幸せだったかもしれないのに。
「……え……?」
 コンパスの柄を握る腕が、小刻みに震え始めた。
「え、……え……?」
 脈打つように、どくりと瞳孔が拡がった。あの、何もかも吸い込むようだった青い瞳にざっと陰りが差し、今にも嵐が来そうな曇り空に覆われた。
 本当に、空に雲がかかるような一瞬の変容だった。
 その悲壮な色に目を奪われた直後、レアが、弾かれたように柄から手を離した。飛びずさろうとした華奢な体躯を、ヴォルトが一層固く抱きしめた。
 艶やかで悲痛な嬌声が、炎の海に響き渡った。
「何、どうし……ヴォルト……っ!?」
 狼狽するレアに、いったい何が可笑しいのか、ヴォルトはにっと唇の端を吊り上げた。まるでいたずらっ子のように目を輝かせ、レアの両肩に手を乗せた。それから勿体つけるように顔が見えるところまで体を離し、「ヴォル――」名前を呼ぼうとしたレアの唇を、強引に唇で押しふさいだ。
 レアの瞳が大きく見開かれた。
 ヴォルトはゆっくりと唇を離すと、わななく思い人の口に、至近から息を注ぎ込むように、そっと言葉を吐いた。
「悪いな。先に逝くぞ」
 レアが硬直した。敏い彼女が、この状況を理解するのにもうあと何秒もかかるまい。混乱に揺らぐ瞳が、次第に絶望に染まり始める。
「……何、言って……?」
 ヴォルトはもう応えなかった。応えられるはずもないのだ。誰が見てもとっくに限界は超えていた。それでも血の一滴まで振り絞るように、全身を痙攣させ、極限まで肺を膨らませ、最後にしたたか叫んだ。
「アザカあぁっ!」
 来るはずもない人間を呼ぶ吠え声が、炎の中に反響した。
 突然何を言い出すのかと狼狽した刹那、どごりと、ヴォルトの真後ろの壁がぶち抜かれた。
 轟々と燃え盛る炎の最奥に、一つ、黒々とした穴が穿たれた。
 あまりにも異様な光景に身が竦んだ。
 その穴は、とても救いの出口には見えなかった。この燃え盛る地獄の先に、さらなる漆黒の地獄が続いていることを予感させる、ただ、ただ底なしに黒い穴だった。
 その穴の淵に手をかけて、闇に溶け込むように、少女が肩で息をついていた。
 ガサイの姪だ。黒い髪が、灰色の煤で斑に汚れている。装束も随所が無惨に裂けていた。それだけでここまでよほど無茶な奔走をしてきたのだろうと伺えた。
 アザカは怜悧な目付きで、さっと周囲を一瞥した。血に染まったレアの手と、血を噴くヴォルトの胸元と、そして僕という生存者を確認し、束の間、泣きそうに唇を歪める。感情らしい感情を見せたのはその一瞬だけだった。後は一切の表情を押し殺したように、的確に、馳せた。
 跳ぶように、ヴォルトとレアの間に滑り込んだ。
 まずはレアの後頭部に鋭い手刀を浴びせた。言葉もなくレアが気を失う。自分より背の高い女性がぐったりと倒れてくるのを、眉一つひそめただけで片腕で抱きとめる。
 次いで、ヴォルトに向き直った。
 ヴォルトはもう目を閉じていた。
 目尻から流れた血が、死体のように乾涸び始めている。
「……悪い、アザカ、」
「もう行くよ」
 アザカは間髪入れずに言った。その唇が、かすかに、物足りなそうにすぼめられる。かと思えばぎゅっと固く真一文字に結ばれ、最後には、ぷくりと頬が膨らんだ。
 何かを、無理やり飲み込もうとしているかのように見えた。僕には。
 ヴォルトにはもう何も見えていない。
 アザカは、ふしゅう、と息を吐き出しながら、そのしょぼくれた態度からは想像もつかないほど、凛然とした声で告げた。
「置いていくよ。あんた、助からないからさ」
 胸を衝かれた。なんて残酷なことを。けれど、ヴォルトのほうがよほど残酷だった。ようやくほっとしたように眉を八の字に下げると、言った。
「知ってる」
 返事をする口から鮮血があふれる。
「おまえなら、分かってくれると思ったよ。ありがとな」
 ざわりと、アザカの背中が猫の子のように逆立った。今にも腰の刀を抜いて、死に損ないにさらに斬りかかりそうな形相に身が縮んだ。激昂が、剣戟のように僕のところまで散ってきた。怒りの重圧はさしものヴォルトにも伝わっていそうなものだけれど、ヴォルトは飄々と、あろうことか片手を上げた。
 じゃあな、と。別れの挨拶のように。
 その別れに空間が呼応した。さあ見納めも済んだだろうと言わんばかりに、突然、無惨に壁が剥がれ落ちた。
 白い壁が。
 あの、まっさらな視界が。
 ヴォルトと僕たちの間を隔てるように、どすりと滑り落ちてきた。
 アザカという少女にもさすがに不意打ちだったらしい。それまで、至極覚悟を固めたような気構えを見せておいて、しかしここへ来てもう二度と言葉を交わせないのだと知ると、初めて、歳相応の声を漏らした。
「……ふざけるな」
 呆然としたようにつぶやいた。
「自分を見殺そうとしてる人間に礼なんて言うな……ありがとうなんて言うな、あたしはあんたを殺すんだぞ」
 つぶやきは、次第に大きくなっていった。
「置いてくんだぞ……もう二度と会えないんだぞ。ありがとうって、他に、他になんかもっと言うことあんだろ。アザカは、」
 叫びとなり、しかしその声も、放たれる傍から炎に舐め取られ消えていく。
「榊を抜けて来たんだぞ! あんたが、助けてくれって言ってくれたら、そしたらなんだってするんだぞ。助けてくれって言え! 命乞いしろ! 生きたいって思え! アザカはあんたの――っ」
「早く行け」
 最後まで言わせなかった。
 それが最後だった。
 アザカの顔から、表情という表情が抜け落ちた。ヴォルトが出したのは、疲れはてたような、失望したような、どこかうんざりしたようにも聞こえる声だった。子どもの扱いに辟易した大人が、本音を隠しながら説得にあたる声。
 アザカは一切の表情を殺し、くるりと踵を返した。
 僕と目が合った。
 ああ、そういえばこいつがいたかと、かすかに瞳が濁る。少し考えるように周囲を見渡し、瓦礫と成り果てた壁から突き出ていた、ひしゃげたパイプ群に目を留めた。今気づいたけれど、この壁にも血文字で殴り書いた跡があった。
 あるべきものを、あるべきもとへ。
 その殴り書きが、唐突に刀で一閃された。ばらばらと崩れ落ちていく。アザカはレアを支えながら、僕の腰くらいの長さに切断したパイプの一片を拾い上げ、投げ寄越した。
 僕は黙って頷いた。
 アザカは返事を待たずに駆け出した。あの、地獄まで続いていそうな黒い穴へと迷うことなく飛び込んでいく。さしあたってはやはり、あそこが出口ということでいいらしい。
 ――出口。
 僕は彼女らを追いかけず、白い壁を振り返った。
 パイプを片手に、どうにか這い、そしてやっとの思いで身を起こした。なぜだろう、レアとアザカが出て行ってから急に体が軽くなった。僕はヴォルトと自分とを隔てる白い壁にもたれかかった。視線を手元に落とす。焼け爛れた手のひらに吸い付くように、アザカが渡してくれた鉄パイプが転がっている。こんなに疲れているのに、まだ握力が残っていることが不思議だった。彼女はきっと、杖代わりに使えというつもりでくれたのだろう。けれど鋭利に切断された切っ先は、ここで最期を遂げるにも最適に思えた。
 どっちなんだろう、とぼんやり思う。
 どっちが正解なんだろう。
 ふと顔を上げると、あの白骨遺体と目が合った。目、だなんて。思った自分にかすかに笑えた。どこが目だ。目なんてとうに失われているではないか。けれど深く穿たれた眼窩の向こうから、悠久の時が、確かに僕を見定めているような気がした。
 ヴォルトの気配を背中に感じながら、一方で僕は、目の前の遺体に声をかけた。
「……久しぶり」
 答えはない。
「驚いたよ。なんでここにいるんだよ」
 遺体は喋らない。
「誰に、連れてきてもらったんだよ」
 自分でかけた言葉が滑稽だった。死体が自分で歩いてくるはずはない。
 だからといってあんな片田舎の墓を掘り起こして、こんな辺境の地まで、女の死体を運んでくる物好きがどこにいる。
「……なあ、ヴォルト」
 壁に背中をつけたまま声をかけた。
「水の国で僕と別れている間、何してたんだ」
 かすかに、壁の向こう側で身じろぐような気配がした。……そう、思いたかっただけかもしれない。
 ああまずいな、と他人事のように思う。こんな死に方は。こんな死に別れ方は。べつにどんな理由だってよかったじゃないか。ここまで、付き添ってくれたのだから。それだけで十分だろう。それだけで十分、僕は救われていただろう。
 だから今さら、苦しめるだけ苦しんで死ねだなんて、そんなことをたった一人の親友に思ってはだめだろう。
「楽しかったか?」
 焼け焦げた喉が、呪いの言葉を継いでいく。
「みんな、元気だったか?」
 息を呑むような気配がした。……したと、思いたかっただけかもしれない。
「ヴォルト、一回、村に帰っただろう」
「――――」
「ゾフに教えてもらったんだ。いいや自分で計算したんだ。世界の外周を。エトリからレアルタイまで、足だとあんなにかかったのに、汽車だとほんの十日で着くんだな。僕が樹林帯を歩いてる三ヶ月の間に、十分、往復して来れる距離だ。切符も、ヴォルトにならレアが手配してくれたんじゃないか」
「…………」
「あのとき、ヴォルト言ったよな。おじさんと、おばさんを見捨てて、村を出るって決めたとき。村には帰らないほうがいいって」
「…………」
「祟りとか、神とか、みんな敏感だからって。下手な理屈よりよっぽど信じ込んでしまうものだから。そんなもの持ち帰ったら、きっとただじゃ済まないから。ましてクルムホルムは隣山だから、って。でもそれなら、」
 違っていて欲しいと願う。
 このまま返事がなければ、と期待する。
 でも返事がないということは、そのまま、ヴォルトが生きていないかもしれないということを意味する。
 どっちなのだろう、とぼんやりと思う。
 どっちが、正しいのだろう。
 どんな卑劣な裏切りを受けたとしても、僕はヴォルトに、まだ親友として傍にいて欲しいだろうか。
「そんな隣山の神さまを、ヴォルトは信じてなかったのか」
 壁の向こうで、ごとりと、何かが落ちるような音がした。あるいは、誰かが勢いよく振り返った気配にも感じられた。
 赤く染め上がっていく虚空を眺めた。崩落した天井のせいで、まるで壮大な吹き抜けのようだった。取り残された僕たちを囲んで、高く高く、火柱が上っていく。明るい。でもその向こうが果てしなく暗い。近くが眩しいから、遠くは一層沈み込んで見える。ここは風の国だ。空のない国。
 逃げるなら早くしないと燻り殺される。
「……本当は誰より、ヴォルトが宛てにしてたんじゃないのか」
 つぶやきが、虚空に吸い込まれていく。
「クルムホルムの言葉を。だから、付いて来たのか」
 いつかの、朗らかな声が耳の奥を優しく撫でた。

 ――だから、俺が行くことにするよ。
 ……え?
 ――俺が、おまえに付いて、村を出て行くことにした。
 ――は!? なんでそんなことに、
 ――いや、だって親父が死んだら、俺が後を継がなきゃいけないだろ。そろそろ腹くくって勉強しなきゃとは思ってたんだ。閉鎖的な村に新しい風を入れるいい機会だし、あれだ。留学ってことで、ここはひとつ。
 ――そんな、物見遊山じゃあるまいし、
 ――ここじゃ無理でも、もっと栄えた国に行けば分かんねえだろ。見つかるかもしれないだろ。クルムホルムとの契約、解く方法っつうか……見殺さなくても。

 そう、見殺さなくても。
 ヴォルトは、見殺さなくても。

「僕がライラを生き返らせれば、また会える」
「――――」
「僕一人が地獄を見れば、みんな、もう一度ライラに会える。一緒に来てくれたのは、いいや便乗したのは、旅をやめさせないためだったのか。だから、人口の多い鉄の国に連れ出したのか。見殺すのは外の人間じゃなければだめだったから。途中で僕の心が折れてしまわないように。見張ってたのか。ちゃんと7人ぶん、魂を刈り取ってライラに注ぎ込めるように。誰に頼まれたんだ。村長か。それとも、本当はエルシャおばさんは生きてるのか。神との契約を破らないように、監視してたのか。僕が、何人も何人も見殺しにしていく間、心の底では数えてたのか」
 そしていよいよあと一人になったから、器を取りに帰ったんじゃないのか。
 かき集めた魂を、もう一度、注ぎ込めるように。
「違う」
 え、と硬直した。即座に振り返り、そして真っ白な壁に眼前を阻まれた。
 ……生きてるのか。
 喋れるのか。
 どん、と向こう側から壁が叩かれた。
 どん、どん、ともどかしそうに、二回繰り返される。思わず体が萎縮した。あんなにも救いの見込めない体で、尚、この世にしがみついて訴えかけようとしてくる何か。
「……ヴォルト?」
 音が止んだ。
「っ、ヴォルト、おいヴォルト!」
「……おまえさ、」
 搾り出すように、かつて聞いたことのない悔しそうな声が返ってきた。
 それが、僕が聞いた親友の最後の言葉になった。
「頼むから、一度でいいから、俺の声も聞いてくれよ――」

第17.5話 Dreamed a dream(9)へ続く

プロローグから読む

この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?気軽にクリエイターを支援できます。

3
コメントを投稿するには、 ログイン または 会員登録 をする必要があります。