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スポットライトが見えずとも~上総台高校アクター部がいる!~(164)


前回:スポットライトが見えずとも~上総台高校アクター部がいる!~(163)





 小船が晴明の指導につくようになってから、一ヶ月が経った。

 他にも数人の教え子を受け持っている小船は、波多野ほどには晴明のもとには来なかったが、それでも丁寧で的確な指導のおかげで、晴明がコンサートで演奏する曲が日に日に形になっていた。押しつぶされそうなほどにあった不安も、少しずつ自信に姿を変えていく。一時期停滞していた準備は、徐々に進みつつあった。

 ただ一点、波多野が未だ入院中であることを除けば。

「すいません。わざわざこんなお茶まで出していただいて」

「いえいえ。こんな雨の中大変だったでしょう。どうぞゆっくりなさっていってください」

 冬樹が温かい言葉をかけると、上條は「では、お言葉に甘えて」と、お茶を一口すすった。

 窓の外では土砂降りに近い雨が降り続いている。今日は寒気も接近していて、六月なのに暖房をつける必要があるほどだ。

 そんな日に、上條は一人で似鳥家にやってきていた。昨日、会ってお話したいと連絡があったからだが、そのときからずっと晴明は、よくない予感を胸に抱えている。

「あの、上條さん。お話というのは何なんでしょうか……?」

 冬樹と上條は世間話ばかりしていて、なかなか本題に入りそうになかったから、晴明はおそるおそる尋ねた。いい話題でも悪い話題でも知らせてもらえないことには、晴明の心のもやは晴れなかった。

 上條が少し表情を硬くする。それだけで今日来た用件が言いづらいことで、世間話をすることで言うのを先延ばしにしていたのだと、晴明は気づいた。

「そうですね。そろそろお話しなければなりませんね。晴明さん、冬樹さん。今日私がこちらにお伺いしたのは、お二方も察しがついていると思いますが、波多野のことです」

「波多野先生がどうかされたんですか? もしかして退院の目途が立ったんですか?」

 食いつくように訊いている冬樹に、上條はわずかに目を伏せていた。そして、晴明が不安に思ったのも束の間、意を決したように口を開く。

「いいえ、違います。単刀直入に言います。波多野は母親が暮らしているフランスで、療養をすることになりました」

 上條が持ってきた知らせは、晴明が想像しなかったものだったから、驚いたり悲しむよりも先に、まず呆気に取られてしまう。冬樹も思わず「えっ? フランスですか?」と訊き返している。

 小さく頷く上條を見て、晴明はようやく嘘をついているわけではないと、飲みこむことができた。その理由も何となくだが分かってしまう。

「はい。実は先日、波多野は医師から『五〇歳まで生きていることは難しい』と宣告を受けまして。人生がもうすぐ終わりを迎えることを見据えて波多野は、せめて最期は母親のもとにいたいと思ったようです。私どもも波多野の意思を尊重し、母親のもとで療養させることを決めました」

 淡々と語られた理由は、まさに晴明の想像通りだった。波多野は今四八歳だから、もうあまり時間は残されていない。それなら、残りの時間は自分を育ててくれた母親のもとにいたいと思うのは、無理もないことだろう。晴明だって同様の立場に立たされたら、同じ選択をする。

 だから自分の側にいてほしいとは、たとえ思っていても、安易に口に出すことは憚られた。

「……そうですか。波多野先生の症状はそこまで進行していたんですね……」

「はい。残念ですが、手術ももうできないまでに腫瘍は大きくなっているようです。波多野のことを思えば、本当は今日にでも母親のもとへと帰したいのですが、何分いくつか手続きが必要で……」

「波多野先生がいつフランスに帰るのかはもう決まっているんですか?」

「いいえ。まだ決まっていません。でも、向こうの病院の受け入れ態勢が整い次第すぐに、ということになると思います」

 深刻な話に、空気が少しずつ重くなっていくことを晴明は感じる。押しつぶされてしまいそうなほどだ。

 冬樹も上條も口を開けていない。三人のもとに出されたお茶が、徐々に冷めていく。

「あの、上條さん。これからも波多野先生のお見舞いに行って大丈夫でしょうか?」

 鬱屈とした空気から逃げるかのように、晴明は訊いていた。波多野とあとどれだけ会えるか分からないからこそ、残り少ない機会を大切にしたいと思った。

「はい。ぜひいらしてください。きっと波多野も喜ぶと思います」

 上條の返答に、少しだけ心が落ち着く。おそらく会うたびに、波多野の弱っていく姿を目の当たりにするのだろう。だけれど、それでも波多野に会えた安堵や喜びの方が上回りそうだと晴明は感じた。

 明後日は練習前に少し時間がある。そのときにでもまた波多野のもとを訪ねてみようと、晴明は心に決めていた。

 テーブルに具材が並ぶ。豆腐、春菊、ネギ、キノコ。ホットプレートの上で牛肉が焼かれるのを、晴明はただ黙って見ていた。割り下が焦げていく香ばしい匂い。

 晴明は食べごろになった牛肉を、溶き卵にくぐらせて口に運んだ。脂の旨味が舌に広がる。

 奈津美が言うには、奮発してブランド和牛を買ったらしい。値段は聞かなかったけれど、それ相応の味がした。

「よかったな、晴明。日芸への進学が正式に決まって」

 同じくすき焼きに舌鼓を打ちながら、満面の笑みで冬樹が言った。未来はバラ色だと言わんばかりの調子に、晴明も首を縦に振らざるを得ない。

 七月も中旬になって、晴明は一学期の期末テストを終えていた。結果は上々で、日芸が求める基準をクリアできていた。

 そして今日の昼、改めて宮島がやってきて、晴明たちに進学の内定が決まったことを告げたのだ。晴明ももちろん嬉しかったが、それ以上に冬樹や奈津美の喜びようは凄く、何度も宮島の手を取ったり、礼を言ったりしていた。

 少し恥ずかしく感じるのと同時に、この期待に応えなければと晴明は再認識していた。

「これで恵まれた環境で練習ができるな。演奏会も定期的に行われてるみたいだし、高校生になったお前の演奏を聴くのが今から楽しみだよ」

「そんな。お父さん、気が早いよ。まだ入学してすらいないんだし」

「でも、これからは学校のピアノでいつでも練習ができるんでしょ。先生方からより専門的な指導も受けられて、願ったり叶ったりじゃない」

「ま、まあ、それはね。期待に添えるようにがんばるよ」

 晴明の将来が約束されたと思っているのか、冬樹と奈津美の声は少し浮ついていた。すき焼きという美味しいものを食べているせいもあったのかもしれない。

 だけれど、晴明は和やかな食卓の空気に、どこか馴染めないでいた。箸は進んでいるのだが、積極的に食事をしたいとはあまり思えなかった。

 どうして、冬樹と奈津美がそこまで上機嫌でいられるのか不思議なくらいに。

「どうしたの、晴明? すき焼き美味しくない?」

「う、ううん。美味しいよ。さすがは高いお肉なだけある」

「晴明。そんな無理してお父さんやお母さんに合わせようとしなくてもいいんだぞ。言いたいことがあったらちゃんと言っていいんだ」

 にこやかな顔でそう言ってきた冬樹に、人の気も知らないでと晴明は思う。空気を盛り下げるようで憚られたが、それでも促されたから素直に告げることにした。

「……お父さんもお母さんも、どうしてそんなに機嫌よくいられるのかなって」

「どうしてって? 進学が決まったのは喜ばしいことじゃない」

「そうじゃなくて。もう来週には波多野先生がフランスに発っちゃうのに、どうしてそんな何でもない風に振る舞えるのかなって、ちょっと思っただけ」

 食卓に一瞬沈黙が降りる。でも、晴明は言わなければよかったとは思わなかった。

 波多野の病状はあれからますます悪化して、今では一日の多くをベッドの上で過ごしている。歩くことも難しく、移動にも車いすを使っているような状態だ。

 向こうの病院の受け入れ態勢も整って、いよいよ離ればなれになる日付が近づいているなか、晴明は正直、進学のことを考えられるような気分ではなかった。

 だから、楽しそうにしている二人を見ると、腹が立つとまではいかないが、若干ストレスを感じてしまう。

「そうだな。晴明の気持ちを考えたら、お父さんたち少し舞い上がりすぎてたな。もっと冷静になるべきだった」

「晴明にとっては半年後の進学よりも、一週間後の波多野先生との挨拶の方が大事だもんね。そんな当たり前のことも思い至らなくてごめんね」

 申し訳なさそうにする二人。確かに晴明は両親にはあまりはしゃいでほしくはなかったものの、そこまでしおらしくされるのも本意ではなかった。お祝いのために用意されたすき焼きも、場違いに見えてしまう。

 澱み始めた空気を戻すかのように、晴明は言葉を取り繕う。それは本心とは少し違っていた。

「いいよ、そんなに謝らなくて。僕だって進学が決まったこと自体は嬉しいし。ほら、ご飯食べよ。早くしないとお肉冷めちゃうよ」

 息子に気を遣われたことは、冬樹も奈津美も分かっていただろう。

 でも、気にする素振りを見せずに冬樹は「ああ。せっかくのめでたい日だしな」と言って、再び牛肉を焼き始めた。ネギや豆腐などといった具材も次々に投入されて、ホットプレートの中は本格的な鍋の様相を見せる。

 晴明たちはその後も、ぽつぽつと話しながら食事を続けた。すき焼きは美味しいし、家族と顔を合わせて食事をする機会は何も言われなくてもありがたい。

 だけれど、晴明の胸に沈んだ錨は抜けることはなかった。来週のことを考えると、今から憂鬱になってしまう。

 それでも考えられずにはいられないほど、晴明の脳は切羽詰まってしまっていた。

 窓の外から時折聞こえるジェット音。建物の中ではひっきりなしに人が動いていて、落ち着かず慌ただしい。

 燦燦とした夏の日差しが差し込む中、晴明は椅子に座ってそのときをじわりじわりと待っていた。冬樹や奈津美も今日は一緒だ。

 そして、隣には車いすに波多野が座っている。二言三言言葉を交わす晴明たち。でもそれはまったく実体を伴っていなくて、晴明は空しく感じていた。

 七月も下旬に差し掛かって、晴明が中学最後の夏休みに入った最初の日曜日。晴明たちは国際空港にやってきていた。用件はもちろん、フランスに帰る波多野を見送るためだ。

 とはいっても、波多野の実家に一番近い空港へはここから直行便が出ているわけではなく、途中で空港を一つ経由しなければならないのだが、それでも晴明はとうとうこの日がやってきたかと思わずにはいられなかった。隣にいる波多野は眉一つ動かさず、案内板を見ている。

 搭乗開始までは残り一〇分を切っていて、搭乗口には早くも人々が列を作りつつあった。

「波多野先生、向こうに帰ったらどうするんですか?」

 もう何度も聞かされてとっくに知っていることなのに、晴明はふと口を開いていた。話していないと、名残惜しさを表現できない気がしていた。

 波多野は穏やかな表情を浮かべて、そのまま何回も伝えた内容を口にする。

「実家の近くにある病院に入院することになりますね。もし病状がよくなれば家に帰ることもできるでしょうけど、まずはしっかりと治療に専念する予定です」

「お母さんもお見舞いに来てくれるんですよね?」

「はい、その予定です。今のところは毎日面倒を見ると言っていますから」

「そうですか」と晴明が答えたきり、会話はそこで終了してしまった。もう何度もしているやり取りの先を、二人は見つけられていなかった。

 晴明たちの周りに静寂が立ちこめる。賑やかな空港の中で、自分たちだけが浮いているような感覚が晴明にはした。

「あ、あの。波多野先生が生まれ育ったところって、どんなところなんですか?」

 これも出会って最初の頃にした質問だ。晴明も既に答えを知っている。

 それでも、晴明は尋ねていた。話していないと、搭乗時間までの間が埋まらないような気がしていた。

「南部の小さな港町ですよ。いつでも海が身近にあって、誰しもが海と共に生きているような、そんなところです」

「そ、そうなんですか。じゃあ魚介類とかも美味しかったんですね」

「はい。ブイヤベースにして食べるのが好きでした。病院にいる状態では難しいと思うんですけど、いつかはもう一度食べてみたいですね」

 どうでもいい話しかできない自分が、晴明にはもどかしく感じられる。本当に言いたいのは、こういうことではないのに。

 でも、決定的なことを言ったら、それこそ自分と波多野の距離が永遠に離れてしまう感じがしていて、晴明には怖かった。

 刻一刻と進む時間。このままずっと搭乗時間が来なければいいのにと願ってしまう。

 だけれど、晴明の思いも空しく、現実はあっけなく波多野と共にいられる時間を奪う。

 アナウンスが、搭乗時間が始まったことを伝える。搭乗口に並んでいた人々が一人、また一人と飛行機へと吸い込まれていく。

「じゃあ、私たちもそろそろ行きますね」。そう波多野が言って、一列後ろの椅子に座っていた上條が立ち上がって、波多野の車いすを押す。

 そして、晴明たちは今一度波多野と向き合った。表情は安寧としていて、離れ離れになる悲しみなんて感じていないように、晴明には見える。

 でも、本当は波多野だって断腸の思いで、母親のもとに変えることを決断したのだ。そう思うと、この期に及んで引き留めることは晴明にはできなかった。


(続く)


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