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第13.5話 Dreamed a dream(5)

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前話 目次

 土足でもなんでも、踏みこんでおけばよかったと後悔した。
 物分かりよく空気を読んで、「今はそっとしておいたほうがいいだろう」なんて言い聞かせて、その実、自分がかける言葉を見つけられないだけだったのだと気づいても遅い。「責任を取れないから」だとか小さな体裁に気をとられているうちに、大切なものは取り返しがつかないほど離れていく。
 遠くから見守るふりをして、本当に守りたかったのは誰なのか。

 朝、南の樹洞に流れ着いたファシオは全身からひどい腐臭を放っていた。衣服はもとより皮膚まで破れ、獣の爪か、さもなければ“何か”の指ですがりつかれ、それを端から払いのけ続けた末にずる剥けてしまったかのような、生々しい蚯蚓腫れが無数に浮き出ていた。黒髪は得体の知れない黒さをいや増し、目だけが精妙な光を帯びていた。ぎこちなく笑んで人の輪に入り込もうとしている姿は、痛ましいを通り越して恐かった。
 黒かったのだ。
 見た目の問題じゃない。
 隣にいると、何か底知れない獣を相手にしているような緊張感に身がすくんだ。本来ならあまねく空に広がり、眠る人々の頭上に降りそそぐはずの夜気が、ファシオの顔面だけにまとわりついて目を、耳を、声を、根こそぎ抉り取って穴にしてしまったかのように暗さ。これまで俺が、短い人生の中で「逃げなければいけないもの」として忌避し続けてきた恐怖を全部凝縮して、人間の容(かたち)に封じ込めたかのようなおぞましさ。
 親友に対して、そんな風に思ってしまう自分が嫌だった。
 こんな無力感は初めてだった。
 だからパーニャばあちゃんが「泥だらけ!」と一蹴してくれなければ、いったいどうやって歩み寄ればいいのか、何をとっかかりにもう一度手を差し伸べればいいのか俺には見当もつかなかったのだ。
 だのに、そのばあちゃんが死んでしまった。

***

「……なあに、大丈夫ですよ」
 ファシオが風呂に入っている間だった。ばあちゃんはことこととシチュー鍋を火にかけながら、さらりと「殺人鬼のような様相でしたね」と言い捨ててから語り始めた。
 俺は横で塩の瓶を取りながら固まったものだ。
 ファシオの皮膚にこびりついていた黒い塊が、泥ではなく血だと気づいていたのかと。
 ばあちゃんはあっけらかんと微笑んだ。
「あれは、ぼっちゃんが自分で着た服ではないですからね。早く脱げばいいんです。一度すっぱだかになってみれば、また新しい服が着れるものですよ」
「……そういう、もんかな」
「そういうものです。ちゃんとね、収まるところに収まります。どんな時間も。思っているよりなんとでもなるんです、人生っていうのは。ただ、ほんのいっとき、それが見えなくなってしまうだけで」
「……ほんのいっとき」
「ほんのいっときです。胡椒とってください」
 上手い返事が思いつかなかった。ほんのいっとき。そのいっときすら与えられず、風のように死んでしまった人たちの思いはどこへ行くのだろう。レアの姉ちゃんや、ライラのように若くして死んだ誰かの願いは。
「あなたも同じですよ」
 胡椒の瓶を取り上げた手を止めた。つい凝視すると、ばあちゃんの口元にはうっすらと笑みが湛えられていた。
「……俺も?」
「ええ。人には分というものがあります。分とはすなわち役割です。一人一つ、必ず見つかるようにできている。これが不思議と、二つにはならないものでね。たくさんの才能を持っているように見える人も、一つだけ。なんにも持っていないような人も、一つだけ……」
 ばあちゃんは何かを思い出したように顔を上げた。眩しいものでも見たように目を細める。でもその先には壁と、ずらりと掛かった調理器具があるだけだった。俺が首を傾げていると、ばあちゃんはまたゆるりと視線を落とした。さっきよりも丁寧に、木べらで鍋をひと混ぜする。
「あるべきものを、あるべきもとへ」
「? なんすかそれ」
「昔、お仕えしていた旦那様の口癖です。今はもう死んでしまったけれど、もうね、耳にたこができるってくらい聞かされたから、覚えているの」
 ばあちゃんは一度火を弱め、小皿にシチューをよそって味見した。納得いかなかったのか、うぅんと首を捻ってから手元にあったハーブを一振りする。
「なにせ、それがお仕事だったのだし」
「仕事?」
「ええ、お仕事。私はね、ベルヌイで使用人をしていたのだけれど、どの旦那様や奥様と契約を結ぶときも、必ず書類にサインをさせられるのね。そこにはお給料とか、お仕事の時間だとか、雇用条件のいっさいが書かれているのだけど、最後には必ず遺産の整理という条項が含まれているの」
 二度目、火を弱めて味見をした。まだ何か足りないらしい。塩の瓶を催促されて、俺は無言で手渡した。
「私のお仕事は、雇主が生きているうちは自分も生きて、その人生を見届けて、身辺の整理をすること。お葬式の準備をして、たくさんの人を呼んで、親しかった人たちが涙と一緒に忘れた後も、一人で遺言状を読むこと。時には何年もかけてお部屋のお掃除をして、ぴかぴかになったら、故人の意図に沿って売却したり、壊してしまったりして。そうしてすっかり全部なくなってしまったら、次の旦那様を探したりしてね。でも旦那様は……ぼっちゃんのお父様は、まるでナゾナゾみたいに《一言だけ》遺していかれてねぇ。それがとてもではないけれど、整理できるような内容でもなくって」
「……どんな?」
「『あるべきものを、あるべきもとへ』。考えたわ。もう、頭から煙が出るんじゃないかってくらい。だってほら、私はただの使用人でしょう? お炊事とかお掃除とかはできても、……ねぇ。それに、そもそもの相続人が行方不明になってしまっていたものだし」
 ばあちゃんは口元に薄い微笑を湛えたまま、目を閉じて首を横に振った。
「何から手をつければいいのか分からなかった。だからまずは、ぼっちゃんが生きているって信じるところから始めたわ。色々な国を探した。短期間ではとても無理だと思ったから、何度も国籍を取り直してね。といっても、老人の足では二回が限界だったのだけれど」
 それとなく義足を見やる。下半身を失っては長旅は諦めざるをえなかったのだろう。ここが水の国だから、さしずめ隣の国――フラムスティード辺りで魚に喰われたとか。ありそうな話だ。
「このところ、目もあんまり見えなくって」
「――え」
「耳も遠くなって。うふふ、そんなものよ。だって私、おばあちゃんだもの。だからもう無理かしらって、ね。それだけ心残りだったのだけど。……でも」
 三度目。火を止めた。今度は味見もしていないのに、満足そうにシチューをよそる。俺に向かってまっすぐ差し出しながらにこりと微笑んだ。
「どうにかなったでしょう?」
 手渡された小皿に舌をつけて、ほうと嘆息した。旨い。
「その人が生きているうちに間に合わなかったとしても、その先の年寄りでもだめでもね。それでも、生前は顔も名前も知らなかった、もしかすると生まれてすらいなかった子どもが、思いも寄らないどこかで大人になって、風のように気負いなく掬い上げてくれたりする。そういう奇跡が、この世界には確かに存在する。いくつも。まるで星のようにね」
 ふいにばあちゃんは皺だらけの指で、ぐいと俺の頬を拭った。
「あるべきものは、あるべきもとへ収まるわ。あなたがそうしてくれたように。だから安心なさい。隠し続けている想いは、いつか必ず、報われるときがくるのよ」
 見透かしたような言葉に目を見開いた。喉の奥が引っかかったように上手く喋れなかった。突然の指摘に呆然とするしかない俺に、ばあちゃんは何も答えず、ただぱしぃと小気味良く手を打ち合わせた。
「さっ。そろそろ、ぼっちゃんを呼びに行きましょうか――」
 けれどそのときにはもう、ファシオは書き置きを残していなくなっていたのだった。

***

 家は立ち入り禁止の柵で囲われていた。踏み荒らされた庭を見た時点で中も酷いだろうと覚悟はした。けれど玄関を潜り抜けた時点で、むしろそういう分かりやすい痕跡は、まだしも耐えられるのだと知った。
 自慢の台所はぶちまけられた小麦粉と、月明かりのせいで黒く見える“何か”が爆発したような模様を綾なしていた。あまりにも様変わりしすぎたせいで、ばあちゃん趣味変わったか、新しいカーテンちょっと派手じゃねえかと呟きそうになった。そういう自分の間抜けを、恥じ入る余裕もなかった。
 いちばん堪えるのは、目に見えるところじゃないのだ。
 この寒々しい空気。息を吸うだけで、尖った粒子が喉を刺してくるような沈黙。無音。それでいて、生きているおまえはお呼びじゃない、場違いだ、今さら何をしにきたのかと場が総じて責め立てているような叫喚。この寡黙な叫びの中に身を投じることを後悔と呼ぶのなら、ファシオが歩いてきた道のりには、どんな名前を付ければよかったのだろう。
 暗がりに歩みを進めていくと、体がずぶずぶと見えない水底に沈んでいくような錯覚に囚われた。その錯覚から、重たい足を何度となく引き抜きながら。
 ……こんなことを。
 繰り返してきたのだとすれば。
「……7人って……」
 やっと。
 本当にやっと、身に染みた。
 帰ってくるはずがない。
 たった一歩、足を踏み入れただけで寒さに溺れそうになるこの闇を。どうやって跳ね除けられるというのか。5人も「見殺しにした」と思い込んでいるファシオが。
「……もう、無理だ。ライラ……」
 身を切るような虚空を、自分の声だけが情けなく震わせた。
 気づけば床に四肢をついていた。ばあちゃんのお気に入りの絨毯が、こびりついた黒で乾涸びていた。棘のようになった毛足がちくちくと手のひらを刺してくる。こうなってしまってはもう、誰を柔らかく受け止めることもできやしない。こんな姿になってしまっては。こんな姿になってしまうところまで、俺は何をしていたのだろう。すでにばあちゃんは片足を失くしていたし、何より、ばあちゃんだったのに。老いていたのに。そのことを、この目で見て耳で聞いていたはずなのに。自分ひとり支えることにも苦労する折れそうな身体だと、俺はもう十分に知っていたはずなのに、期待を寄せたんだ。
 ばあちゃんなら、ファシオを止められるんじゃないのかと。
 暗闇のどこかから、あの穏やかな声が聞こえた。
 ――その人が生きているうちに間に合わなかったとしても、その先の年寄りでもだめでもね。それでも、生前は顔も名前も知らなかった、もしかすると生まれてすらいなかった子どもが、思いも寄らないどこかで大人になって――
 大人になって、そのざまがこれか。
 ――隠し続けている想いは、いつか必ず、報われるときがくる――
 こない。
 死んでしまったらどうにもならない。
 この臭い。
 この、忘れようもない喪失の臭い。
 涙を拭うたび、指先から鼻腔に忍び込んできた絶望の臭い。もう何度も上書きして克服したと思ったのに、払いのけても払いのけても、自分の体の底から立ち昇ってくる濃い腐臭。
「……くっそ……」
 呟いたときだった。
 一階からか細く、糸を紡ぐような声が聞こえた。
 最初は空耳か、さもなければ自分がすすり泣いているのかと暗澹たる気持ちになった。俺は救いようのない大ばか者だ。声は次第に大きくなり、続いてカリカリと壁を引っ掻くような音がし始め、やっと涙で腑抜けていた頭に雷を落とされたように思い出した。
「……ゴットフリート!」
 血まみれの絨毯から顔を上げた。壁に駆け寄りもつれこむように二回ノックした。床が割れ、現れた弦の階段にざあっと水が流れていく。その水が濃い褐色をしていてぞっとした。気力を奮い、後は駆け下りるのももどかしく飛び降りた。派手な着地音が響き、そのせいで警戒したのか束の間鳴き声がやんだ。でもすぐにまた弱々しい呼び声が再開した。カリカリと扉を引っ掻く音が激しくなる。
 物置の中だ。
 ひったくるように扉のノブに手をかけると、かすかに開いた隙間から、サッと影のように素早くゴットフリートが飛び出してきた。よほど興奮していたのか瞳孔が開ききっている。俺の足下をうろうろ、うろろと忙しなく往復してから、勢いよく思い出したように顔を上げた。にゃあ、と抗議するように一声鳴くなりゴム毬のように飛び上がってきた。「ぐっ、」俺は顎に頭突きをくらうような形で腕の中になんとか受け止めた。その感触で、おやと思った。
 暗がりのせいでよく分からなかったが、ゴットフリートは何か、あたたかな毛糸のようなものにくるまれている。
 下ろして確認しようかとも思ったが、ごろごろ、ごろごろとしきりに喉を鳴らし震えていたので、しばらくはそのままでいた。
「……ごめんな。寂しかったな。もう大丈――」
 大丈夫、と続けるつもりだった言葉は、しかし宙に霧散した。
 少しでも安心させてやろうと掻いた首筋から、ごそりと毛が抜け落ちたのだ。指先がふぁさりとつかんだ毛束の意味が分からず、しばし慄然とした。
 ……なんだよこれ。まさかゴットフリートまで殺人鬼に何かされたのか。
 嫌がるゴットフリートを片腕に移し、物置に入ってカンテラの灯りをつけて、そしてこの数時間に何が起きたのかを、――やっと知った。
 ジャガイモを積み上げた木箱の隙間に、ばあちゃんの毛布が運び込まれていた。
 窮屈に敷き詰められているおかげで、風が入らず暖が逃げないようになっていた。今の今までゴットフリートが寝ていたのか、毛布にはもさりと毛が積もっている。俺はそっとゴットフリートを下ろし、改めてその姿を見た。
 ……誰かが、服を着せてやっていた。
 服といってもちゃんとしたものではない。元は赤い毛糸の帽子だったのだろう。ためらいなく鋏を入れた跡がある。脱がせてみると、あんなにふさふさだった毛が恐怖のためかほとんど抜け落ちてしまっていた。裸鼠のように変わりはてた姿に、たまらず口元を覆った。ゴットフリートは布団に下ろされると、しばらくおろおろしてから思い出したように布団に鼻先をうずめ、しきりに前足でこねるような仕草をした。それでようやく落ちついたのかその場に丸くなった。
 この寒々しい姿で夜を耐え忍ぶことができていたのは、誰かが用意したこの寝床と、無理にでも着せてやった服のおかげだ。
 毛布の周りには、他にもばあちゃんが好んで着ていたカーディガンや、エプロンや、とにかく飼い主の残り香のついたものと、それから少し離れたところになみなみと水の入ったボールが置かれていた。飯は、……飯の心配がいらないから物置なのだろう。収穫したジャガイモや干し肉があると説明したのは俺だ。
 俺は布団にしゃがみ込み、毛を失ったせいで一回り小さくなってしまったゴットフリートの額をこわごわと撫でた。ゴットフリートはぴくりと髭をふるわせただけで、じっと動かずにいた。揺らめくカンテラの灯りを映した金色の瞳が、まるで泣いているようにさざめいた。
「……来たんだな?」
 猫が応えるはずもない。所詮は物言わぬ獣だ。
 だからこそ飼い主が死んでしまえば、この小さな命が真っ先に路頭に迷う。
「……ファシオが、ここに?」
 ゴットフリートは、安心したように瞼を閉じた。
 代わりに俺は視線を上げた。明々と灯るカンテラの火の向かいで、より一層濃密に落ちた部屋の影を見た。
 背中を押すように声が聞こえた。
 ――人には分というものがあります。分とはすなわち役割です。一人一つ、必ず見つかるようにできている。これが不思議と二つにはならないものでね。たくさんの才能を持っているように見える人も、一つだけ。なんにも持っていないような人も、一つだけ――
 冷えた空気を吸い上げた。
 ここが、正念場だ。
 ずっと解らなかった。ライラが死んで燻製小屋でヒィロを捌いていたとき。俺の荷物を盗んで血の匂いをさまよわせて狼の谷へ逃げたとき。ベルヌイの地下書庫で冷気の吹き込む扉の向こうへ靴底を下ろしたとき。フラムスティードの酒場で一度も俺を振り返らずに、青白い海へ去っていったとき。
 どうしていつも、身の凍えるような暗闇ばかりを選び取って進むのかと。
 これから先どんな風に生きていけば、親友の見ている景色を理解できるようになるのかと。何度となく途方に暮れた。
 ――ここだ。
 ――ファシオが見ていたのは、この闇だ。
 大きく、息を吐き出した。
 考えろ。
 俺は今までずっと、ファシオはただ自罰的に破滅の道を選んで進んでいるのだと思っていた。殻に閉じこもってしまいさえすれば、明ける空に怯える必要もなく、眩しさに瞼を焼かれることもなく、あるいはそこは他のどこよりも安寧な世界ではないのかと。黒髪のファシオは人間に愛想を尽かし尽かされ、自ら好んで、生あたたかい闇の淵に腰掛けているのではないかと、俺は。
「……見下してたのかもな」
 呟かれたのは耳障りなだみ声だった。なるほどこんな曇った心では、見定められたはずもない。ファシオが身を裂かれて踏み分けていったのは薄闇ではない。そんな生半な暗さではない。
「……そうだな、ライラ……?」
 死者は応えない。
 闇というのは、光を届けなければならない場所なのだ。
 この手に触れる資格があるのだろうかと後ろめたさに苛まれながら、それでもゴットフリートの背中を撫でた。つい今しがたまで、これっぽっちもこの温もりを思い出さなかった薄情な手だが、だからといって躊躇していたら今、懸命に燃え立とうとしている小さな心臓までをも凍えさせてしまう。
 罪悪感なんてクソの役にも立ちはしない。葛藤し、立ち止まっている限り、猫一匹あたためてやることもできはしないのだ。
 息を吐いて、吐ききって、吸う。繰り返す。俺にできることなんて、最初からそれくらいだったんだから。
 考えろ。きっとファシオは、ただの一度も自分自身を悲しんだことはない。不幸の塊みたいなやつだと思い込んでいたけれど、それこそが間違いだったのではないか。むしろあいつがいちばん、悲しみとは寄る辺ないものだと割り切り前を向いてきたのではないのか。例えば自分よりも、たった一匹の猫のために馳せることを選んだように。
 けれどそう思い至ればこそ、《神》の言葉が理解できずに呻いた。
 ――ライラさんを助けたければ、誰でもいいので7人見殺しに――
 目を閉じた。
 何が、あったのだろう。
 何を、目的として、今尚ファシオは動いているのだろう。
 一度は会いに戻ったゴットフリートを置き去りにしてまで、《次》に、何を見据えているのだろう。オポおじさんが死んで、エルシャさんおばさんが致命傷を負って、逃げ出した先でロウが死んで、レアの姉ちゃんともども一国が死んで。――ばあちゃんも。これがあの悲劇の続きかもしれないということくらい、俺だって想像がつく。でもなんで。
 なんでまだ、続きがあるって確信した。
 それでなくたってふつう、立ち止まるものだろう。もう無理だって叫ぶだろう。気が狂いもするだろう。誰かに泣きつくのが正常じゃないのか。なんで。
 どこへ向かおうとしているのか。
「……っ、くそ」
 土台俺の想像力じゃこれが限界なのか。苛立ち紛れに頭を掻き毟ると、ゴットフリートがびくりと耳を震わせた。しまった、やっと寝付こうとしていたのにまた怯えさせてしまったか。悪かったと手を伸ばしかけ、けれどそこへぐらりと黒い影がかかり、ひゅっと息を吸い込んだ。
「気は済んだ?」
 背後から声をかけられた。
 振り返ると、いつのまにか廊下の闇を背負ってアザカが立っていた。歳に似つかわしくない冷めた表情を、カンテラの灯りがゆらゆらと浮かび上がらせている。そうかと思えば、茶化すように肩をすくめて見せた。
「お届けものだよー」
「……は?」
「パーニャ・プロッフィさんからの遺言状。アザカが、っていうか師匠が預かってたんだけど、」
「――――」
 アザカはつかつかと物置に踏み入ってきた。
 それで我に返った。いけない、こんな状態で慣れない人間が近寄ったらゴットフリートが毛を逆立て飛びかかりかねない。しかし不思議なことに、愛すべき猫は軽く片耳を上げただけで起き上がろうともしなかった。まるでわざわざ確認するまでもなく、足音で誰が来たか分かったかのように。すっかり警戒心を解いて、ぬくぬくととぼけた顔でくつろいでいる。意味が分からず狼狽している俺の前で、アザカは飄々と袂から一通の封書を取り出した。
「フラムスティード暦二○○一年、第十三の月、三日。じゃ、開封するね」
 儀礼的に前置きひと綴りの便箋を取り出した。宛名に目を走らせたところで、「あ」と眉を曇らせる。
「あんた、エトリ語、読めたっけ?」
「いや……」
「そっか。アザカが読んじゃってもへいき?」
 頷いた。ばあちゃんとアザカがどういう知り合いなのか全く見えてこずためらったが、遺言状を託したくらいだから信頼していたのだろう。アザカはうんうんと二度ほど首を縦に振ると、はぁっと大きく息を吐いてから、読み上げた。

 ヴォルテール・ザイル様

 あなたのことだからきっと何かと思いつめているでしょうけれど、死んでしまった人の心なんてね、安らかなものよ。年寄りが言うんだから間違いないの。
 だからまずは安心なさい。
 ちょっと、わくわくするものなのね。自分の遺言状を書くのって初めてよ。初めての相手はぼっちゃんになると思っていたのだけど、あなたが来たからやめにするわ。
 ぼっちゃんには、あなたから、あなたの口で伝えてちょうだい。
 さて最初に、隣にいるアザカちゃんについて話さないとね。きっとびっくりしているでしょうから。アザカちゃんはね、私のおともだち……と思っているのだけれど、それではきっとあなたは納得しないわよねぇ。出会ったきっかけというか、書類上の関係としては私が雇っている……ということになるのかしら。そのへん実は私もぴんと来ていないのだけど、ガサイさんという方がね、私のことをいたく気に入ってくださって。火の国の人って、これと決めた相手に生涯遣えて護衛のようなお仕事をして食べていくのですってね。そんなの私は全然、知らなかったのだけど。ただ、黒髪の人たちが集まっている地区があるって聞いたから、お夕飯のお買物ついでに立ち寄ったときがあってね。もしかしたらぼっちゃんに会えるかもしれないし、だめもとで。それはやっぱり、だめだったのだけど。でもその土地で見かけた榊の郷土料理に、がぜん興味が湧いてしまってねぇ。ブロンドの人間が、そんな理由で黒髪の地区に入り浸ることなんてめったにない珍しい出来事だったらしくって。ちょっとした騒ぎになったのよ。ふふ、詳しいことは恥ずかしいから省くわね。とにかく、私たちは仲良しになったのよ。
 それである日、ガサイさんから申し出てくれたの。自分はこれこれこういう一族のもので、差し支えなければあなたにお仕えしたい、なんてね。いやね、もう思い出して書いてる私のほうが、しゃちほこばっちゃうわ。使用人として生きてきた私が傍仕えを置くなんて考えたこともなかったし、何より、いいお友達を顎で使うなんてまっぴら! と断ったのだけど、あのひと、しつこくってねぇ。
 結局、なし崩しに人探しを手伝ってもらうことになったの。
 誰を、は言うまでもないと思うけれど。ぼっちゃんね。
 最初は正直ぜんぜん期待していなかったのだけど、火の国の人の諜報力ってすごいのね。お隣のフラムスティード王家の事情とかまで聞こえてきてしまって。これが若い頃だったら、きっと真っ青になって衛士の詰め所にでも相談に駆け込んだのでしょうけれど、歳をとるとね、不思議とこわいものがなくなっていくのよね。強張っていく体とは反対に、気持ちはゆるむというのかしら。ここまで一人で探してもなんの手がかりもつかめなかったのだし、もう頼れるものには頼ってしまいましょうってね。ふふ、単にあつかましくなっただけね。
 だから、とても穏やかな気持ちで待っていたのよ。
 あなたが来てくれることを知って。
 ごめんなさいね、そういう事情だから最初から分かっていたの。あなたがいったいどういう旅をしてきて、どういう目的で私に近づいたのか。でも誤解しないでちょうだい、ぼっちゃんのために一生懸命になってくれているって聞いたとき、嬉しかったのよ。それはもうまじりけなく、とびっきりに。
 だって、あのぼっちゃんにお友達なんて、ねぇ。
 あらやだ、すっかり前置きが長くなってしまったわ。遺言状なんて仰々しいものを受け取って、いったい何を押しつけられるのかと冷や冷やしているかもしれないわよね。そう堅くならないでちょうだい。私があなたに言いたかったことは一つだけなのよ。それをね、どうしてもちゃんと、確かに、あなたに伝えたくってね。ほら、衛士の検閲が入ったりしても粋じゃないでしょう? だから遺言というよりも、郵便事情を配慮したらこういう形をとらざるをえなかった、ただの伝言、くらいに思ってちょうだい。
 それじゃあ、年寄りのとっておきを伝えるわね。
 元気だしなさい。明日はいい日よ。
 これだけ。でもね、たったこれだけのことを、あなたに伝えたことには理由があるのよ。例えばこれをぼっちゃんに伝えてもねぇ、あの子は世の中の隙間を見ているような子だから、きっと信じないでしょう。物事を信じるのには、ちょっとしたこつというか才能があって、あの子にはそれが欠けている。ううん、昔は持っていたのだけど、失くしてしまったのでしょうね。何かの願いと引き換えに。
 でもね、あなたは違う。
 あなたはね、自分では気づいていないようだけれど、理由のない尊さを信じていける天性の強さのようなものを持っている。
 生きているものは、ただ生きているだけで素晴らしい。そういう簡単なことを、けれどずっと信じ続けていくというのはね、難しく悲壮で、ともすれば絶望的なこと。なぜって、ほとんどの人は大人になる過程で気づいてしまうから。
 明日が明るいなんて嘘だって。
 明日は雨かもしれないし、雪かもしれない。嵐かもしれない。それどころか、死んでしまったら明日なんて来ない。そういうあやふやで目に見えないものを、信じるっていうのは愚か者のすることだと言い始めるのね。確かにそうだわね。とても怖いことだもの、裏切られるかもしれないものを、根拠もなく信じるなんて。実際にそういう無鉄砲な人が隣にいたら、近寄りたくないとすら思うかもしれないわよね。とばっちりを受けたら嫌でしょうし、明日を信じられない、信じようとしない自分が卑屈で、惨めで、小さくも思えてくるでしょうからね。それはそれで、きっと大変な苦悩なのでしょう。どこへも歩きだせない自分に焦ったり、そのせいで人を妬んだり、憎んでしまったり。
 でもね、あなたは、そんな臆病な人たちに遠慮するのはおよしなさい。
 あなたは、気にせず明日を信じなさい。
 あなたは、理想を持ち続けなさい。
 あなたは、人に希望を押しつけなさい。そのせいで人を傷つけるとしても。ずっと暗闇にいた誰かは、光の中へ連れ出されたら眩しさのあまり失明してしまうかもしれないけれど。それでも、あなたは人を光の下に連れて行きなさい。
 その人に、どうしても見せたい景色があるのなら。
 いいですか。人には分というものがあります。分とはすなわち役割です。
 人と同じ景色なんて、見ようとするのはやめなさい。あなたは、あなたにだけ見えている世界を進みなさい。あなたにしか見えない世界を見つけなさい。
 そうすれば不思議と、他の人が見ている風景も見えてくるようになるものだから。それを人は理解と呼ぶの。春の日に雪がとけるように、ふっと、隣にいる誰かの祈りがひも解けて見えるときがおとずれる。必ず。
 奇跡のように喜ばしいことよ。
 その日を楽しみにね。
                             愛を込めて。
                         パーニャ・プロッフィ

「――追伸。イサーク・フィヌムから預かった全ての遺産は、ファシオ・フィヌムに。この家と愛すべき一匹の猫も。あなたは後見人として、週に一度この家に遊びにくること。よかったらアザカちゃんとレアちゃんも一緒にね。年寄りのお願いは聞くものよ。約束よ」
 そこまで一息に、アザカはなんの情感も交えずに滔々と読み上げた。
 そして代役を果たしたとたん、むすっと唇を尖らせ、ぱたぱたっと手際よく手紙を折りたたみ、角が潰れないよう丁寧に元の封筒にしまいこんだ。
「……アザカの手紙より長かった」
 最後はぶっきらぼうに、俺の肩口につきつけた。
 俺はぎこちなく手紙を受け取った。せっかくアザカがきれいにしてくれた封筒が、もたついた手の中でくしゃりと皺をつくった。思ったよりも厚みがある。でも軽い。紙だから当然なんだが、ほんの少し手先が震えたらそれだけで破けてしまいそうなほどに。
 俺はもう一度おそるおそる中から便箋を取り出し、自分の手のひらに開き直した。ばあちゃんらしい、あったかい字で、だけど厳格に、ずらりと知らない言葉が並べられていた。一字一句、何かを伝えるためにぴっちりと身を寄せ合っていた。その中に、せめて一つでもいいから知っている単語が、文字がないかと人さし指で綴りを追ったけれど、どんなに探しても見つけられなかった。あきらめられずに何度も、何度も便箋を繰ったけれど、そんなことをしているうちに紙の輪郭すらぼやけて見えなくなってしまった。
「……俺、なんで字が読めないんだろう」
「はぁ? 知らないよそんなの。勉強してないからでしょ」
「ファシオなら読めんのかなぁ」
「……知らないよ」
「悪い。もう一回読んでくれないか」
「やだよ」
 アザカは唇をへの字にし、もうこりごりだと言わんばかりにぱっと両手を後ろに隠した。けれど、それだけではさすがに悪いとでも思ったのだろうか。目を逸らし、小声で付け足した。
「……殿下に辞書でも借りてくれば」
 良かれと提案してくれたのだろう。しかしこれには自嘲するしかなかった。
「ばあちゃん、レアのことも知ってたんだな。レアちゃん、って」
「う。……まあ、うん」
「そんなら、一回くらい連れてくればよかったかもな」
 いつのまにか寝息を立てていたゴットフリートの顎を指でくすぐった。ゴットフリートは気持ち良さそうに喉を鳴らす。その間アザカは何も言わず、気まずそうに横に立っていた。手紙を読み終えたならもう用事は済んだはずだが、いつまでも猫の前にしゃがみ込んで動こうとしない俺を、複雑な表情で見下ろしていた。
 小さなアザカに見下ろされるのは初めてだった。
「それで、あんたはどうするの」
「……どうって?」
「アザカは、あの黒髪が今どこにいるか知ってるよ」
 俺は顔を上げた。中途半端に毛並みを梳く手を止められて、ゴットフリートが不満げな声を漏らした。
「……なんだって?」
「言ったとおり。アザカは、……っていうか師匠がだけど、おばあちゃんと約束してたから。あの黒髪を守るようにって。ずっと監視してたから」
「どこにいるんだ」
 尋ねると、しかしアザカは困ったように目を泳がせ、歯切れ悪く忠言した。
「……あのさ、聞く前に一応、考えてね。ほんとにいいの?」
「なにが」
「追いかけたら、あんたも無事じゃ済まないかもしれないよ」
 思いもしなかった言葉に、呆気に取られて口を開けた。その反応にアザカのほうが先に、もどかしそうに言い募った。
「わかってるよね? なんだって、おばあちゃんがこの時期に遺言状なんて書いたのか。知ってたからだよ。あんたたちが何をして、ううん何一つできなくてここまで来たか。あの黒髪の周りでばたばた人が死ぬっていうなら、そこに自分があてはまらない可能性はどこにもないから。念のため、“準備”してたんだよ。そこまで分かってて、それでもあんたたちを家に迎え入れることを選んだってことだよ。……ううん違うな。おばあちゃんに限っては、選ぶ、なんて大仰な気負いもなかったろうけど。きっと大変な目にあって疲れたあんたたちに、あったかいベッド用意して、美味しいもの食べさせてあげたかっただけだけど。その代わりに、自分は死ぬかもしれないけど。そんなの、おばあちゃんにしてみれば、べつにどってことなかったのかもしれないけど、でも……」
 言葉数が多くなるにつれ、要領を得ず、らしくもなく、どんどん俯き気味になっていったアザカがしかし急にきっぱりと顔を上げた。これだけはどうしても伝えておかなければならないと、アザカのほうこそ決然と自分を突き動かしたように見えた。
「死んじゃったら、もう会えないんだよ?」
 いよいよ俺は当惑した。呆けて開けっ放しだった口から、気の利いた言葉の一つでも搾り出すべきだったのだろうが、どう声をかければいいのか皆目見当もつかなかった。ばあちゃんの厚意に関してはアザカの想像に疑う余地はなく、だからこそ胸が痛みもした。だけど、そこからさらに俺に結びつけて、まさかアザカがこんな泣きそうな顔をするとは思わなかったのだ。そのせいで、しどろもどろに確認してしまった。
「……あ、と。つまり……
 おまえは、俺が死ぬと思ってるのか?」
 今度はアザカが呆れ果てたように大きく口を開けた。かと思えば真一文字に歯を食い縛り、急に尻に火がついた猿かと思うような異常な飛び上がり方をした。突然の奇行を俺はなす術もなく見守った。アザカは榊でも屈指であろう脚力を駆使し、狭い食料庫の天井すれすれまで飛び上がり、何をするつもりかと恐れをなせば何もせず、ただ小さな体にめいっぱい勢いと加重をつけてどしんと降りてきた。やかましい着地音に、ゴットフリートがにゃーと抗議の声をあげた。
「そうなったら困るって言ってるんだよ!」
「……まさか今のは地団太か?」
「もういいよっ。死ぬなら勝手に死ねばいいじゃんっ」
「ええっ、ひでえな。なんだよ、心配してくれたんじゃないのか」
 ぎろり、と音がしそうなほど冷然と凄まれた。
「ばか、鈍感、無神経。誰があんたの心配なんかするもんか」
「図星かよ」
「死ねっ」
 アザカには申し訳ないが、このときは声を立てて笑ってしまった。アザカはますます不本意そうに、顔を真っ赤に膨らませじたばたと両手足を忙しなく振り回した。これじゃ完全に悪循環だ。見れば見るほどおかしくて、やめなければと思うのについ頬が上がってしまう。
「おまえも、可愛いところあんのなぁ」
「ころす」
「悪かった、悪かったからそれは勘弁してくれ。なに心配すんなって。ちゃんと帰ってくる。それと余計な世話かもしんねえけど、売り言葉に『死ね』とか返す癖は直しとけよ。ほんとに死んだら、それこそ死ぬほど後悔すっから」
「……あんたが死ななきゃいいんだよ」
「まあ、それもそうか」
 眉尻が下がった。すっかり緩みきった口元を引き締めて首を鳴らした。
「おまえが来てくれて助かったわ。すっきりしたよ。もしかしたら、こうなること見越しておまえを寄越したのかもなぁ。ばあちゃん」
「なにそれ、アザカがばかみたいじゃん」
 どうしてこう素直じゃないかな。苦笑しつつ、膝を叩いて立ち上がった。
「一個、頼みがあるんだけどいいか?」
「……遺言以外ならなんでも」
「違うって。留守の間、ゴットフリートの面倒見といてくれないか」
 言うと、アザカは小さな胸のどこにそんなに肺活量をしまっていたのかと思うような、深く長いため息をついた。
「やっぱり行くわけね」
 ばあちゃんの手紙を小さくたたみ、胸ポケットの奥底にねじ込みながら頷いた。しばらくは、ここで見守っていてくれな。帰ってきたら自分で読めるようになるから。働いて自分の辞書も買うから。それまでは、ここにいてくれな。
 アザカは処置なしという風にため息をついた。
「ゴットフリートは榊の下の子たちに頼んでおくよ。ついでに掃除も。毎日交替で来てもらうか、なんなら誰か住まわせとくこともできるし。榊なら――」
 軽快に喋っていたのに急に口ごもった。表情から何を言おうとしたか察しがついてしまった。榊の者なら、いかに子どもといえど厳しい武術訓練を受けているから、たとえ不意の来客があったとしても今回のような最悪の事態にはならないのだろう。
 だからこそ、自分がその場に居合わせなかったことが悔やまれるのだ。
「……次は、あんたかもしれないから」
「ん? 俺がなんだって?」
「なんでもないよ! アザカが駅まで案内する」
「おおう? いや、道さえ教えてくれたら俺一人でも――」
「うるさい早く仕度しろ。今夜を逃したら次は一ヶ月先まで汽車がないから」
「なに。そうなのか」
「うん、まあ……」
 汚れてもいない膝をぱたぱたとはたきながら、アザカはなぜか目を合わせようとしなかった。
「……行くのもだけど、帰るのもちょっと面倒な国なんだよね」
 すんなり帰れるといいけど、と。
 まるで、終わりを予見するかのように呟いた。

第14話 風の国へ続く

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