
第19話 土葬の国
置いて行かれた。
取り残された。
喪失感だけが心を埋め尽くしていた。
覚えているのは、瞼の裏に焼きついているのは、燃え立つような小麦色の光だ。
あの瞬間、世界の理が書き換えられた。
そうとしか思えない光だった。
神々しい、という言葉を思い浮かべて、そんな非科学的な単語しか連想できない自分が、何よりも変わってしまったのではないかと茫漠とした不安に駆られた。
目の前には、荒涼とした大地が広がっていた。
長らく雨が降っていなかったかのように、乾燥し、見渡す限りがひび割れている。真上に太陽が来ている。時間はさほど経っていないらしい、と考えてから、しかしそれがいつを起点としている時間なのが分からないことに気づく。いま一度空を見上げた。眩しいけれど、暑くはない。冬なのだろうか。薄く曇っている。
風もない。
「――――」
風がない。
それだけのことが、ひどく恐ろしいことに感じられた。
理由は分からない。手がかりを探そうと、僕は自分の体を見下ろした。
いつのまにか、まるで神に祈りでも捧げようとしていたかのように、地面に膝を折っていた。けれど組み合わせるべき手の指は剥がされ、だらんと両脇に垂れている。
ひどく腕が疲れていた。全身がだるい。それに目が痛い。泣き腫らした後のような、瞼の重さを感じる。
確か、何かをつかもうとしていたのだ。
でも届かなかった。
衣服はぼろぼろに擦り切れていた。どうしてこんな格好をしているのだろう。分からないまま立ち上がろうとし、けれどそれができずに大きくよろけた。そのまま、前のめりに地面に突っ伏した。
無風の大地にはじめて土煙が舞い、口の中に泥の味がした。
――懐かしい匂いだ。
これが土の味だということを、僕は知っている。
以前も、似たようなことがあった。
いつだったろう。泥はあたたかくて気持ちよかった。あの日は……あの日? とても寒い日で、雨が降っていた。ひどく眠かったんだ。それで、もう眠ってしまおうかと目を閉じて、でも誰かに邪魔をされた。誰だっけ。黒い馬に乗っていた。だから珍しいなと……いや。
それはおかしいか。
黒なんて、べつに珍しくもない色なのに。
思い出せないということは、それほど大切なことではなかったのだろう。
それよりさっきから、ひどく足が痛い。
記憶を手繰ろうとするたびに、ずきり、ずきりと主張してくる。痛みの根源は右足首のようだった。そっと手を触れると、大きな瘡蓋ができていた。……なんだこれ。瘡蓋は、足首を挟むように両側にざらざらと幅を利かせている。まるで何かが貫通したかのようだけれど、本当にそんなに酷い外傷を負ったならば、このていどの痕で済むとも思えない。どこかに挟みでもしたのだろう。
納得し、後ろを振り返った。
塔の廃墟があった。
塔……だと思うのだけれど、何か、船の舳先が逆さに地面に突き刺さったような、不均衡な形状をしている。上に行くほど裾野が広がっているのだ。つまり空に近づくほど、円周が大きい。それもまっすぐではなく、斜めに傾いでいて、いつ倒壊してもおかしくなさそうな不穏さを感じる。これでまだ建っていることが奇跡のように思えた。
外壁は風化し、あちこちに穴が空いていた。
単に風化しただけではないのかもしれない。地震や、さもなければ竜巻か――あるいはそれがどんな状況かまでは想像がつかないけれど、人為的な事故による爆発か。通常では考えられない強大な力が加わって吹き飛ばされたかのように、かなり遠くまで剥離した構造材が散在している。いずれも、黒く焼けたような痕跡が目立つ。
廃れた塔には、蔦が這っていた。
僕は目を見張った。青々とした緑だ。この荒野で、この塔の周囲だけ異常に生命力が旺盛なのはどうしてなのだろう。中に水源でもあるのだろうか。
そう考えて、あ、と思った。
そうだ、この感じだ。
おかしなことだけれど、疑問が湧くとしっくりくる。
考えても、結局は分からないのに。
分からないことなんて、考えても仕方がないのに。
僕は深呼吸した。
もう一度、ゆっくりと足に力を込めてみる。調べたい。転んだのならば、起き上がらないと。いつまでもこの場所に膝をついているわけにはいかない。大丈夫……言い聞かせ、少しずつ慎重に、下半身に体重を乗せていく。
今度は上手くいった。
ぐっと、視界が高くなった。
そうして初めて、迫り来る異変に気がついた。
僕は茫然と立ち尽くした。せっかく立ち上がったのに、これでは、調べごとなどしている場合ではないかもしれない。
距離にしたら、ほんの二百ヤードほど先だろうか。
そこから向こう側の地面が消失していた。
崖になっている、などという生易しい規模ではなく、今まさに、音を立てて大地が崩落していく。僕の立ち位置から見渡せる――いいや見渡せた限りの地平線が、端から端まで、まるで手を繋ぎあって身を投げたかのようにきれいに落ちていった。
僕は唖然と、何度か瞬きをくり返した。もしかすると、逃げ水のような現象かもしれない。どういうわけか僕は今まで眠っていたようだし、起きぬけの寝惚けた頭が錯覚を見せたのかも。
けれどほんの数秒も待つと、成り代わったばかりの新しい地平線――世界の最果てともいうべき陸地の境界が、やはり同じように落ちていくのだった。
「……弱ったな」
呟いた。
これはいよいよ、逃げないとまずいかもしれない。後戻りをしないと、あれに巻き込まれて死んでしまう。
だというのに、ここを立ち去りたくない。
自分でもどうかしていると思うけれど、何かを、ここでやり残しているような気がして仕方がないのだ。
理性では引き返せと、ちゃんと思っているのに、足が、崩落のまさに最前線へと歩きだしたいと震えている。
あの向こうを、僕は覗きこまなければいけない。
崩れ落ちた世界がどんなふうに消えていくのか、知りたい。
――×××が、どこへ行ったのか。
僕は一人、頷いた。塔を調べるのは後回しだ。大地に散らばった建材と、今まで体をあたためてくれていた太陽に背を向けた。
まだ足が痛む――これではいざというとき、走って逃げることもできないぞ――薄々と思い至りながら、それでもよろよろと、歩みを止めることだけはしなかった。
幸いなことに、僕が向かっている間、足もとは落ちずに待っていてくれた。
しかし揺れていた。どうして今まで気づかなかったのだろう。僕が歩いている間も、微弱な地震がずっと続いている。あちこちひび割れていたのは、乾燥だけが原因ではなかったのかもしれない。
この揺れで、がたが来ていたのかも。
壊れかけの世界の果てには、わずか数十歩で辿りついた。
僕は崖のぎりぎりの立ち、直下を覗き込もうと――
「危ない!」
「え? うわっ……」
後ろから抱きすくめるように、誰かに止められた。危うく落ちるところだった。急に何をするのか、かえって危険だろうと抗議しようとしたけれど、そうする前に、ぱっと手を取られた。
「走るよ!」
「え、いや僕は――」
顔を見る余裕もなかった。背丈と声からして、女の子なのは間違いないと思うのだけど、僕を連れ去ろうとする腕の力が強い。手のひらがごつごつ、ざらざらしている。よほど水仕事でも多いのだろうか。
豆だらけの手は、僕を強引に引っ張って行こうとしていた。
けれど僕は足に怪我をしているから、思うように付いていくことができない。
推定少女はそれに気がつくと、手を引くのをやめ、小走りに僕の隣へと回り込んだ。肩を貸そうというつもりらしい。戸惑っていると、
「早く!」
と鋭く叫ばれた。
僕はおずおずと少女の肩に手を回し、びっこを引きながら崖から離れた。
塔の近くまで連れ戻されたところで、ようやく解放してもらえた。僕は息を切らせて座り込んだ。それを、腰に両手をあてて仁王立ちになり、少女は憮然とした表情で見下ろした。
「あなた。名前は?」
「…………」
僕はまじまじと、ようやく少女の委細を観察した。
荒野の陽射しや寒さから身を守るためか、土気色のマントをまとっている。いや、元はこんな色ではなかったのだろう。ところどころまだらにのぞいている布地からするに、かなり鮮やかな紅色だったようだ。古びて、年季の入ったマントだ。土埃で汚れているため茶系の色に見えたらしい。
顔立ちは……誰かに似ている、と思ったけれど誰かまでは思い出せない。
珍しい髪の色をしている。ローズブロンドというのだろうか。淡い桜色がかった金髪で、惚れ惚れするほど艶やかだ。マントは、きっとこの髪の色に合わせてしつらえたに違いない。残念ながら今は見る影もないけれど。
本人の顔も、まるで長旅のあとのように土埃にまみれている。
それでも頬にさすほのかな血色や、きめ細やかな肌、憂いを帯びた唇から、美しい人なのだろうということは察せられた。
特徴的な青灰色の瞳をしている。曇り空のような。
すっきりと澄んだスカイブルーでないところが、どことなく悲しげな雰囲気を漂わせていた。
「ちょっと、聞いてる? あなた名前は?」
「え」
「え、じゃない! 名前、あるでしょう?」
僕は目をしばたたいた。しばし考えてから、ファシオ、とだけ答える。それは覚えていた。
すると少女は、ほっとしたように肩を下ろした。
「そう、ファシオ。私はアリアドネ。アリアでいいわ」
そう言って手を差し出してくる。
握り返したほうがいいのだろうかと考えていると、じれったくなったのか、彼女のほうから僕の手を取り、無理やり自分と握手をさせた。さっきから少し強引なところのある子だ。けれど不思議と嫌な感じはしなかった。
アリアは真剣な表情で頷いた。
「これで、あなたと私はもう友達よ……死のうとか思わないでね」
「……え?」
「……え?」
微妙な沈黙が下りた。ややあってから、
「……死ぬって、誰が?」
「…………。いいえ。そう、違ったの……」
やってしまった……というふうに額に手をあてる。けれどすぐに気を取り直したように外し、今度は腰に据えむっと僕を睨んだ。
「でもあなたが悪いのよ! あんなところにいたら危ないんだから!」
「ああ、うん。それは、そうだろうなとは思ったんだけど――」
ちらと地平線に目をやると、また新しい大地が土煙を上げて崩落していくところだった。おかしな言い方だけれど、慣れてくるとなかなか壮観な眺めだ。
その眺めを指差して、少女は顔を赤くした。
「ほら! 御覧なさいよ!」
「うん、うん。わかったよ。ごめん。それより、君はここで何を?」
「何って……」
意外な質問だったのか、少女は毒気を抜かれたように、ふぅと息を吐いた。
「私は墓守よ。ここで土葬を見守っているの」
「……土葬?」
「あれ」
と、今まさに落ちていく、さっきまで地平線だった地面をあごでしゃくる。
「詳しい原因は別働隊が調査中だけど。ああやって毎日続いてるの。それに便乗して、身投げする人が後を断たないのよ。それを止めるのが仕事」
「嫌な仕事だね」
「言ってくれるわね」
不快さを隠そうともせず眉をひそめる。確かに、今のはもう少し言葉を選んだほうがよかったかもしれない。けれどアリアはあまり気にしない性格なのか、うーん、と伸びをして首を回した。
「まあでも、確かに楽な仕事ではないのかな。止めようとしても間に合わないこともあるし、うっかりしてると自分も死んじゃうし。ここもまだ安全とは言えないから、そろそろ立って。歩ける? よし、じゃあ行きましょ」
「行くって、どこへ?」
膝を起こしながら尋ねると、アリアはなんだそんなこと、という顔で振り返った。
「私の家。友達を招待するのよ、おかしい?」
アリアは、塔を拠点に一人で暮らしているようだった。
拠点に、というのはいつ倒壊するか分からないからで、そこに暫定的に資材を置いてはいるけれど、寝泊まりはもう少し離れたところに野営していた。
結局、この日は僕以外には誰も土葬には来なかった。
厳密には、僕も必ずしも死ぬつもりではなかったのだけれど、アリアの勘違いのおかげで夕食までご馳走になってしまった。
僕とアリアは、今、焚き火を挟んでリンゴをかじっている。
火にくべた鉄製のカップに、乾燥した茶葉を落として煮立つのを待ちながら。
「悪いわね。見張り、手伝ってもらっちゃって」
「……いや。暇だったから」
「多いときは日に3人とか、4人とか……来るのよ。ときには家族連れとかでね。そういうときは、武器を振り回してでも止めようとするんだけど、武器があると今度は撃ち殺してって言われるの。信じられる? 子どもを抱いた親に、どうかこの子からお願いしますって泣きながら懇願されるのよ?」
嫌な仕事だね。やはり思ったけれど、今度は口には出さなかった。
アリアは饒舌だった。僕が何を喋らずとも、勝手に自分の仕事や、そこで会った人たち、その人たちに対して抱いた感情まで事細かに教えてくれる。この子には警戒心というものがないのだろうかと思っていると、唐突に振られた。
「それで? あなたは」
「……僕?」
「死にに来たんじゃないなら、何してたの? あんなところで」
「さあ」
「さあ、って……」
さも納得いかない顔をする。当然の反応なのだけれど、僕とて、どう説明すればいいものか分からなかったのだ。記憶がない、と打ち明ければ彼女は助けてくれるのだろうか。助けてくれそうに見える。
でも、それを自分が望んでいないことは分かる。
ぼんやりと、自身の心にも手探りで、なるべく正確そうな言葉を選んだ。
「……これから、どこへ行けばいいのかよく分からなくて。でもあの下を見れば、少しは気も晴れそうな気がして」
「あの下って……」
案の定、アリアは呆れたように火から体を離し、胸を反らせた。
「土葬のこと? 地面が落ちていくところが見たかった、ってそういうこと? なんだってまた」
「さあ」
アリアは呆れたようにぐるりと目を回した。それから火が弱まっていることに気づくと、食べ終えたリンゴの芯を投げ入れた。ぶわりと火力が強まり、どこか異国情緒を感じさせる独特の香りがあたりに漂う。大きくなった炎のゆらめきが、端正なアリアの顔立ちに濃い陰影を落とす。
「何もないわよ」
「……え?」
「あの下。私も興味本位で覗いてみたことあるけど、何もない。ううん、もちろん空はあるけど、それだけ。ただの崖になってるってこと。土葬は、すっごい規模の大きな、でもただの崖崩れ。分かる? 見たって何にもならないわ」
「そうなんだ。……そっか。何もないのか」
「そ」
あっさりと、僕の疑問は片付けられてしまった。
荒地の夜に沈黙が戻ってきた。ぱちぱちと炎の爆ぜる音だけが響いている。静かな夜だった。暗くなってからも、やはり風は出なかった。
僕もリンゴの芯を炎に投げ入れた。
これからどうしようか……俯き、黙考しかけた頃になって、ぽつりとアリアが呟いた。
「……何もないから、問題なのよね」
僕は顔を上げた。
アリアは火にかけていた鉄製のカップを上げて、一つを僕に差し出した。
「何もないのよ。本当に、何も。でも、何もないっていうことは、見えないってことでしょう? 見えないって厄介なのよ。見えないと、人はあるような気がしてくるから」
僕はカップを受け取りながら尋ねた。
「どういうこと?」
「分かりやすい例だと、……っていうか、土葬に来た人から、どれも実際に言われたことだけど。新大陸とか。彼岸とか、天国とか……とにかく、ここではないどこか。楽園みたいなもの? わかんないわよ、そんなの私にも。でもとにかく彼らは、この現実から抜け出せると信じて、あの崖に来るの。ただの底なしの崖なのに。飛び降りたってどこかへ逃げられるわけでもないのに。でも、そう言ったところで彼らは納得しないのね。なぜなら見えないから。もしもせめて、崖の底が見えたならば、あきらめがつくじゃない。ああ、ここから身投げしたら、あそこに体がぶつかって、つぶれて、ひしゃげて血がいっぱい出て死ぬんだなーって。ちょっと嫌だなって思うくらいには、きっと想像もできるじゃない。でも、見えないのよ。……土葬のいちばん厄介なところはそこね。あるものは証明できる。でも、ないものは証明のしようがないもの」
「――――」
その言葉を聞いたとき、何かを思い出しそうになってぐっと眉根を寄せた。
眉間に力を入れていれば、思い出さなくて済むような気がしたのだ。
思い出してしまうと、何か取り返しのつかないことが起きるような気がした。
急に形相を変えた僕に、アリアはぎょっとしたように声を低くした。
「……どうかした?」
僕は受け取ったカップに視線を落とした。ゆらめく黒い液体に、ちり……と小さな火の粉が落ちて、溶けて消えた。
「……その人たちは、そもそもなんで死にに来るの」
「それは……? あなた、やっぱりちょっと変わってるわね」
「そうかな。そんなにおかしい質問だった」
「おかしい……いや、おかしくないのかな。もしかするとおかしいのは私のほうか」
うーん、と両手にカップを包んだまま、アリアは空を仰ぐ。
「なんで。なんでか。あんまり考えたことなかったな……正直、どっかで無理もないかってあきらめてたのはあるかも」
「無理もない?」
「そう。悲観的な人には耐えられんじゃないかって。だって、毎日少しずつ地面が落ちていくのよ? このまま土葬が続けば、いつかはこの世界って消えてなくなっちゃうわけでしょう? それって怖いことだよ。せめて土葬の頻度とか法則性が分かれば、その日までは大事に生きようって心構えもできるけど、残念ながらあれは予測できるようなものでもなさそうだし。そうなると毎日、毎晩、いつ自分の足下が脅かされるのかも分からないまま、ただ心配だけして眠るのって……眠れないよね。きっと。気になっちゃう人には、怖くて怖くて。生きた心地がしないんでしょう。で、眠れない日が続いたあげく、自分から飛び降りに来ちゃうんだよね。なんだかなぁ」
「大変だね」
アリアは顔をしかめた。
「あなただって他人事じゃないでしょう」
僕は口をつぐんだ。言われてみればそうか。ここにいる以上、僕も当事者なのか。
少し考えてから、尋ねた。
「落ちているのは、本当に地面で間違いはないの?」
「どういう意味?」
僕は再び視線を落とした。どういう意味だろう。
自分でも不可解なことを聞いているなと感じる。けれどこの現象の手がかりを、僕は知っているような気がしたのだ。
「エフ……」
「え? なに?」
「アリア。書くもの持ってる?」
「あるけど……待ってて、テントから持ってくるから」
カップを脇に置いて、すぐに立ち上がってくれた。
いい子だな、と思う。僕自身ですら要領を得ていない、つかみどころのない話を、こうして疑いもせず聞いてくれるのだから。
それとも不自然さに気づいて尚、触れないでくれているのだろうか。
毎日、毎日、死にたがりの人たちとだけ会話を続けるというのは、どういう感覚なのだろう。人間が嫌いになったりはしないのだろうか。
「あったわよ」
アリアは古びた革の手帳と、一本のペンを持ってきてくれた。
僕は礼を言って受け取り、ページを開いた。そこで手を止めた。個人の手帳なのだから当然なのだけれど、すでにびっしりと書き込みがあった。
「ああ、ごめん。空いてるページを使って」
言いながら、再びアリアは向かいに腰を下ろし、カップに口をつける。
僕は頷き、ページをめくっていった。そのときにどうしても、書き込みの断片が目に飛び込んで来てしまう。
日誌のようだった。
ここを訪れた人たちの名前、性別、年齢、顔や、服装の特徴……その他にもどうやって知りえたのか、趣味や生い立ち、食べ物の好みまで、余さず記載されている。
「今夜はあなたのことを書くのよ」
僕は顔を上げた。
「あなたが嘘をついているかもしれないから。本当に死にに来たわけじゃないって、私には確信のしようがないから。人の心の中なんて分からないから。だからせめて、言葉で聞いた話くらいは書き留めておくの。忘れないようにね。そうすれば、いつかまたあなたの気が触れて、この場所に来てしまったときに、少なくとも私はあなたのことを覚えているよ、って言えるでしょう。ここに一人、あなたを記憶している人間がいるわよ、っていうサインにはなるから」
「……どうして」
「はは、聞いてくれるわね。記憶力がないからよ……会う人、会う人、みんなのことを、本当はちゃんと頭の中にしまっておきたいんだけど。残念ながらそっちの才能はからっきしなのよね」
「いや、そういうことじゃなくて――」
「ううん、そういうことなのよ。私、本当に覚えていることができないの」
僕は黙って、青灰色の瞳を覗き込んだ。
夜のせいか、今は黒く沈んで見える。
「冗談でも、比喩でも、謙遜でもなくて。明日には、あなたのことも忘れてるわ。そういう体質なの。ああ、なんでそうなったのかは聞かないでね。覚えてないから。べつにもう慣れっこなんだけど、でも少し寂しいわよね。おちおち友達も作れないなんて。悔しいから、私は、自分で自分にルールを敷くことにしたの」
アリアは人さし指で、僕にページをめくるよう促した。
僕は再び視線を落とした。言われたとおりに手帳をめくっていくと、まっさらな空白にただ一言、ファシオ、と書き出されたページに目が留まった。
そこが、いちばん新しいページだった。
「名前を教え合ったら友達。誰がなんと言おうと、あなたは私の友達よ。たとえ、世間ではそういう認識をしなかったとしてもね。そして友達でい続けるために、私は毎日、これを読むの。はい、この話はおしまい。そういうわけだから、何か書くならそのページにどうぞ。そこが私という人間の中での、あなたの居場所」
僕は頷いた。自分にも記憶がないのだということは言わなかった。言ったところでどうにもならない。彼女も覚えてはいない。
それよりも、自分は何を書くのだろうと、少しだけ好奇心に胸をふくらませて、ペンを走らせた。
まっさらなページに、黒いインクが定着していく。
F=Gm1m2/r(2)
ファシオという名前の下に、自己紹介のように現れたそれを僕はしげしげと眺めた。これはいったいなんだろう。
アリアも、身を乗り出して覗き込み、
「うわっ、色気ない……」
「色気?」
「なんで数式? もっとこう、はじめましてとか、美味しいお茶をありがとうとか、あるでしょう! はぁー、私けっこういい話してたと思うんだけどな……まあいいわ。で、ファシオ? それはなに? さあ話して」
「はぁ」
「喧嘩売ってる?」
微笑した。
そんなつもりはないよ、と心の中で応じる。
僕はそっと、自分の書き記した数式を指で撫でた。ひどく懐かしい。
もどかしそうに首を長くしているアリアに向けて、一応、伝えるだけのことは伝えてみようと、人差し指で一つずつ記号を示していった。
「Fの値を算出するための方程式。分数と乗算については大丈夫?」
「え。……ええ、少しだけなら」
「m1とm2はそれぞれ物体の質量を表してる。例えば、m1がこの星の質量で、m2はリンゴの質量。rはふたつの物体間の距離。Gは比例定数で、6.67259に10のマイナス11乗とmの3乗、それから……」
「ち、ちょっと待って。早い早い。それにそんなに丁寧に説明してくれなくても大丈夫だから。もっと簡潔に、分かりやすくお願い」
「え……と。仮に、この星のリンゴにはたらいている力と、この星が月に及ぼしている力があるとすると、互いの距離の2乗に反比例するならば、同じ力だっていうこと」
「……要するに?」
「太陽と惑星との間の距離が逆二乗だと、惑星の軌道は楕円に――」
「じゃなくて、そもそも『リンゴににはたらいている力』とか、『星が月に及ぼしている力』って何? そういう力があるってこと? これは、Fを求めるための方程式なわけよね。Fってなに?」
「ああ、そういうことか。Fは――」
ページの上に置いていた人さし指を滑らせて、F、という一文字の上で止めた。
アリアが期待に満ちた眼差しを向けてくる。
けれど、そこで僕は困りはててしまった。この事象を、どう呼称すればいいのか分からなかったのだ。Fはずっと、僕の生活の傍にあった気がするし、だからこそ仮にもFという一文字を与えていたはずなのだけれど。
言葉で呼び親しんだ記憶がない。
「Fは……」
言うなれば、物体と物体とが互いに引き合う力。
この原理だけならば、引力とでも称すればいいのだろうか。でも何か物足りない。いいや、Fは実際シンプルなのだけれど、僕が言いたいのは、力そのもののことではないのだ。
それはこの地上だけではなくて、月や太陽、あらゆる天体、宇宙においても、互いに影響しあっている関係性のことだ。Fという力によって、万物は繋がっているという現象についてこそ、僕は言及したかったはずだ。
でも、それをなんと呼べばいいのか分からない。
例えば、リンゴが地面に落ちるただそれだけのことならば、重力という言葉がすでにある。でも、僕が言いたいのは、そういうことじゃない。むしろ、この重力とまさしく原理を同じくする力が、実はリンゴ自身からも発せられていて、それは僕からも、アリアからも、この果てしない空の向こうまで、無限に存在しているということを伝えたいのだ。
胸に、なんとも言えない虚脱感が去来した。
僕は、これをFという以上の言葉で表したことがない。
このときはじめて、自分の記憶が失われているということを疎ましく思った。
こんなにも親しく、懐かしく、おそらくは愛しい友人のような存在だったはずのFに、僕は名前すら与えたことがなかったのだろうか。
それとも忘れてしまったのか。
思うと、急に悲しくなった。
「貸して」
「え。あ……」
いつのまにか立ち上がっていたアリアが、僕の手から手帳とペンを取り上げた。
「ごめん、やっぱりちゃんと自分で計算する。要は数値を代入してみればいいってことでしょう? 比例定数はなんだっけ」
隣に腰を下ろし、さも慣れた手つきでさらさらと数字を走らせはじめたアリアを、僕はかすかな驚きとともに見つめた。
「……計算……」
できないんじゃ。飲みこんだ言葉が聞こえたかのように、アリアは淡々と告げた。
「したくないのよ。どれだけ画期的なアイディアを思いついたとしても、一日で証明できなければ振り出しだもの。さっきなんて言ってたっけ? 太陽との距離が逆二乗だと、惑星の軌道は楕円になる? それってつまり、惑星が遠心的に太陽を遠ざかろうとする力を、相殺して引き戻す別の法則が存在するってこと? その力がFで、ファシオの書いたこの式は、Fの普遍性を示してる?」
「…………」
「違った?」
僕は慌ててかぶりを振った。
「あってる」
「そう。じゃ、これ一晩借りるわ。なんとか朝までには自力で納得してみるから……あ」
借りるも何も、これは元から私の手帳だったわね、と軽やかに笑う。
そうしてあっさりとその場を立ち、火はそのままにしておいて大丈夫だからと言い置いて、一人テントに戻ろうとする。
僕は、後ろから追い縋るように声をかけた。
「どうして」
アリアは立ち止まり、僕を振り返った。
「どうしてって、何が? どうしてそんな計算ができるのか、っていう意味だったら、母が自然哲学派の学士だったからだけど」
「いや……」
「どうして、話のきっかけに出てきたに過ぎない、正しいかも分からない数式に構うのか?」
心の中を見透かされたようで押し黙った。
その通りだった。アリアが告白してくれた手前控えたけれど、いくら友達といっても、僕たちはさっき会ったばかりの他人だ。そこまでしてもらう理由がないし、あるいは、そんなつまらない式に執心するくらいならば、もっと違う話をして、これから友好を深めることだってできるだろう。
彼女にはこの一晩しかないのだ。
せっかく出逢えた貴重な時間を、真偽すら判然としない式の計算などに費やさなくてもいいのではないか。喉元まで出かかる。
アリアは、じっと僕が言葉にするのを待っていた。
けれど何も言わないと知れると、うーん、と焦れたように髪を払った。それから、どこか投げやりに言った。
「だって、これ、あなたの全てなんでしょう?」
「――――」
思わず息をつめた。
そんな僕の反応に、アリアは、やっぱりと苦笑した。
「たぶんだけどね。今晩、ここでこれ以上、あなたといくら何を語らったところで、あなたの心には近づけないと思うの。それよりかは、こっちに取り掛かったほうがよほど楽しそうな気がするんだけど。違う?」
「…………」
……違わない。
けれどアリアはもう、いちいち答えを待ちはしなかった。
やわらかく微笑し、踵を返しざまひらひらと手帳を振った。
「そういうこと。眠くなったら、勝手に入ってきてくれて構わないわ。隣の寝袋と毛布を使ってちょうだい。おやすみ」
結局アリアの言うとおり、その晩、彼女と話すことはもうなかった。
僕は眠らずに、テントの外でアリアの計算が終わるのを待っていた。よほど優秀な学士でも、そう易々と正誤を判断できる内容ではないはずなのだけれど、不思議と不安はなかった。
ただ、一晩で足りるのだろうか、とだけぼんやりと思う。
足りなかったら、どうなるのだろう。
これから、どこへ行くのだろう。
火の番にも飽きて、大地に仰向けに寝転がった。背中からこんこんと冷気が這い上がってくる。焚き火のおかげで頬だけがあたたかい。火はいつか消える。いつも、ずっと近くで見守ってくれていような気がする夜が、今日はひどく心もとない。ひっそりと瞬く星雲が、舞い散る火の粉に境界線を脅かされて、今にも消えてしまいそうに見える。
でもきれいだ、と思った。
泣いているようだ、とも思った。
ときどき、遠くから風鳴りのように地響きが感じられた。どおん、どおん……と祝砲が打ち鳴らすように大地を揺らしている。土葬だろうか。また、どこかの地面が崩落したのか。せわしないことだ。夜の間中も続いているんだな、本当にひっきりなしなんだなと、やはりどうしても他人事のように思う。
やがて、薪がほとんど燃え尽き、火は消えかけ、夜明け前のしめやかな冷気に体の芯まで凍えかけた頃、テントの入口が開いた。
中から、さっと一条の明かりが漏れてきた。
「……ファシオ?」
呼び声は、か細く、不安げで、さっきまでと同じ少女のものとは思えないほど可憐だった。
僕は上体を起こした。
僕がテントの中へ入ろうと思ったのに、アリアはひょっこりと自分から顔を覗かせた。その表情を見て、悪いと思いながらもつい声を立てて笑ってしまった。これはよほど、腑に落ちないことがあったらしい。
外は寒かろうに、アリアはまるで厭う様子なく歩み出てきた。まっすぐ、僕のほうへと進んでくる。そうしてすぐ傍まで辿りつくと、何を思ったのか急に跪き、僕の両肩に手を置いた。
その手が震えていた。
「……この式、あってるわね?」
僕は答えずに、地平線へと目を向けた。
ほのかに紅が差し始めている。けれど空が白むまでにはもう少し時間がありそうだ。
――間に合ったのか。
「ねえ、ファシオ」
「……計算、得意なんだね」
アリアの顔がくしゃりと歪んだ。こんな女の子らしい表情もできるんだなと、場違いにも心があたたかくなった。
ふと、小さな衝動が芽生えた。どうしてかは分からない、けれどそうするのが自然なような気がして、僕はアリアの髪に手をのばした。夜をたたえて青く透きとおるようだったブロンドに、すっ……と滑らかに指が通る。
ああそうだ、と思い出す。
以前も、こうやって誰かの髪を撫でた。
別れ際に。
アリアはいよいよ嗚咽を漏らした。
「っ、どうしてそんな顔ができるのよ、ねえ! これって……これは――」
「なんて呼べばいいと思う?」
自分でも驚くほど穏やかな声がでた。申し訳ないとは思っているのだ。こんな重荷を押し付けて。でも、同じくらい満たされていくのも感じた。
「Fを。僕はなんて呼べばいいかな。一晩、考えてみたんだけど思いつかなくて」
「そんなことっ……」
アリアの、僕の肩を掴む手にぎゅっと力がこもった。
堪えきれないように俯いた瞳から、夜明け前の薄闇にも隠しようもなく、透明な雫がきらめき、こぼれ落ちていく。ひび割れた大地に音もなく吸い込まれ、小さく、美しい円を描く。あと数時間もすれば消えてしまう涙の痕だ。
その儚い軌跡が、今はこの上もなく貴いものに思えた。
「あ……万有引力なんてどうだろう」
「っ、そうじゃなくてっ、これは……これは、世界は続いていく、っていう方程式でしょう? その証明でしょう? 私たち、まだ生きていられるっていうことでしょう、ねえ、そうでしょう!?」
「……さあ」
空が白み始めた。
すぐ傍に、夜明けの気配が近づいている。
僕はアリアを宥めながら、淡い地平線へと目を凝らす。昨日よりもずっと傍に感じられる。まるで歩み寄ってくれているようで微笑ましいけれど、現実はその逆だ。
僕たちは見放されたのだ。
今、この瞬間にも世界は壊れ続けている。
万有引力――物体と物体が引き合う力。ただ、そこに存在しているというだけで、互いに影響を及ぼしあう奇跡のような力。その力がなければ、月はいつまでも星の周りにいられない。自らの速度によって生まれる遠心力で、円周軌道を描く前に、どこか遠くへと弾き飛ばされてしまう。でもそうならないのは引力があるから。そういう絆が、この世界には確かに存在した。……昔は。
いつのまに、綻びてしまったのだろう。
遠くに、昨日見たあのいびつな塔の影が揺れている。東雲色に染まり始めた空を、一身に、寡黙に背負っている。
そう、×××が教えてくれたのだ。あれは移民船だった。
錆び付き、ぼろぼろになった船体は、どこか折れた翼のようだった。あんな翼で、まだ空を支えられると信じている。なんて重たいんだろう。
大地が崩落しているんじゃない。
落ちているのは僕たちだ。
いつか、誰かが言った。最近、死んだ魂が土に還らなくなっていると。あのときはでたらめな方便だと呆れたものだけれど、こうして考えてみると、あながち嘘でもなかったわけだ。
視線を下げると、地続きの足が見えた。こんなにお腹がすいているのに。もう、体は薄皮一枚で飛んでいきそうなほどに軽いのに。魂は半人前のくせして、足だけは立派に自己主張する。
ざり……
誰も、自分を踏みつけて歩いてほしいなんて思わない。
なのに自分ばかりが、この地にしがみつくように生き続けようとする。
あの大地は、そんな軽々しい人間の性に嫌気が差して、もっと清らかな心の誰かを迎え入れるために、きっと旅にでも出るのだろう。
ここではないどこかへ。
僕たちは、新世界から落とされた。
どうしてこんなことになってしまったのかは分からない。興味もない。ただ、世界の原理から抜け落ちてしまった僕たちには重さがない。だから離れ離れになる。
万有引力はもうない。それでも希望を捨てきれなかったあの人が――そう、あの人。どんな顔をしていたっけ――壊れゆく世界から人々を逃がそうと、まだ、引き合う力が残っているどこかへ、きっと真摯な重さを抱えている誰かのもとへ、自分たちの手を引いてくれる奇跡があると信じて、あの船を作っていた。
間に合わなかったけれど。
じき夜が明ける。
「ファシオ……」
脅えたような呼び声に振り向いた。
アリアが、濡れた瞳で僕を見ている。しきりに首を横に振りながら。
「この式、ちゃんと発表するよね……? あなたがどうしてここに来たのか知らないし、もしかすると私には、もう永遠にそれを知る機会は来ないのかもしれないけど。でも、お願いだから。これが、あなたと会った私の最後の願いだから。日が昇ったら、すぐにこの場所を離れて。しかるべき場所に出向いて」
「…………」
アリアが、焦れたように叫び声をあげる。
「ねえ、分かってるよね!? もしかするとこの式のおかげで、土葬の法則性がつかめるかもしれない。建造途中の移民船だって開発を再開できるかもしれない。この式さえあれば船の軌道を計算できるから。今度こそ上手く――」
かすかな驚きが胸を衝いた。そうか。あの船の設計には、君も携わっていたのか。それはこの場所を離れがたくもなる。
空が青さを取り戻していく。
ぐんぐんと、加速度を帯び、光は世界を包み込んでいく。
アリアの表情に悲壮な色が差す。もう彼女は、涙でくしゃくしゃの顔を庇いだてる余裕もなく、ただ縋るように僕の襟首をつかみ、今にも殴りかからんばかりの勢いで何度となく強く、揺さぶりをかけた。
「っ、ねえ! 答えなさいよ! あなた、こんな式を見せておいて――。希望というのは罪よ、たとえ自覚がなくても、それを生み出したものは責任を負わなければだめなのよ。約束して。今、ここで誓って。日が昇ったら、必ず式を公表するって。アカデメイアに証明を提出するの。アカデメイアの場所、分かる? 今はベルヌイじゃなくて榊とエトリの国境にあるのよ? ああもう、どうしてもっと早く計算できなかったんだろう。待ってね、今地図を描くから――」
「……アリア」
「っ、手がかじかんで上手く描けないじゃない、口頭で説明するから覚えて。あなたなら簡単でしょう? ここから北北東に36度――」
「アリア」
「それから、食料は何をどれだけ持っていってくれても構わないわ、ここからもう少し行ったところには馬も繋いであるから、あなたの足に――」
「アリア。君の本当の名前はアリアじゃない」
え、とアリアが顔を上げた。一点の曇りもない純粋な瞳。
それでいて、くすんだ曇り空のように、悲しげな青をたたえた瞳。
そうだよな、と僕は心の中で呟く。
そんなに上手くいくわけがないだろう。ここで、記憶を失って彼女と二人、静かに暮らしていけたら、それはそれで幸せなのかもしれないけれど。
きらりと地平線が閃いた。
空が、焚き上げたような黄金に染まる。
瞬く間に、世界は明るみを肥大させていく。さっきまで頭上を覆い尽くしていた闇が、かまびすしく囁き合っていた星たちが、風に払われたかのように駆け去っていく。
この光の色を、僕はよく知っている。
神に見放された世界にも日は昇るのだ。
その瞬間、アリアの瞳の青が、ざぁっと溶け出すように失われた。入れ替わり、まるで鋳型に流し込まれる精鉄のように、灼熱した光が、今まさに大地に燦然と輝き始めた太陽の光が取って代わる。
アリアの瞳が、世界を照らしださんとばかりに、豊穣な小麦色に燃え盛る。
がらりと印象が変わった少女の肩を、僕はそっと抱き寄せ、耳元に囁きかけた。
「君の名前は、レティシア・フラムスティードだ」
アリアは――かつて僕が、レアという愛称で呼んでいた少女は、どこか惚けたような面持ちになり、ゆっくりと僕から体を離した。
輝く空を映し込む瞳で、まじろぎもせず僕を見つめた。
「……あなた、誰?」
僕は頷いた。そして彼女の手から、そっと一冊の手帳を抜き取る。
全てを失くしたレアを残し、僕は落ちていく地平線へと歩き始めた。皮肉にも、太陽は崩落する大地から昇っていた。眩しさのあまり目を細めた。いつそのときが来ても平気なように、彼女が逃げ込んでいた優しい紙片の上へと心を移す。
……やっぱりな。
本当は、僕も忘れかけていたんだよ。伝えそびれた言葉を口の中で転がす。
歩きながらレティシアの手帳を開いてみると、最初のページに現れた人物の名前はヴォルトだった。名前の上から何重にも線が引かれ、ぐちゃぐちゃに消し潰してある。書いては消して、書いては消しての繰り返し。指に血を滲ませながら書いたのか、ページのところどころにインクに紛れて擦過傷のような紅も滲んでいる。
しばらくして、ようやく違う人物の名前が出てきた。スフィリアだ。律儀なレアの文字とは思えないほど、震え乱れている。
果たしてこれを書いたとき、彼女にはまだ愛した男の面影や、尊敬した姉の記憶が残っていたのだろうか。
次のページにはアザカとあった。どこかで聞いた気のする名前だけれど、これは僕が思い出せない。このページは皺だらけだった。一度水に濡れてしまったものを乾かしたかのように。涙でふやけた痕だろうということは容易に察せられた。
そうやって最初のうちは実在した人物の名前が挙がっていた。
けれど次第に様相がおかしくなる。
特に、手帳も中盤に差し掛かり、レティシア、という名前が出てきた辺りから。
レティシアのページには、歌が書かれていた。
この直前のページまで、彼女の筆跡は苦悩に満ち満ちていた。読んでいる僕の胸まで、陰鬱に沈み、重苦しく詰まるような乱筆。でもそれが、ここへ来て急に何かが吹っ切れたかのように、弾んだ文字が目を引いた。
次のページからは、もう完全に知らない名前だけになっていた。
単に、僕の知人ではないという筋もありえるけれど、それまでとは打って変わって楽しげに、まるで訪れた春の日和に小躍りしているかのような美しい筆致は、ある種の狂気を匂わせた。
僕は引き続きページをめくった。たくさんの名前。たくさんの思い出。
アリアは、これを土葬に来た人たちの記録だと言っていた。けれどその実、レティシアが自ら生み出し、そして日ごと葬り続けた人格の記録なのだろう。
レアはこの場所で、自分を産んでは殺し続けている。
可哀相に。
僕はいったん手帳を閉じて、顔を上げた。
地面が揺れている。もうそろそろだ。
もう、すぐ目の前に、ぱっくりと口の裂けた大地が見えてくる。
あの向こう側を、今度こそ。
終着点にはあまりにも呆気なく辿りついた。昨日、僕を引き止めてくれたアリアはもういない。今日はどんな女性に生まれて変わって、どんな物語を生きているのだろう。気にはなったけれど、振り返ることはしなかった。
願わくは、――×××の体を、大事に使ってくれるように。
僕は崖の淵に立った。
ようやく好奇心に従って、素直に真下を覗き込むことができた。
「…………」
本当だ、とぼんやりと思う。何もない。
空しかない。
いつのまにか肺に溜め込んでいた息を、僕は静かに吐きだした。
やはり追いつけなかったのだ。あたりまえだ、光の隣をいつまでも走り続けられるはずがないだろう。もしかすると最初から、夢を見ていたのかもしれない。
僕はもう一度だけと手帳を開き、昨日、アリアが名前を書いてくれたページを探し当てた。早くも懐かしさに目元が緩む。アリアの言ったことは本当だった。Fの方程式の続きは、しっかりと彼女が継いでくれていた。惚れ惚れするような美しい理論だ。あの人の目は正しかった。僕よりも、レアのほうがよほど優れた慧眼をしている。
ぐっと親指に力を入れて、一連のページを破り取った。
アリアが何もないと評した空に向かって、思い切り、上体を振りかぶった。反動で肩が痛んだ。傷を負った足が痛んだ。眩しさのあまり目が痛んだ。
胸が。痛い。
それでも、ぼろきれのような体に残されていた力を、ありったけ込めて、僕は千切り取ったページを風に乗せる。
「――――」
軽やかに大地が僕を離れ、視界が青く反転していく。
あのとき、最後まで伝えられなかった言葉がやっと、明け方のやわらかな光に溶けて、消えていった。
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