メンヘラ記録その1

わたしがはじめて「おくすり」、いわゆる精神安定剤の類だとかを摂ったのは、たしか2歳頃のことだった。子供の起こす熱性けいれんの予防のためのダイアップ(ジアゼパム)坐剤だった。飲み薬だとセルシンホリゾンで有名だね。就学時には落ち着くと言われた熱性けいれんだったが、たしか7歳ころまでひきつけていて、8歳ころまで発熱時には服薬していた。
そこから少し離れて、小学校5年生。勉強はそれなりにできたが、私は担任の先生(なんと3年から6年まで変わらなかった)と馬が合わず、毎日死にたい気持ちだった。おうちで夜、布団に入ると、酒臭い息の嫌なこともあった。そんなときに出会ったのが、南条あや嬢の『卒業式まで死にません』滝野川図書館で見つけて、食い入るように読んで、私はこれかもしれないと思った。同時期に、母の本棚から高野悦子嬢の『二十歳の原点』を盗み読み、私は彼女らのように死ぬのが目標で生きていこうと決めた。
初めてパニック障害を起こしたのは小3のとき、両親の夫婦喧嘩で追い込まれてしまって、過呼吸から心臓が痛くなって死んじゃうかもしれないと思った。給食を食べれなくて残されたときも、嘔吐し呼吸できなくなりそんなことが続いていた。
『卒業式まで死にません』を読んで以後、わたしは精神を病んでいるのだと気付きを得た。そして、それには薬が効くことを知った。ソラナックス0.4を、パパの箪笥から拝借して、お守りみたいに持っていた。それを初めて飲んだのは、担任の先生に習ってない漢字を多用した作文を書いたことで17時半まで叱責され親も呼ばれた日のことだった。死にたいなあと思い、パパの会社のPCのおさがりのThinkPadをつけた。南条あや嬢を読み、2ちゃんねるにたびたびアクセスするようになった私は、迷わずメンヘルサロンを開いた。小学生で担任に怒られただけで病んでたら舐められると思い、こんな投稿をした。
入社一年目です。上司のセクハラがひどくて死にたい。
ソラナックスあるけど飲んでいいかな。
すぐに反応があり、上司最低だねとか、殺してやれとか、嬉しかった。そして、飲みなという声も多かったので、私はついに自分の意志でベンゾジアゼピンを飲んだ。正直、聞いたかどうかはわからないし、2ch民のはげましの方が効いたけど、心はスッキリとした。
はじめての自傷は、版画の時間。体育館で体操着で彫刻刀でベニヤを彫っていた。リストカットや瀉血の存在は、当時のメンヘルサイトで知っていた。でもって、わたしの夢は瀉血で死ぬことだった。ふと思った。死ぬ練習のためにちょっとだけ切ってみよう。太ももを、丸い刃先の刀でスッといった。痛い、でもきれい、まだ産毛すら生えてない小学校5年生の色白のわたしの太ももに流れる血は、大人が飲んでるワインみたいだと思った。隣の男の子に気づかれ、事故として処理された。
中学生になった。この頃から境界性人格障害と躁鬱のケが出てきたような気がする。見捨てられるのが怖かった。パパにもママにも友達にも。いい子でいようと頑張った。でも、ひずみがでて、度々太ももを彫刻刀で切ったり、わざと鼻血を出して心配されて喜んでいた。生徒会に入るくらい元気なときと、心臓が痛くなって南北線に乗れないときと、両極端だった。あとは迷走神経反射がはじまり、痙攣しながらたびたび失神するようになった。お薬は、パパからソラナックスを拝借したり、自分に処方されていたアタラックスPをODすることを覚えた。ただ、眠るだけだったけど。
高校生になった。高1高2はハイパー躁で、部活も生徒会副会長も成績もぜんぶ良かった。初めて男のひととお付き合いした。気を引きたくてかまってもらいたくて、男のひとは性的なことをすれば喜ぶんだと思いこんでいて、また、自分が女の子であることを実感したくて、いろいろと間違ったことをし、傷つけてしまい傷ついた。
そのひととはお別れして、私は2chを見る生活をしていた。そこで知り合った男の子に、ウット、カルモチンを教えてもらい、太宰が好きな私はお小遣いを握りしめ買いに行った。高かった。でも、高級なチョコレートボンボンのように、特段いいことがあった日、逆に悪いことがあった日に飲んだものだった。
大学生になった。ぼっちだった。初めて話しかけてくれた男の子と付き合い、振り回した。ピルを飲んでいたので、生中をこちらから強要した。半ば逆レイプだったと思う。それから性的逸脱行為がはじまった。ツイッターでオフパコというやつである。何人と寝たかもうわからない。幸いにも性病にはならなかった。
初めて心療内科を受診したのは18のときだった。大学の相談室に紹介され、初めてもらったのは、セルシン。ダイアップと一緒で笑ってしまった。精神的なもので胃が痛くて、一応撮った胃カメラの麻酔のプロポフォールは、いままでのオーガズムを100倍にしたような気持ちよさだった。
それから自分で開業メンクリに行くようになり、2chで得た知識で、デパスマイスリーサイレースが欲しく、以前もらってたという体で簡単に手に入れた。デパスを最初に飲んだときの衝撃は忘れない。膝から崩れ落ちるような脱力感と多幸感。マイスリーも素晴らしかった。スマホの画面がぐにゃぐにゃになる多幸感。いまでも一番好きな薬はマイスリーです。
躁状態で就活が始まり、ADHDの第一選択薬なんじゃないかなってメーカーの営業職に内定を取った。結構すごかったと思う。でも、内定式に行って、一気に鬱転。車の免許もパニックで取れず、内定サイレント辞退してしまい、わざと留年した。
その時並行して、秋葉原のコンセプトカフェで働いていた。21歳娘盛り、元が悪いとはいえど、それなりに可愛かった。だから、お客さんから好意を抱かれたり、いわゆる推されたりということもあった。最悪なことに客食いをした。片手で足りるくらいではあるけど。私にとっては道理が通っていたのだ。お店に来てお金を使ってくれて、しかも推してくれるひとにお礼としてセックスをしているつもりだった。当然揉めてクビになった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?