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第12話 水の国

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 鬱蒼とした密林に、青緑の肌の醜男が立っている。
 よく目を凝らすと、鰐(わに)の皮を剥いで衣としているのだと分かる。元々着ていた服は、魚に啄ばまれてぼろぼろになってしまったのだ。僕も同じだった。だから二人とも似たような格好をしている。くるぶし、ふくらはぎ、膝――つまり下半身を、重点的に爬虫類の皮で鎧(よろ)っている。見た目にはものものしいけれど、肌触りは何かぶよぶよとゼリー状の細胞が吸い付いてくるような感触があり、意外とひんやりして気持ちが良い。最初は抵抗があったけれど、陸に上がって三日もすると慣れてしまった。
 この森には毒性を持った植物が多く、生身でいれば接触部が発疹を起こし歩くどころではなくなるのだという。それで気を利かせて、ガサイがこれら《防護服》を調達してくれた。この老人は口数が少なく、案内役としては不足も多かったけれど、護衛としてはこれ以上ないほど申し分ない働きをしてくれていた。

「何を見ている」
「……珍しい植物が多いですね。それに昆虫も」
「おまえの右足が踏み潰しているのは黄燐虫(ダミアナ)だ。催淫効果の高い粘液を吐き、幻覚を見せる。過去に女でもいたのか。間抜けた顔をしていたぞ」

 反論するのも煩わしく、僕はただ無言で視線を落とした。片足をどけると、なるほど半分潰れた親指のような甲虫が、ぴきゃぁと奇怪な悲鳴をあげ、じとついた蛍光色の汁を飛ばしていた。
 頭上でがさりと物音がした。今度は緑色の獣が、涎をまき散らしながら飛び掛ってきた。ぼぎゃ。不快な音を立てて、ガサイの投擲したナイフ――先端が菱形で、かつ両刃という奇妙な小刀――が、すかさず獣をこめかみから撃ち抜いた。ぼたぼたと脳漿を噴かせながら落ちてくる。猿だ。もう何度もあったことだから驚きはしない。

「ありがとうございます」

 礼を述べると、ガサイは眉一つ動かさず傍へ来た。
 しゃがみこみ、猿の前で合掌する。そして迷いなく皮を剥いでいく。鮮やかな手捌きだけは何度見ても見飽きない。村でも家畜をつぶすことはあったけれど、その工程を美しいと感じたことは一度もなかった。

 夜は木の上にねぐらを築いた。
 この森の粘土質の土は、気温が下がると沼に変わり、通りがかった生き物を養分として喰らう。だからありとあらゆる獣が、日没と同時に一斉に樹の上へと駆け上がっていく。僕たち人間もそれに倣う。寓話に出てくる豆の木のような、蔦の絡みあった枝ぶりのよい大樹を選ぶ。杉や樺(かんば)のようなまっすぐな木はだめだ。表面にびっしりと菌類や寄生植物が繁茂し、また、そうした木に巣食う虫は、人間すらも好んで産卵の温床にするのだと聞かされた。
 そんな知識ばかりが増えていく。
 水の国エトリがどこにあるのかと尋ねると、ガサイは分からないと答えた。知らないという意味ではなく、エトリへの入口は日によって変わるため、探し回る以外に手立てはないのだという。移住民族なのかと訊くと、それにも首を横に振られた。ただ、己の勘と経験だけを頼りに歩いて見つけ出すしかないのだと。そんなことをしていたら何ヶ月掛かるか分からない。反論すると、それには及ばないと落ち着き払った声で返された。なぜと尋ねると、世界はおまえが想像しているほど広くないからだと諭された。
 そんな日々が、もう一ヶ月も続いている。
 地面で眠りたい。
 ふと薄目を開くと、鼻先をかすめるように生鮮な弦(つる)が何本も渡っていた。その一本一本が、ときどき茎の中で、何か微細な粒子を輝かせる。耳をあてるとひんやりと心地良く、さぁっと水の流れる音がした。
 その音の遥か彼方に、ライラの笑い声が聞こえた。
 幻聴か。顔を離すと、目の前に、蒼いショールを羽織ったライラがいた。

 ……ああ、まただ。

 この森に入ってから、こうした光景を見ることが増えている。
 山羊の乳のように白く、無垢な柔肌が透けている。細い指で、絡みあう弦のカーテンを掻き分け、そっと静かに体を覆い被せてくる。まるで誘うように柔らかなふくらみを押し当てながら、僕の喉に人さし指を這わせる。
 口を開こうとすると、唇で押しふさがれた。
 僕の口内を大胆に舐りまわしたあと、こつんと額をあてて、恥ずかしさを誤魔化すように微笑んだ。
 するりと腕に滑り込んできたライラには、重さがなかった。
 外見こそ元気だったときのままだけれど、掻き抱く重さは、それこそ掻き集めようとしなければ感じられないほどに軽い。
 痩せ細り、骨ばって、ふくよかさも、やわらかさも欠落していった懐かしい体。村の連中から、いい加減抱いてやれと何度も責められたけれど、ともすれば僕の重さが最後の一押しとなってしまいそうで、一度も事に及ぶことはできなかった小さな体。
 本当に、小さかったのだ。
 こんなにも他愛ない命からすら、僕は逃げていた。

「―--やめてくれ」

 気づけば声に出していた。
 腕の中で、小さな命が身を固くした。命――そう錯覚してしまうほど精巧な、外見だけなら昔と寸分違わない可憐な娘が、一度は表情を曇らせた後、ふっと開き直ったように微笑んだ。あやすように髪だけ撫でて、僕から体を離そうとする。
 思わず追い縋るように伸ばした手が、ライラの胴をとおり抜けて虚空をつかむ。
 自分の五指が、ライラの体の向こうで物欲しそうに折れ曲がり、しぼんでいくのを目の当たりにした。呆然とする僕の前で、ライラは困ったようにはにかんだ。声には出さず、口の形だけを動かして伝えてくる。

 ――ごめんね。

 行き場を失くしてしぼんだ手が、固く、握り拳に集束していくのが見えた。指の関節に引き絞るような痛みが来た。その痛みを一つとして取りこぼさないよう、僕はゆっくりと、自分の腕を、心臓の前へと引き戻した。
 透きとおった腹部から腕を引き抜かれる瞬間、かすかに、ライラの顔が苦悶に歪んだ。
 目を閉じるのが惜しかった。
 聞き慣れない、でもどこかで心待ちにしていたような苦しげな喘ぎに、ほのかに血潮が沸き立つのを感じた。そんな自分に底知れない憎悪を抱きながら、それでも僕はかぶりを振った。ライラはうっすらと額に汗を滲ませて、柔らかく頷いた。
 僕は堪えきれなくなって目を閉じた。
 自分にしか届けない世界で夢想する。
 ナイフが恋しい。
 あのとき、始まりの村で研いでいたナイフが今こそ欲しい。
 刃渡りの長いものを。少しでも鋭利なものを。僕は右手に抜き身のナイフを構え、それを背中に隠すだろう。何もない風を装って胸を反らせ、これ見よがしに片腕を広げる。
 ライラ。名前を呼ぶと、寂しげな笑顔がくしゃっと歪む。もう言うことを利かなくなった左足を、懸命に引きずりながら走ってくる。ぱたりと腕の中に倒れ込んだ華奢な体を、僕は精一杯の優しさで抱きとめる。折れそうな腰を、このときばかりは二度と離さないと強く、強く抱きすくめる。
 そうして二つの影が一つになった折、隠していたナイフを空に振るう。
 待ち望んでいた温もりに、ライラは涙をこぼすだろう。その恍惚とした一瞬を、僕は串刺しにする。自分ごと。脇腹に誤魔化しようのない疼痛が広がっていく。永遠に、離れられなくなったところでささやく。
 ねえ、ライラ。
 僕は、君に会いたくなかったよ――

***

 翌朝、股間に妙なぬめりを感じて目が覚めた。
 あぐらをかいた足の上を、ぴちゃぴちゃと魚が跳ねまわっていた。
 にわかに意識が覚醒した。反射的に払いのけてから、呼吸が上ずっていることに気がついた。なぜ木の上に魚が。困惑しながら、手の中にぬるりと残っていた鱗の感触を何度も樹皮になすりつけていると、頭上からガサイの声が降ってきた。

「見えるか」

 振り仰いで、眩しさに目を細めた。
 ……太陽が見える。
 それ自体が既におかしなことだった。昨日までは、ありとあらゆる植物が光を奪い合い、鬱蒼と樹冠で空を塞いでいたのだ。今日は、ぱっくりと清々しく、文字通り貫けるような円形の青空が見えている。

「道が来るぞ」
 言いながら、ガサイが上の枝から飛び移って来た。
「エトリの水門だ。もうじきこの場所を通る。他の植物たちは、分を弁えて空を譲ったのだろう。我々もこの機を逃さず、遡(さかのぼ)るぞ」
「あの、言っている意味が――」
 激しい突風が吹いた。
 絡み合った寄生植物でさえ、根こそぎ攫われてしまうのではないかと恐怖するような豪風だ。木々の間を駆け抜けた。たまらず足を踏み外しかけた僕を、ガサイが支えた。
「いいか、泳ごうとするな。委ねろ」
 説明が足りないのはこの老人の常だけれど、今回はことさら嫌な予感がした。静けさに満ちた朝の空気が、微細に震えている。物音などという表現では到底言い尽くせない何か、とてつもなく不吉な何かが、
「来たぞ」
 言うなりガサイは僕の腰に腕を回し、恐るべき跳躍力で飛び上がった。
 それとほぼ正確な入れ違いで、僕たちが立っていた場所を、巨大な――見誤りでなければ――木の根が、雪崩のような勢いで駆け下った。めきめきと、骨を砕くごとくおぞましい濁音を轟かせて、昨日ねぐらにしていた樹木を丸ごと薙ぎ倒し、疾駆していく。
 それを僕は、ガサイに横抱きにされたまま上空から唖然と俯瞰した。
 けれど浮遊感のさなかではたと気づいた。いったんは回避に成功したものの、このままではどの道あの爆走する木の根に落下、もとい直撃するのでは。
 あんなものに巻き込まれたら粉微塵では済まない。
 けれどその恐怖も、さらなる混沌によって押し流された。根の進撃の遥か最前線で、ぶわりと土煙が昇るように鳥の群れが飛び立つさまが見えた。そしてその一群が、放たれた矢の雨ようにこちらに向かって飛翔してくる。群れで僕たちを襲うつもりかと身を固くしたけれどそうではなく、地面をひた走る何かを追い、時に鋭く急降下しては、器用に嘴(くちばし)で掬い上げていた。
 それらが何か気づいて血の気が引いた。
 魚だ。
 木の根を、魚が登ってくる。そして無数の魚が泳ぐに足る滝が、登ってくる。もし僕が山ではなく海の近くで育っていれば、きっと津波という言葉を思い浮かべたのだろう。ガサイは言った。

「食事だ」

 生々しく、行儀悪く啜る音が地響きのように轟いた。
 音は他でもない、僕たちが落下しようとしている木の根そのものから放たれていた。それでようやく理解した。どうやら、どこかの湖か沼にでも届いた根の先端部が、えげつない勢いで水を吸い始めたらしい。それも導管(中)を通すだけでは飽き足らず、樹皮全体が磁石よろしく、大気中の水という水――その水には生物の血潮も含まれる――を吸い寄せ、むさぼっている。
 清冽な音が、ざあっと思考を無に帰した。
 目を開くと、逆流する川の中にいた。
 極彩色の猿がすぐ目の前で泡を吹いていた。水はマグマのような重量感があり、実際、噴石のような障害物も目立ち、猿は気の毒にも巨石に顔面を押し潰されて水底に沈んでいった。すぐに白目を剥いた頭部だけが浮いてきた。なるほど運が悪いとこうなるらしい。どうする。答えはガサイが運んできた。どこで、というかこの混乱の中でどうやって伐(き)ってきたのか、二本の倒木をロープで繋ぎ合わせ、泳ぎながら筏(いかだ)を作っている。

「おまえはこれに寝そべっておけ」
 驚いたことに、作業しながら口を利く余力もあるらしい。僕はかろうじて頷き、丸木を抱きかかえるように腕を回した。
「このまま《幹(エトリ)》まで行く。同じ根が辿りつく場所は一つだけだ。現地で落ち合おう」
「え? 待っ――」

 ガサイが波に攫われた。数秒後には水面に爆発するような血しぶきが上がり、人の三倍はありそうな鮫(さめ)がぬっと顔を覗かせた。ガサイはその首に短刀を付き立て、悠々と舵を切っていた。思わず水の浸食も忘れて口を開いた。ガサイだけがそうなのか、それとも榊の人間というのは皆こうもでたらめな運動神経をしているのか。
 考えられたのはそこまでだった。両目を叩き潰さんばかりに、びちゃりと頭上から魚が降ってきた。そのままぬるりと口内に忍び込もうとしてくる。必死に吐き出してから何事かと見上げると、空を遮り、二本目の木の根がめりめりと縦走していくところだった。二本目も、逆流する滝に鎧(よろ)われていく。けれど僕のいる根に比べたら吸引力が弱いのか、取りこぼされた魚たちが、まるで雹(ひょう)のようにぼたぼたと落ちてくる。
 その中に、幾つか肌色の物体が混ざっていた。
 ぐんにゃりと力なく丸まった軟体は、枝分かれした形状からヒトデか何かかと思ったけれど、近づくにつれ青ざめた。
 手首だ。
 すかさず後方に視線を移した。どうか見間違いであってくれと祈りながら目を凝らす。けれど嫌な予感は、瞬く間に現実となって押し寄せた。隣に並んだ。ぷかりと僕を取り囲んだ。異臭のあまり吐いた。やはり死体だ。五体満足のものもあれば、そうでないものもある。後者のほうが多い。それはそうだ、ここへ来るまでの間、散々、喰い散らかされる場面を目の当たりにしては、弔うこともせずに捨て置いてきたのだから。
 だけどなぜ。
 まさかこの根は、海底のフラムスティードまで届いたのか。

「――――」

 なんだろう。何か、とても重大なことを見落としているような気がする。
 しかし助言を求めたくても、あまりの《頭数》に、もうどこにガサイがいるのかも判別がつかない。ぷかぷかと浮かぶ彼彼女らの顔も、腐乱ガスで膨れ上がり、あまつさえ穴という穴から魚が出入りし、かつて誰であったのか、いいや誰かであったのかもう面影すら望めない。それがせめてもの救いといえば救いだった。
 滝はやがて、鬱蒼とした森の樹冠を突き破り、ついには天空へと踊り出た。
唐突に眼前に真っ白な壁が迫り、ぶつかると危ぶみ目を閉じると、むわっとした熱風だけが頬に噴きつけ、凄まじい勢いで後方へと流れ去っていった。

 ――雲だ。

 気づけば青空の中にいた。
 根の行軍に巻き込まれた無数の死体は、ここまでの道中であらかた養分として吸収され尽くされてしまったのか、ぞっとするほど《頭数》が減り、見通しがよくなっていた。さっきまでの混濁が嘘のように水も透きとおり始めている。陽の光を照り返し、川底が――つまり根の表面の木肌が、生き生きと漲(みなぎ)っているのが水中にのぞき込める。
 ふと勇気を出してもう一度後ろを振り返ってみると、昨日までさまよっていた森が、雲の切れ間からその全容が見えてしまうほど小さくまとまっていた。
 なんという標高。この《樹》は、いったいなんなのだ。
 これ以上どこへ連れて行かれるのか――不安がよぎりかけたけれど、そもそも最初からこの旅に行く宛てなどないのだと思い出すにつけ、少しずつ勢いを失い始めた水の流れに同調するように、心も平穏を取り戻していった。
 やがて眼前に、《樹》の本体が現れた。
 ほうと嘆息した。朝陽を照り返して燦然と輝くオークの《幹》は、その威容にもっとも近しいものとして、フラムスティードの王城、あのクジラの亡骸を思い出させた。
 ただ少しおかしなことに、《幹》にはどうしたことか、幾重にも黒い縄が巻かれていた。より近づいて来ると、縄は鋼鉄の鎖だと気づく。一つの輪が両手を広げても抱えきれないほどの強大な鎖だ。それが、無謀にもこの《大樹》に巻き枯らしでも図ろうとしているかのように、びっしりと締め付けているのだった。
 やがて鎖の合間に、どうやら樹洞(じゅどう)と思しき穴が見えてきた。
 僕は目を見開いた。
 覚えのある人物が、入口で手を振っている。

 ――生きていたのか。

 あらゆる森の命を貪り尽くした木の根と、それを伝い続けてきた滝は、最後には静謐な運河のようにゆっくりと、樹洞に注ぎ込んだ。

 天空に伸びる《大樹》。
 それが、水の国エトリだった。

第13話 5人目へつづく

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