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第13話 5人目

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前話 目次

 ヴォルトとまずは再会を喜び、その後すぐにスフィリア陛下の伝言について話した。
 ――水の国エトリの森林管理官に、第二水門を下ろすように伝えなさい――
 ヴォルトは真っ先に目を見開いて言ったものだ。「レアの姉ちゃんも無事なのか」と。
 何を言っているのだろうと、僕は目をしばたたいた。
 あんな狂った海に、骨一片でも残ると思ったのだろうか。

 エトリはその《巨木》ゆえに、東西南北の《枝》で自治区が分かれていた。
 それぞれの《枝》には名前がつけられており、ヴォルトの家は、《東の鉤型の枝(リッケルト)》と呼ばれる折れ曲がった枝の先端にあった。
 見知らぬ国に一ヵ月足らずで生活拠点を築いているたくましさは、いかにもヴォルトだった。
 まだ午後に差し掛かったばかりだというのに、《東の鉤型の枝(リッケルト)》においては日照が限られ、ひんやりと空気が湿っていた。標高のせいか肌寒いくらいだ。案内された先の庭では、ハーブや野菜らしい植物が身を寄せ合うようにひっそりと自生していた。下で毒性植物にさんざん苦しめられてきたから、「穫って食っていいぞ」と言われた日には耳を疑った。
 家は、その小さな菜園の向こうに建っていた。童話に出てくる妖精の家のような、全体的にずんぐりとした、木の実のようなシルエットだ。壁の色はオレンジで、木製の丸扉がはめ込まれている。屋根の上に一枚、大樹の《落ち葉》が帽子のようにエレガントに被さっていた。さらに上には生きた《葉》がわさわさと茂っていて、その気になれば隣の地区、つまり上の《枝》まで登っていけそうだった。

「虫こぶって知ってるか?」

 それまで、なんとなくずっと無言だったヴォルトが扉に鍵を差し込みながら、不意に言った。

「虫が、葉の中に卵を産むことがあるだろう。そこで孵化して、幼虫になって蛹になって……そうすると葉の表面も、虫の成長に伴って膨らんでいくんだよな。ちょっとずつ。で、最後は大きなこぶになるわけだ」
 僕は後ろで首を傾げた。
「……それが?」
「この家は虫こぶだ。森林管理官が製造した《種》を撒くと、三日後には家が膨らんでくるんだぜ。手品みたいだよな」
 ああ、と目を伏せた。その森林管理官が5人目かもしれない。
「……ファシオ?」
「ん。ああ、ごめん」

 靴底に付着した泥と血をこそぎ落として、中に入った。
 とたん、足の裏が、何か水の入った袋の上を歩いているような弾力に押し返された。虫こぶ……ということは、家自体が《樹》の延長ということだから、床をナイフで切れば導管でも露出するのだろうか。
 そんなことを考えていた矢先、予期せぬ珍客に意表を衝かれた。
 玄関にまるまると太った猫が寝そべっていた。
 面白い夢でも見ているのか、たいそう立派なヒゲがぴくぴくと動いている。猫の向こうには廊下が続いている。仕方なく跨ごうとすると、うにゃん、と幸せそうに寝返りを打たれ、ついでに軸足のくるぶしをざらりと舐められ鳥肌が立った。
 それ以外は、一見すると普通の家だった。
 強いて違和感を挙げるとすれば、ヴォルトはこんなにきれい好きだったろうか。廊下はぴかぴかに磨き上げられ、しかも風景画が掛かっている。収穫期の農夫を描いたものだ。また、扉がいちいち小さかった。腰を屈めて通らないと僕ですら頭をぶつけそうだけれど、ヴォルトの上背で不便はないのだろうか。それともエトリ人が、平均的に背が低いのか。扉にはめいめい木彫りのプレートが掛けられていたけれど、読めなかった。エトリ語だろう。
 見入っていると、ああ、とヴォルトが頷いた。

「そっちは裏庭への出口で、そっちは物置きな。物置は農具の他に、収穫したジャガイモとか燻製した肉を干すことなんかもあるから、開けるときは気をつけてくれ。ゴットフリートが入るとしっちゃかめっちゃかになる」
「ゴットフリート?」
「デブ猫」

 思わず立ち止まった。

 名前を……?
 ヴォルトがつけたのか?
 山では鼠よけの家畜でしかない獣に?

「こっちがトイレで、こっちが風呂。風呂はすぐ沸かすから待っててくれ。で、ここが」
 僕の当惑をよそに、ヴォルトはてきぱきと指差しながら廊下をまっすぐに進んでいく。突き当たりで立ち止まり、何もない壁の右側を手の甲で二回ノックした。するとめりめりと天井が裂けた。弦状の植物が音もなく床まで滑り降りてくる。うねうねと波打って、階段を形作った。
「ここから二階な」
 言われるまま階段の上を見やった。二階はそれなりに日当たりがいいのか、裂けた天井から光が漏れ伝っている。空中の塵がゆったりと舞っていた。
 ヴォルトが先に階段を上がり、その光の中から手招きした。
 後ろでのそりと物音がした。ゴットフリートが無言で起き上がり、とっとっ、と意外にも軽快な足取りで、大きな胴体を運んでくるところだった。涼しい顔で僕を横切り、悠然と陽だまりの中へ駆け上がっていく。よほど懐いているのか、垂れた腹からは想像もつかないほど軽々と、ヴォルトの腰そして肩へと二段跳びした。
 ヴォルトがくすぐったそうに笑う。よしよし、と猫の頭を拳でぐりぐりとかき回したあと、思い出したように僕にも手を差し伸べた。
 階上からそよぐ風に金髪が揺れている。
 ヴォルトには光がよく似合う。
 毛羽立った心を撫で付けるような、穏やかな声音で言った。

「早く来いよ」

 ぼんやりと、僕はヴォルトを見返した。
 こんな顔をしていたっけ。
 こんな、深みのある表情をする奴だったっけ。ヴォルトはもっと、泣きたいときは人目を憚らず咽び、怒りたいときは髪を逆立てて声を荒げる、直情的な人間だと思っていたのだけど。いつのまにこんな、洗練された配慮を覗かせるようになったのだろう。

 再会してから、ヴォルトはただの一度も僕に「よかった」と言っていない。

 奇妙な家のせいでいつもと違って見えるだけなのか。それとも少し髪が伸びたのか。考えていると、ふと、右の耳朶にきらりと光るものが見えた。
 ……ああ、そうか。
 気づいてしまえば簡単なことだった。
 ヴォルトは垢抜けたのだ。
 僕の知らない間に、他人との距離の取り方を覚えたのだろう。暑苦しさが鳴りを潜め、代わりに涼しげに青い宝石の耳飾りが輝いている。
 僕が死体にまみれている間に、ヴォルトは大人になっていた。

「……ファシオ?」

 階段にかけた足を、どうやって押し上げればいいのか分からない。
 呆然と立ち尽くしていると、背後でまた物音がした。
 もう一匹猫でもいたのかと、奇妙な苛立ちを覚えながら振り返ったところで硬直した。
 入口に、見覚えのある老婆が立っていた。

「……ぼっちゃん?」

 そんな呼び方で、自分に声をかける人間は一人しかいない。

「あら、あらあら、まあ! ファシオぼっちゃん!」

 自分の名前がやさしく呼ばれ、歓喜を持って迎え入れられることにこれほどまでの魔力が宿ることを初めて知った。
 老婆は手に抱えていた買物袋を床に置くと、ぱたぱたと駆け寄ってきた。しわくちゃの手が、すっと目の脇を通りすぎた。きっと長年の家事で締まったのだろう指の骨が、ぐにと僕の頬を抉ってくる。駆け寄ってきた足取りは健脚そうだったけれど、足音がおかしい。何かぎりぎりと弓を絞るような異音がして、視線を落とすと左足しか靴を履いていなかった。どこかに落としたのかと探し、息をとめた。剥き出しの右足首は、肌色をしていなかった。皮膚は木目調、脛は角材、靭帯は樹脂のように見える。不躾なのを承知で、膝、大腿部と順繰りに凝視した。
 義足だ。付け根まで全部。僕の知らない空白の時間に、身体の四分の一を失ったらしい。それでも家事には差し支えないのか、腰にエプロンを巻いている。エプロンは昔と同じもので、少し黄ばみがかり、ところどころにアップリケが足されている。少し背筋が曲がったように思う。髪は昔から白かった。
 その意味も知らず、昔はただきれいで羨ましいと思っていた。

「なんだ、知り合いか?」

 ヴォルトがゴットフリートを抱っこし、いかにも献身的に首を掻いてやりながら尋ねた。僕は静かに息を吐いた。……彼がこんな風に変わったのも、彼女と一緒にいたからだとすれば頷ける。大事な家族の一員を、たとえそれが猫一匹であっても、畜生扱いされることをパーニャならば許さない。

「自慢のぼっちゃんですよ」
 僕の頬を挟んだまま、きらきらと目を輝かせてパーニャが答える。
「立派になりましたね。こんなに大きく、たくましくなって。また会える日が来るなんて……長生きはするものね」
 補足すべく、僕は呟いた。
「……乳母だよ。僕の」
 義母でもある。黒髪の息子を置き去りに、自ら命を断った実母の代わり。
最後にパーニャに会ったのは、まだベルヌイにいた頃だ。何も告げずに亡命してきてしまったのだ。恨まれてもおかしくないと思っていた。
「なんで水の国に……」
「ただの老後の引っ越しですよ。趣味の菜園も、ここなら思いっきり楽しめますからね。さあさ、それよりお上がりなさいな」
 きびきびと僕の後ろに回り背中を押してくる。記憶にあったパーニャの手は、眠る前に絵本をめくってくれ、額を撫でてくれた大きな手だ。それが今はあまりの弱々しさに、とてもではないけれど抗おうという気は失われた。
 さっきまでためらっていた一歩が、あっけなく光の中に押し上げられる。
 二階はキッチンだった。天窓からいっぱいに採光した円形フロアは、いかにもパーニャの城だった。くるくると作業する姿が目に浮かぶ。南側の出窓にはハーブの鉢が所狭しと置かれ、その隣のベランダも小ぶりの菜園になっていた。必要なときに必要なだけ、採りたての野菜を使うのはパーニャの主義みたいなものだ。部屋のどこにいてもさっと手を伸ばせる木製の丸テーブルには、小麦粉の袋が置かれていた。口のクリップは外され、気づけばゴットフリートが床でオモチャにして遊んでいる。小麦粉の横には大きなボールと、透明の水差しにたっぷり入ったミルク。さらにその隣に、たった今量り売りで買ってきたらしいバターを、パーニャがどさりと置いた。

「……クッキー?」
 つい口にしてしまったその質問が、子ども時代のままだと気づいてハッと頬を赤らめた。けれど幸い、パーニャはそこには触れることなく、
「その前に!」
 と一喝した。思わず背筋が伸びた。小さなパーニャは、ぐいと胸を反らすように僕の鼻先に指を突きつけてくる。危うく登ってきたばかりの階段にのけぞりかけた。
「なんですかその服は、泥だらけじゃないですか!」
「あ。いや、これは……」
 血なのだけれど。
「泥だらけに、裂け目に、ほつれだらけ! だいたいまずセンスがなっていません、季節感の欠片もない。いいですか、服というのは何も、胴と四肢をくるんでさえいればいいというものではないのですよ?」
「いや、でもこれは……うん。そうだね」
「せっかくの素材が台無しです」
 息をつめた。素材もなにも、黒髪が着飾ったところで仕方ないだろう。そんな卑屈な考えが一瞬でも顔に出てしまったのか、あるいは僕の思いそうなことなど生来お見通しなのか、パーニャはやれやれと腰に手をあてた。
「この際、はっきり申し上げておきます」
「……何」
「腕の立つ料理人は、たとえ粗悪な素材からでも、それなりの逸品を作るものです」
「パーニャ。それは慰めになっていない」
「ぶちぶち言わない! そんな甘ったれに育てた覚えはありません! それに人の話は最後まで聞く!」
「……はい」
 パーニャは鼻息荒く頷くと、むんずと腰に手を当てた。何か一説ぶつ前触れの仕草だ。
「人には誰しも分というものがあります」
 始まった。
「分を弁えて初めて節度ある行いができるというもの。いいですか、腕の立つ料理人は素材をよく見ればこそ、その素材が成りうるもの以上の、つまりそれなり以上の工程は強いません。そんなことをすれば味を貶めるだけだと知っていますからね。礼節も同じです。その人に見合っていない過分な行いをしては、伝わる誠意も伝わりません。貧しいものが模造品の宝石などで、ごてごてと着飾ってごらんなさい、卑しく滑稽に見えるだけでしょう。それならばいっそ野に咲く花の一輪でも胸に添えたほうが、よほど美しく映えるというもの。それは己を弁えていればこそできる、見立てなのです。その点、」
 勿体つけるように言葉を切り、上から下まで僕を眺め回す。予想されたことではあったけれど、さも嘆かわしそうに首を横に振られた。
「ぼっちゃんはてんで、自分の戦い方というものを分かっておりません……」
 ばつの悪さのあまり、後頭部に手を回した。髪でも掻いて誤魔化そうと思ったのだけれど、折悪しくも頭皮には血がこびりつき指が通らない。これではパーニャが嘆くのも無理はないかもしれない。僕は降参の意を示すべく両手を上げた。
 パーニャはそんな僕の一挙手一投足を、じっと音が聞こえそうなほど、つぶさに観察していた。かけていた丸眼鏡をくいと指で押し上げる。それから薄く唇を舐めた。たぶん、いちばん言いたいことはまだ他にあるのだろう。案の定、立て板に水が打って変わって、一語一語、噛み締めるように口にした。
「黒髪は生まれついての素養です。それはもうどうしようもないことです。けれど『黒髪』という服を着るか否かは、ぼっちゃん。あなた自身の選択です。
ぼっちゃんはただでさえ黒髪だというのに、その上からさらに、似合いもしない『黒髪』という服を、それも他人が押し着せた黒一色を、頭と問わず爪先と問わず、全身にこびりつけて、重苦しくまとっているようにパーニャには見えます。けれどそんなことを続けていれば、いずれ心根まで黒く染まってしまいますよ」
 返す言葉もなかった。育ての親とはいえ、まさか十年の隔絶を無視して、いきなり土足で核心を踏み抜いてくるなんて不意打ちもいいところだ。反論を探しあぐねた僕の表情が、パーニャになんらかの確証を与えてしまったらしい。口調こそ控えめだったけれど、すっと表情を消して言い捨てた。
「黒髪には『黒服』ではなく、もっと似合う色がございます。加えて申し添えるならば、服というのは着せられるものではなく、着るものです」
「……考えてみるよ」
 曖昧に言葉を濁すしかできなかったのは、全面的に正論だと思ったからだ。けれど煮え切らない僕の態度自体が火に油を注ぎはしないか……こわごわと顔を上げてみれば、意外にもパーニャは穏やかに、往年の頬の皺を深くしていた。
「ありがとうございます。考えてみてくださいね」

***

 夕方、家を出た。ちょっと買物に行くと書き置いて。
 その実、もう帰らないつもりでいた。こんな偶然があるものか。
 今度はパーニャが死ぬだなんて冗談ではない。そんなことになるくらいならば、そこらにいるごろつきでもつかまえて自分で殺したほうがまだましだ――
半ば本気でそう考えて飛び出したのだけれど、いざ市街地に着くと、《枝》の幅いっぱいに往来する人通りに立ち竦んだ。《枝》と《枝》の間には蜘蛛の巣のように長大な縄梯子が掛けられ、人々はそれをよじ登り、近隣の地区との間を行き来していた。
 誰も彼もが、楽しそうに笑っていた。
 夕焼けに染まる通りに面した家や店は、全てヴォルトが教えてくれた《虫こぶ》だ。もっと遥か遠くの空から見下ろせば、《枝》にびっしり寄生したキノコのように見えるだろう。めいめい、窓から夕餉の匂いを漂わせ、少しずつ明かりも漏れ伝い始めている。そうすると一つ一つの《虫こぶ》が、カボチャで作ったランタンのように温かな光を放つのだった。色というのはずるいものだ。人間の生活においては、ただカラフルだというだけで充実しているように見えるのだから。
 これから、どこへ行こう。
 ぼんやりと往来を眺めていると、偶然にも知った顔が通りがかった。
 ガサイだ。これだけ華やかな通りにおいて、たった一人、味も素っ気もない灰色の着物姿でいたものだから、つい頬が緩んだ。何やら大きな紙袋を抱えて運んでいる。
 彼に関しては安心感がある。この一ヵ月、同行していたからよく分かるのだけれど、どうもこの男は殺しても死にそうにない頑健さをしている。ちょうどいいから呼び止めた。

「ガサイさん」

 ガサイは足を止め、ぴくりと片眉を上げた。びっこを引きながらこちらへ歩み寄ってこようとする。僕はそれには及ばないと片手で制して、自分が傍へ駆け寄った。
「こんばんは。何してるんですか」
 ガサイは答える代わりに、ぬっと紙袋を持ち上げて見せた。中身は……帽子? ボンボンや耳垂れのついた、薄汚れた毛糸の帽子が大半だ。防寒用だろうか。
「子らへの土産だ」
 ぎょっとした。父親だったのか。いや、けれどそれにしては数が多い……? 両手で抱えるほどの紙袋に、いっぱいに帽子が詰められているというのはどういうことだろう。ガサイは一番上に乗っかっていた赤い毛糸の帽子を取り上げると、無造作に僕の頭に被せた。「うわっ……?」すっぽりと耳まで覆われて、ちくちくと麻のような感触が肌を刺した。かなりくたびれた毛糸の帽子だ。
「それはおまえの分だ。その髪ではおちおち買物もできんだろう」
 思わず目を見開いた。礼の一つも言えずに硬直した僕に、ガサイは満足そうに頷き、鷹揚に言った。
「何か用があったのではないのか」
 我に返った。そうだった。こんなところで、人の優しさに感じ入っている場合ではない。帽子の縁を掴んで目深に被り直しながら、尋ねた。
「貧民窟か、歓楽街へ行きたいんです。道を教えてもらえますか」
「行ってどうする」
 ひくりと、頬が引き攣るのを感じた。なぜそんなことを聞く。
 込み上げた言葉を胸の奥にそっとしまい込みながら、なるべく無難な返答を探した。
「……興味があるだけです」
 するとガサイは、すかさず言った。
「この国は平穏だ。平穏を嫌う者は、風の国ルドへと流れていく」
 僕は凝然とガサイを見返した。……なんなのだ。
 貧民窟か歓楽街の場所を聞いただけだ。なぜ、そんな答え方をする。
「北の樹洞から汽車が出ている。発着は七日に一度、運行は片道のみで深夜に限られる。今夜を逃すと、次は新月まで出られない」
 出られない――
 不穏な焦燥が、じわりと心の暗部をかすめた。
 汽車がない、ではなく、出られない。わざわざ人間主体の答えを返してきたことには、どんな腹蔵があるのだろう。まるで僕の抱えている事情を見越しているかのような言い方に聞こえる。加えて皮肉なことに、ガサイの一言は、今の僕にとっては光明ですらある。偶然だろうか。
「……そう、ですか」
 頷き、なんとはなしに街並みに目をやった。
 目の眩むほどの標高の《大樹(エトリ)》では、早くも日が沈み始めている。
「……北の樹洞にはどうやって」
「二つ上の《三叉に割れた枝(フランク=ヴァルター)》の中央通りを西に五十ヨルド。宵闇に先駆けて特別な市が立つ。糸屋の路地を左に入れ」
 言うべきことは全て言ったとでもいうように、ガサイは深々と目を閉じた。
「必ず辿り着ける」

 教えられた路地を曲がり、文字通り枝分かれした道に入った。さっきまでの賑やかな談笑がたちまち遠ざかり、急にしっとりと落ち着いた雰囲気になった。
 けれどここにも色がある。いちいちそんなことに気づく自分に滅入った。下の枝の《虫こぶ》は、オレンジや赤、黄色など、子どもにも分かりやすい暖色系で華やいでいたけれど、こちらは藤色や浅葱など、心持ち渋めの寒色で統一されている。
 ふと夜気を感じさせる風が吹き降ろして、頬を撫でた。ひんやりと冷たい空気の流れに、指でくすぐられたようなもどかしさを感じて、わずかに顔を上げた。
 息を呑んだ。つい数分ほど前まで《枝》の隙間からのぞいていた夕空が、このわずか数刻で、塗り潰したように暗黒に染め上がっていた。何が起きたのかと鮮鋭な黒に目を凝らすと、はるか高み、ここよりもずっと上で、二振りの《連枝》が揺れていた。どうやらあの《連枝》が落ち日を遮り、この区画だけ一足早く影に入ったらしい。
 見入っていると、暗い空の中にぽつりと一つ、灯りが爆ぜた。
 タンポポの種子のような細長い灯明が、ふわふわと風に揺れて降りてくる。最初は一つしかなかった灯りは、みるまに数を増やしていった。
 フラムスティードに降った血染めの《雪》を思い出し、身が強張った。
 けれど幸い思い過ごしで、ここでの灯明はそういうものではなかった。やがて僕のすぐ傍にも、ふわりと一つが着地した。
 間近で形状を確認し、これも《虫こぶ》の一種なのだと直感した。中で光を灯しているから明るく見えたけれど、地は深い緑色だった。傍で確認するとタンポポというよりも、ガサイが使っていた水筒に似ていた。確か竹と言っただろうか。
 《虫こぶ》は次々に飛来し、裏通りはまたたくまに明々と燃える竹林へと変容した。別の国へ迷いこんだような光景に陶然としていると、ちょうど目の前の竹の表面がぺらりと剥がれ、中から人が歩み出てきた。
 両手に看板のようなものを抱えている。
「おっ、早いね。お客さん?」
 とっさに帽子を被り直した。背中にじっとりと汗が噴き出る。見慣れない光景につい足を止めてしまったけれど、寄り道をしている時間はない。さっさと北の樹洞へ行ってしまおう――そう思いかけ、足早に通り過ぎようとしたところで、けれど背後から覚えのある声が聞こえて立ち止まった。

「ばあちゃんに頼まれた夕飯の買い出し、まだ終わってねえんだけどなぁ……」
「ばあちゃん、ばあちゃん、って二言目にはぁー。ほんとに血が繋がってるわけでもないんでしょ?」

 思わず振り返ってしまった。幸い、目深に帽子を被っていたおかげで二人に気づかれることはなかった。

「……他人の世話になってるからこそ、飯どきの手伝いくらいしてえんだよ」
「だったらアザカの世話にもなってんだから、たまには飲みくらい付き合うべき」

 人通りが増えてきた。群集から頭一つ背丈の飛びぬけたヴォルトは否応なしに人目を引いた。さらに同行者が極端に小柄なせいで、身長差のコントラストも際立っていた。一緒にいるのは誰だろう。動きやすそうな丈の短い着物の上から、どういう趣味なのか、不細工なカエルの刺繍が入った黒いマントを羽織っている。さらに頭には、ボンボンのついた帽子――
 そこまで仔細に観察してしまってから、おやと思った。
 あれは、さっきガサイが抱えていた袋に入っていた帽子ではないのか。

「だいたいなんで俺なんだよ。他にいくらでもいんだろう」
「……いない」
「お?」
「金髪の知り合いはあんたしかいない。黒髪が一人で歩いてたら目立つんだもん。でもあんたが一緒なら誤魔化せる。せっかくの夜市だから心置きなく楽しみたいし」

 ――彼女も黒髪なのか。
 いかにも親しげに軽口を叩きあいながら、飛来したばかりの竹筒の一つへと姿を消していった。慌てて後から追いかけると、表の立て看板には飲食店らしい絵が描かれていた。……いや。
 そうではないだろう。自分は何をしているのだ。
 ヴォルトの姿を認めてしまった以上、することは一つだ。逃げなければ。あの二人を、5人目、6人目と数えあげたくないのならば。

「おい兄ちゃん、入るんなら早く入れや。そこにいられると邪魔だぜ」
「え。すみませ――」
 けれどよほど人気の店なのか、いつのまにか仕事帰りらしい集団が後ろに列をなしていて、がやがやと僕ごと押しのけるように入店してしまった。すぐに看板娘らしい溌剌とした声が飛んでくる。
「7名様ですかっ?」
「いや僕は――」
 肝を冷やしながら、とっさに店内を見渡した。中央に炭火を噴き上げる大窯が鎮座し、それをぐるりとカウンターが囲っている。ヴォルトとアザカは、ちょうど窯を挟んだ反対側に案内されたらしく、ここからは見えない。
「手前の席へどうぞっ」
「おい兄ちゃん、邪魔だぞさっさと入れ」
 煩悶しながら、深く帽子を被り直した。……一度座ってから、用事を思い出したとでも言って席を立てばいいか。しかし直接メニューを手渡され、あまつさえにこりと微笑まれて腰が固まった。
 こんな風に、人並みの接待を受けるのはいつ以来だろう。
 初めてではないのか。
 そこへ、さっきの少女の声が飛んできた。

「きたぁー! これこれ! やっぱ鳥といったら雉(きじ)だよねぇ。どうしてもこの辛子焼きが食べたかったんだぁ」
「一羽まるまるかよ。贅沢だなぁ……」
「ふふん、一人だと残しちゃって勿体無いからね。ずっと我慢してたんだなー」
「あ……? おまえ、まさかそのために俺を呼んだのか? 残飯処理要員として?」
「ふはー、いい匂いだなぁ、懐かしいなぁ。榊にも似たような料理があってね、そっちは溶岩焼きとか大叫喚焼きって呼ばれててねー」
「聞けよ!」

 ジュッ、と灼熱した鉄板に肉汁が跳ねるような音が上がり、いったんは華やいだ会話が遠のいた。
 ……一人では食べられない料理、か。
 僕は頬杖を付き、手元のメニューに視線を落とした。……読めない。エトリ語か。
「あの、」
 ふと頭上から声が掛かった。驚いて振り向くと、さっきの看板娘が胸にメニューを抱えて柔らかに微笑んでいた。
「お持ち帰りにもできますよ」
「……え」
「お土産に人気ですし、食べきれないようでしたら、あとでお弁当に包むことも」
 ……そうなのか。それならば、汽車の中で夜食にすればいいか。
 ちらと奥の席に視線をやると、二人はくつろいだ様子で舌鼓を打っていた。
「……じゃあ、残ったらお願いします」
「はいっ、辛子焼き一枚入りまーす」
 目を伏せた。これくらい構わないだろう。
 たった一回、外で食事をするくらい。
 すぐに料理が運ばれてきた。分厚い鉄板にうっすら赤みがかった油を垂らし、そこで野性の鳥らしいよく締まった肉を自分で焼くのだと説明を受けた。肉にはすでに香辛料が擦り込まれ、十分に下味が付いているように見えたけれど、焼き上がり近くなった頃カウンターから壺と杓子を渡された。壺の蓋を取ると、中で真っ赤なタレがぐつぐつと煮え立っていた。これをどうするのだと固まっていると、看板娘が横に立ち袖をまくり、赤いタレを杓子いっぱいにすくいとり、目の前でどろりとかけてくれた。
 おそるおそる、ナイフで一口分を切り、そっと口に運んだ。
「……あ」
 なるほど旨い。初めて食べる野鳥の肉は、噛みごたえがあり、濃厚で癖になりそうな味だ。臭みが出ないのだろうかと訝しんだけれど、香辛料と真っ赤なタレとが見事に打ち消している。口の中でじんわりと広がっていく滋味というか、後から押し寄せてくる滋養というか、刺激というか――
「――ぐ!?」
 窒息するかと思うような痛烈な辛さに見舞われた。
 急に辛味というよりも痛みが走った。目頭が引き攣り、目の前がちかちかと明滅し、焦点を合わせることもままならなくなって何度も首を振った。額から汗が滝のように噴き出してくる。それを必死に拭い取っていると、再び奥の会話が聞こえてきた。

「ちょっと味薄くねえか」
「だねー」
 そんなはずがあるか。
「ふー、食った食った。じゃ、悪いけど俺は先に帰るわ」
「ええっ、まだ雉(きじ)しか食べてないのに」
「鳥一羽も食ったら十分だろ!」
「なんでさー。おごりだからって遠慮してるー?」
「ばか言うな、自分の勘定は自分でもつって。そろそろファシオが帰ってくるんだ」

 汗を拭っていた手が硬直した。
 燃えていたはずの口内に、何か執拗な甘みが染み出してくるような気がして、慌てて次の一口を放り込んだ。辛さのあまり咳き込んだ。

「あんたたちさー、ちょっとべったりで気持ち悪いよ」

 …………。え?

「師匠も殿下も気にしすぎ……あんな辛気臭いだけの黒髪、放っておけばいいのに」
「あのなぁ。おまえ、俺の友達にその言い方は、」
「アザカの友達じゃないもーん。アザカはあいつ、嫌いだよ。見るからに訳ありって顔してさ。世の不幸を一身に背負ってます、みたいなさ。はいはい勝手に酔ってろって感じだよ。こっちまで腐りそうでげんなりするよ」
「……酔ってんのはおまえだろ。何飲んだ? 会ったこともないやつに嫌いも何もねえだろ。そんなんじゃ友達――」
「できないよ。いるわけないじゃん。朝も昼も夜も、ずーっと汽車で下の子たちのお守りしてるのにさ、いつ作るっていうのさぁ……」
「…………」
「むっ。なにがおかしいのさ」
「いや。おまえは、黒髪を言い訳にしねえんだな」

 ――――。

 は……?

「あー? うー、ないものはないし。そこで立ち止まったら何もできないよ。それより今ので思い出したけど、ヴォルトはなんで旅なんかしてんの? アザカたちは盟約で汽車を降りられないから、もうしょうがないけどさぁ……あんたは違うじゃん。あんたは、わざわざ根無し草選ばなくたって、好きな国に住めるじゃん」

 あの黒髪を捨てれば、と。
 呟かれた声に、ヴォルトは返事をしなかった。
 顔が見えないのがもどかしかった。どんな表情で押し黙っているのだろう。こうなってしまってはもう店を出るに出られない。汗を拭い、近くを通りかかった娘に冷水を一杯頼み、会話に聞き入った。

 ――彼女の言うことはもっともだ。

 ヴォルトが、僕に良くしてくれる義理は本来どこにもない。
 村を出るときこそ、留学だ、自分のためだと嘯いてくれたけれど、あのときはまさかここまで大事になるとは思っていなかったはずだ。こんな、ばたばたと死人の出る、自分すらも死人に数えられかねないばかげた惨事になるなんて。
 それでも傍にいてくれたのだ。

「同情?」
「……だれにだよ」
「じゃあ、雇われてる? 今のアザカみたいに、黒髪が一人だと不便だから、付き添いを依頼された?」

 ……そういう発想もあるのか。
 もちろんヴォルトは拒んだろうけれど、僕もヴォルトに幾らか支払ったほうが良かったのだろうかと思わず考え込んでしまった。確かに同じ旅程を辿ってはいても、僕とヴォルトとでは抱えている意味合いが全く異なる。僕は、周りの人が死んでいく――捉えようによっては、だけだけれど、ヴォルトの場合、まず彼自身が犠牲者に上がる可能性が極めて高い。ヴォルトのほうが実際的な危険度はよほど高く、割りにも合わない旅なのだ。
 そこまで考えて、何か小さな違和感を覚えた。
 そういえばなぜ、そんな危険な旅をヴォルトは途中で投げ出そうとしなかったのだろう。
 付いてきてくれたところまでは分かるのだ。
 彼はいいやつだから、親友が一人危ない橋を渡ろうとしたら、とりあえずは放っておくことはすまい。
 けれどその先はまた別の話だ。ヴォルトはああ見えて考えなしではない。
 むしろ自分の目で見たもの、耳で聞いたものへの判断は人よりも冷徹だ。オポおじさんを助けないほうがよかったと言い放ったことも良い例で、山では危険は排除しないと生きられないから、多少の無理はしたとしても、まず無茶はしない。
 その理屈でいえば、僕など真っ先に遠ざけそうなものだった。
 それがフラムスティードでのあの大災害を経て尚、わざわざ、エトリの自宅に招待したというのは。
 ふつう、できることだろうか……?
 なぜ、いまだに僕の傍を離れようとしないのだろう。
 アザカの言葉を借りるなら、今なお執拗に「世話を焼いて」くれている――
 ――――、

 ……理由……?

「じゃあ、あんたが利用してんの? 黒髪は安いし、荷運びとか」

 考えたこともなかった。
 今まで、ヴォルトは単にお人好しが過ぎるのだと思っていた。
 乗りかかった船だから、自分からは降りると言い出せないのだろうと、ある意味では高を括っていた。だからこそ僕がヴォルトを遠ざけなければと、その一点にばかり腐心し、失敗しては自分のせいだと懊悩してきた。
 最近ではもうそういう形ばかりの自己嫌悪にも飽きて、親友に再会したときには、件の《神》の悪戯だろうと放棄しかけていた。
 けれどそんな非科学的な諦めに走るより、まずは逆の可能性を疑ってみたほうが理に適っていたのではないか。つまり。

 僕が、ヴォルトから離れられないのではなく。
 ヴォルトに、僕を逃がそうとしない理由がある……?

 今までも、善意で付き合ってくれていたのではなく、あくまでも僕をいいや僕の旅を、自分抜きでは終わらせないと強く切望する動機が――

「あるわけないだろ」

 店内が静まり返った。
 強烈な怒気を孕んだ声に、僕ですら、一瞬、誰が放った声なのか分からなかった。
 場違いな静寂に、油の跳ねる音だけがぱちぱちと拍手を送っていた。そこへ誰かが一枚、ジャッと肉を乗せる音が重なり、さざなみのように喧騒が戻り始め、最後にアザカの色を失った震え声が続いた。
「な、なにさ。急に大きな声出さないでよ……」
「悪かった。でも、冗談でも二度とそういうこと言わないでくれ」
 僕はしみじみと考え込んだ。
 ……今のは、なんだ……?
 どうして怒声まで上げる必要がある。心外だから否定したのか、それとも逆に、図星を突かれたから思わず……?
 まさか。ヴォルトに限って。けれどそう考えれば辻褄のあうことはいくらでもあった。
 水の国で奇跡的に再会を果たせたのだって、ヴォルトがあらかじめガサイと連絡を取り合い待ち合わせていたとすればどうだ。
 パーニャの家での居候にしたって、レアの力を借りれば、僕の関係者を探し当てておいて引き合わせるくらい、実は造作もないのではないのか。

 ――ヴォルトが、僕の旅を牽引している……?

「…………」

 濃く、煮詰まっていく壺に視線を落とした。ぐつぐつと泡を噴き上げる様が、何かに似ているような気がするのだけれど、なんなのか思い出せない。なんだっけ。喉もとまでせり上がった答えのせいで、ひそひそと胸がむかつく。残った料理を包んでもらうか、それとも捨ててしまうかと考えていると、店の入口のほうからけたたましい打突音がした。
 なんだろうと顔を上げて、珍客に眉をひそめた。
 鳩だ。扉ではなく、すぐ隣の窓を叩いている。何を血迷ったのか、はめ殺しの丸いふちに細い鉤爪を食い込ませ、嘴が砕けるのではないかとこちらが心配になるほど必死に、突いている。トトト。トトトトト。誰か追い払いはしないのかと見守っていると、青い外套を着た男が外から扉を開け放った。とたん、鳩も窓を離れ、男が光を背負った入口からサッと店内に飛び込み、ふわりと旋回し男の肩にとまった。

「パーニャ・プロッフィさんのご子息はこちらに?」

 早口にまくしたてた。肩の鳥が囀ったのではと錯覚するような、珍妙な喋り方だった。おかげでそちらに意識を持っていかれてしまい反応が遅れた。
 僕だけは何を置いても、真っ先に立ち上がらなければならなかったのに。
 代わりに席を立ったのはヴォルトだった。どういうわけか顔が強張っている。男は一つ神経質そうに頷くと、つかつかと店内に侵入し、上から下まで舐めまわすようにヴォルトを見た。そしてまた一つ頷いた。
「君がそうか?」
 違う。パーニャは独り身だ。それでも敢えて、家族を名乗っていい者がいるとすれば僕だけだ。
 名乗り出ることのできない僕の代わりに、顔面蒼白のヴォルトが尋ねた。
「ばあちゃんに、なんか……?」
「落ち着いて聞いてほしい」
 耳をそばだてた。ヴォルトがばあちゃんなどと呼んだせいか、男はすっかりヴォルトをパーニャの一人息子か何かと誤解してしまったようだ。さも気の毒そうにヴォルトの肩に手を置き、首を横に振っている。
 その仕草だけで、後に続く言葉は想像がつくというものだった。
 だからこそ余計に意味が解らなかった。
 なぜ、それを報されるのが僕ではないのだろう。
「気の毒だが、おばさんは殺――」
 男が最後まで言い終える前に、がしゃん、と食器をひっくり返したような音が店内に響き、中にいた客がすべからくこちらを振り向いた。
 ヴォルトが弾かれたように僕を見た。
 それでようやく、自分が席を蹴立てたのだと知った。
 ヴォルトの端正な顔がみるみる驚愕に歪んでいく。つられて僕は、頬を吊り上げた。
 笑う以外の表情を思いつかなかった。
 それが、ヴォルトを傷つけるために選んだ表情だったのだということに気づいたのは、ずっと後になってからだった。
 ふとパーニャの声が脳裏をよぎった。
 ――黒髪は生まれついての素養です。それはもうどうしようもないことです。けれど『黒髪』という服を着るか否かは、ぼっちゃん。あなた自身の選択です――
 僕は一つ息を吸い、カウンターに勘定を置いた。
 ヴォルトの横を素通りして店を出る。
 少し前のヴォルトなら、きっと追いかけてきたのだろう。けれど垢抜けた彼は、人の心を慮るがゆえに、遠ざかる僕への距離の詰め方が分からない。
 おかげで、安心して遺していけた。
 走った。
 風が冷たかった。
 温かな街を、遮二無二駆け抜けて北の樹洞へと向かった。

第13.5話 Dreamed a dream(5)へ続く

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