見出し画像

森は命のお父さん

隆起した地面、堆積した腐植土のぶよぶよとした感触、背の高いシダのような草葉、広葉樹林は至る所から根が迫り出しているので歩きにくかった。日光は無く明るいのか暗いのか分からない。もしかするとヘッドライトのようなものを装着しているのかも知れない。ただ、前方がうっすらと何かに照らし出されているのが見える。私はただ歩いていた。夢の中にいるような感覚である。明晰夢を見た時のような、愚にも付かない虚構の中でそれが夢であると自覚しながらも目を覚ます方法が分からない時の、あのなんとも言えない倦怠感が全身を包んでいる。辺りは暑くも寒くも無く強いて言えば少し蒸している気がするくらいである。この場所に来る以前の記憶も、この先に何があって自分が何を目的として歩いているのかも、何一つ思い出せなかった。現実味の無い森は見渡す限り続きどこまでも仄暗い。脳内で状況を整理すると少しだけ思考を取り戻したような気になった。ゆるゆると首を回し自分の身なりを確認する。白のタンクトップ1枚に膝も隠れない短いズボンを履いている。何故か前時代のスタイルである。意識を向けると手足や骨格も子供に戻ったように華奢な身体つきであるように思える。一層現実とは思えない。右手が何か煩わしく思い見ると虫取り網を握っていた。先程までは無かったような気がする。私は虫を取りに森へやってきたのだろうか。思考とは別に歩を進め続けていると何やら少しづつ森が開け1本の大木を中心にした広場のような所へ出た。注連縄が回された立派な椚の木である。ゆっくりと近づいて見ると所々から樹液が溢れ出し沢山の昆虫が群がっている。目的地に着いたように思えた。優しく空を見上げると無機質な鉄骨梁の天井が見えた。室内である。一気に何も分からなくなった。歩いた距離からしても並大抵の広さではない。巨大な部屋の中に鬱蒼とした森を拵えたのか、巨大な森を壁と天井で囲ったのか、冷静を装っても何も解決しない。
「すいません、誰か居ませんか?」
初めて声を出した。自分の声は何故かスピーカーを通したような音質と音量で森全体に響いた。胸元にはピンマイクが付けられていた。何もかもが嫌になってきた。やりたくもないゲームをやらされているような感覚である。私は何に付き合わされてこのような目に遭っているのだろうか。必死になって何かを思い出し、やるせない現状を打開したかった。強く目をつぶろうとしたが出来なかった。既に瞼を閉じ切っているのである。私は目をつぶったままこの森を見ていたのだ。全てが脳内で作り出された映像であるということになって、そして完全に発狂した。瞼や頬、顔中を爪を立てて掻きむしった。熱と痛みが迸る。親指に固く力を込めて眼球の中に押し込んだ。柔らかく暖かい体温がこぼれ落ちて行く。断末魔は拡声器を貫通し全ての木々を揺らした。

生ぬるい地面に崩れ落ち臥して細く息をしている。熱を帯びた空気が肺を膨らませ背骨を軋ませた。突如、ブレーカーを落としたような衝撃音がこだまして辺りの空気が冷たく変化したように感じる。じわじわと土が水分を含み始めた。冷水が皮膚を撫でている。森が水没し始めたのだろうか。すぐに鼻に水が侵入し激しくむせた。人としての生を捨てた気でいたのに、死を恐れ呼吸を求めるように仰向けに寝返った。水位は少しづつ上がってきている。耳が完全に水に浸かった。凍てつく皮膚と熱を帯びた呼吸が混ざりあって少しだけ心地が良かった。とうとう体内に水が流れ込んで来た。上体を起こす気にはなれず、今度はそのままそれを受け入れた。安らかに終わって行くことが不快でならなかった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?