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純粋すぎる破壊者の話

少し曖昧な記憶だが、何故だか一部よみがえってきたので、書いてしまうことにする。

私は、今では型にはまれないけれど、なんとなく擬態してやっていくことが出来ている。と思っている。日々向上したい貪欲な気持ちと少しの怠惰が入り混じった人間だと分かっているので、いわゆる現状維持だけを忠実に実行する人の世界を壊しかねない危険因子だという自覚もある。

20前半の時はひどかった。

まず、自分が日常やっていることは良いことを求めること(向上して結果を出しているという意味とは厳密には違う)だから、良いことを求めている以上他人に迷惑はかけていないという論理だった。

これは、組織が向上する集団ならおそらくそれでいいのだけれど、私がそのころであった人間の昔を懐かしみ慈しむような生き方の完全に否定であることに全然気が付いていなかったのだ。

「組織のやり方、○○さんのやり方に合わせないと失礼」という怒りを何度もぶつけられたけど、全然わからず「こっちの方が売れるのにな」とかそういうことを思ってしまう人間だった。女じゃなかったら殴っていたと何度も何度も言われた。

怒られる時に呼ばれた公園の隅に何台も止まった自転車のことがなんだか急に思い出されたのだ。いつも怒られていたけれど、夏はとくに多かったのかもしれない。出来ることならその土地には生涯踏み入れたくないとは思っている。

その場ではめちゃくちゃ共感して反省して申し訳なかった気持ちになるし、泣いて謝る。でも、その人たちの考えの流れが分からないから何に納得したか忘れてまたやってしまう。なぜ怒こっているか分からないから、私はそれを理解して私に教えなければいけない。それが心の口癖だった。口に出したら怒られたけど、対等な感じがしないからというのは納得がいかなかった。いつだって真剣に向き合っているというのに。そんな気持ちだった。

反抗とか反骨心ではないのだ。向上することのベクトルが違っていることに私も含め誰もが気が付いていなかったのだ。

確か最終的には人が大事にしているものを踏みにじった裏切り者と呼ばれた。その組織を抜けていく人がやたらと増えたことは私のせいではないと思うのだか、今思えば論だけが経つ私に影響されてしまった人ももしかしたらいるのかもしれない。ちなみに危険因子に知識と技術が付いたら、それはそうなるよなあというのが今の私の感想である。住む世界があまりにも違った。

そうしていつしかパンクしていくに至る。今なら人の道理とか譲れないものにがんがん入り込む危険因子だったことを自覚できるから多少は抑えられるのだけれど、基本はそういう環境には向かない。調和は外から見ているに限ると今なら思う。きっと壊してしまうから外からそっと見ている。

人間何をやりたいかももちろん大事だけれど、「環境」を選ぶことはとても大事なんだという話であった。新しいことをやっていけるかとか向上したい気持ちがあるかとかそういうこと。別にやる内容はいつも違うし、人間なんでもやってみたら出来るよと通信簿オール4みたいな不得意も得意もない私は思うのだが、今度は得意を伸ばそう論調にははじかれたりもする。


グミを食べながら書いています。書くことを続けるためのグミ代に使わせていただきます。