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グッド・モーニング


 鼻腔を刺激する煙草の匂いが染み渡った部屋。太陽が重力に抵抗を続ける午後五時。
 アンナは恐る恐る目を開く。天井には、ちらちらと光る蛍光灯。正面には、レスポールを持ったトム・ヨークのポスター。部屋の隅には、丁寧に畳まれたシャツが三枚。エアコンから送られる生暖かい風が、アンナの頬を優しく撫でている。
 アンナは横目で窓を見る。白にやや茶色がかかったカーテンに覆われて、外の景色を見ることはできない。アンナは深く首を傾げた。




 壁時計のない部屋で、どれほどの時間が経っただろうか。飾り気のない黒いドアが開けられた。敷居を跨いで入ってきた男は、右手に缶ビールが三本入ったコンビニ袋を握りしめている。
 「タダイマー、ナオキ。」
 ドアが閉まる音に呼応するように、甲高い声が発せられた。
 「『ただいま』じゃなくて『おかえり』だろ。お前もここでの暮らし長いんだから、そろそろ覚えろよな。」
 「ウン、ワカッタ。ナオキヤサシイネ」
 そう答えるとアンナは視線を天井に向けて口をパクパクさせた。


 「アンナ、聞いてくれよ。上司が俺に対して怒鳴り散らすんだよ。そりゃあ俺が得意先の名前間違えたのが悪いよ。でも、あんなキレることないよな。『全部お前のせいだ』の、『辞めちまえ』だの。嫌になるよ。」
 テーブルの上のビール缶は、すでに二缶目が開けられていた。ビールと一緒に買ったメンマに、爪楊枝が直立している。バラエティ番組の大げさなリアクションが部屋に反響する。
 「ナオキ、ワルクナイ。ナオキ、ダイジョウブダヨ」
 「いや、お前はそういうけどさ、実際、大丈夫じゃないこと色々あるんだよ。仕事はきついし、税金は高いし、お前に回せてやる金なんて全然ないだろ。お前だってもっといい服着たいよな?もっとうまいもん食いたいよな?」
 ナオキの灰色のスラックスの裾がわずかに揺れる。
 「ダイジョウブダヨ、ナオキ。ダイジョウブ」
 アンナの声は狭い部屋によく通った。オフホワイトの壁に跳ね返り、複数の角度からナオキの耳に入る。
 ナオキの手が震えていた。覚束ない手取りでビール缶を口に運ぶ。雫が顎から零れ落ちた。




 電気は既に消されていた。何人たりとも受け入れない強硬な暗闇。しかし、物音はかすかに鳴っている。発音のないアンナの声も。
 ナオキは暗がりの中でアンナを感じていた。手を伸ばして、アンナの肌を掴む。アンナの体を滴り落ちる汗に、見入るナオキ。両手にアンナの心音が伝わってくる。確かな体温を伴って。
 ナオキは背中に顔を回して、アンナの首筋に舌を当てる。粘力を持った唾液が、アンナの背中を垂れていく。アンナは何も言わない。ただナオキの感触を受け入れるだけ。
 アンナの海綿のような柔らかい肌を感じているうちに、ナオキの密度は高まっていく。


 ナオキはアンナから手を放し、ふらふらと立ち上がる。蛇行する足取りで取りに行ったのは箱入りのティッシュペーパー。一心不乱にティッシュペーパーを引き抜いていく。箱の半分ほどのティシュを丸めて、添える。自らの密度を解放しようと、右手を揺り動かす。静まり返った部屋で、蛇口から水が一滴落ちる音がした。




 ナオキの枕元で目覚まし時計が鳴る。両のベルをハンマーが往復する、古き良き目覚まし時計だ。六畳の部屋にけたたましいアラーム音が鳴り響く。ナオキはうつ伏せになり、亀のような速度で右手を伸ばす。時計の頂上を押してから、ナオキは時計盤を確かめる。時刻は八時を少し過ぎていた。見上げるとアンナが静かに佇んでいる。
 ナオキはのそのそとした足取りで、換気扇へと歩いていく。スイッチを強にして、次に向かうのは冷蔵庫だ。扉を開けると柔らかなオレンジの光がナオキを照らした。
 冷蔵庫の中にあるのは卵が数個とベーコンが一パック。それに、昨日食べ残したメンマが少しあるだけ。調味料はいくばくか揃ってはいるが、最大の問題として、主食がない。


 ナオキは近くのコンビニまで食パンを買いに行くことにした。灰色のスラックスから紺色のジーンズに赤いパーカーへと着替えて、ナオキはドアを開ける。
 ふと振り返ると、アンナがこの世の春を謳歌するかのように、羽を大いに伸ばしていた。


 帰ってくるとナオキはさっそく料理に取り掛かった。卵を片手で割り、空気を含ませるように時々持ち上げながら混ぜる。フライパンにサラダ油を垂らし、手首を利かせて満遍なく広げていく。火は焦げないように中火だ。
 ベーコンをフライパンの上にゆっくりと敷いていく。香ばしい音と匂いが沸き立つ。油の跳ねる音にアンナは驚いたのか、キッチンの方を振り返る。顔が強張ったのは一瞬で、すぐに大きなあくびが漏れた。


 ある程度時間が経ったら、ベーコンを裏返す。ほどよい茶色がまばらに点在している。両面をカリカリに焼いたベーコンをプレートの左上に盛り付け、空いたフライパンに今度は、少しずつ溶き卵を流し込んでいく。その途中にも菜箸でかき回すのを忘れない。空気をいい塩梅で含んだスクランブルエッグは、カシミアのような光沢を放っていた。


 スクランブルエッグをベーコンの隣に盛り付け、パンと一緒に買ってきたカットサラダをプレートの右下に飾り付ける。ドレッシングは酸味のあるコールスロー。アンナのお気に入りの味だ。アンナもコールスローの爽やかな匂いに身を乗り出してくる。
 タイミングよくオーブントースターの鐘が鳴る。トーストもちゃんと、全体的に薄茶色の焦げ目がついている。ナオキは頷く。トーストの強烈な熱さに手を放してしまわないように、注意してプレートに置く。これでナオキとアンナの朝食の完成だ。




 ナオキはトーストが冷めないうちに、これまたコンビニで買ってきたマーガリンを塗っていく。マーガリンは、泡を立てて小麦の海に溶けていく。光り輝くトーストを口に運ぶと、油の旨味と優しい塩の感覚が口の中に広がっていき、ナオキは思わず破顔する。


 アンナがくりくりとした目で、ナオキを見ていた。ナオキはアンナのトーストにもマーガリンを塗ってやる。トーストはいささか冷めていて、マーガリンは白いままだったが、それでも塗り終わった。だが、アンナはトーストを食べようとしない。右に左に首を傾げるばかりだ。


 見かねたナオキは、アンナのトーストを齧る。口の中で何回か噛むとトーストはねっとりとしたペースト状になった。もはや原形をとどめていないそれを口の中で丸める。
 アンナが傾げている首をナオキは真っすぐに直した。正面で向き合うナオキとアンナの顔。ナオキはアンナの口に自らの唇を近づけ、きつく重ね合わせる。
 両者の唾液が交換されるのに乗じて、ナオキはかつてトーストだったものを、アンナの口の中に押し込んだ。もちろん、舌同士を絡め合わせるのも忘れない。まるで複雑な絵を描くかのように。


 「アンナ、お前って『あの世』の存在を信じる?」
  口を放したナオキが告げる。
 「アノヨ?」
 「『あの世』っていうのはな、死んだ人間が行く場所なんだ。でも、『あの世』は終わりじゃない。『あの世』で善い行いを積めば、また生まれ変わることができるんだよ」
 「…………。」
 アンナは何も言わない。その丸い目で、ナオキを見るだけだ。
 「俺は死んだらどうなるんだろうな。多分地獄に行くんだろうな。俺はこんな奴に生まれてきたけど、もし生まれ変われるならお前と一緒がいいよ。そうだったらもっとお前を近くに置けるのに」
 「ナオキ、ダイジョウブ?アンナ、ナオキスキダヨ」
 「ああ俺もアンナのことが好きだ。誓ってもいい。愛してる。肌を合わせられなくても、俺たちはちゃんと繋がってるんだ」
 「ナオキ!ナオキ!ナオキ!」
 「これからもずっと一緒にいような、アンナ。」




 キッチンの流し場には食べ終わって下げられたプレートが二つ置かれている。アンナは食欲がなかったらしく、ナオキが作った朝食のほとんどを残していた。ナオキはそれを無造作に捨てる。何かを振り払うかのように。
 今、ナオキは歯を磨いていた。自分の歯ブラシを一本取ったら、空になってしまうコップ。細切れにしか出てこない歯磨き粉。鏡にナオキの顔が映る。額に筋が浮いていてこれ以上ないほど苦み走っていた。


 赤い炎からゆらゆらと煙が漂っている。その煙は天井に届くことなく消え、部屋の一部となる。食後の一服はナオキにとって、アンナと過ごす時間と同じくらい大切な時間だ。
 ナオキはカーテンを引いて、窓を開けた。春の麗かな空気が部屋に流れ込んでくる。河川敷を桜並木が彩っている。楽しそうに話す家族を見ながら、ナオキは次の煙草を口に運んだ。ライターはなかなか付いてくれない。


 その時だった。アンナが勢いよく、フレッシュイエローの翼を広げた。黄色い体に生えた柔らかな羽毛が風になびいている。短い脚で力強く枝を蹴り出し、大気と一つになる。
 ナオキの顔の横をアンナの翼が掠めた。ナオキの頬から血が滴り落ちる。アンナの姿がぐんぐんと遠くなっていく。そして、アンナはナオキの手の届かない所へ行ってしまった。まるで束縛から解放された奴隷のように。
 ふとナオキが下を見ると、黄色い羽が一枚残っていた。ナオキは左手でそれをつまむと、窓から放した。力なく落ちていったその羽を、ナオキは見ることはしなかった。







 ナオキは虚空を見上げ、やがて窓を閉める。彼が後ろを振り返ると、そこにあったのは夥しい数の鳥籠。そして、思い思いに鳴くインコ、オウム、九官鳥。
 そのうちの一匹に近寄り、扉を開ける。「ユリカ」と名付けられたその鳥は、彼が手を差し出した瞬間、黄色い嘴でナオキの指に噛みついた。堅い嘴が指に食い込む。
 彼はその姿を、目を細めながら、口元を緩めながら、じっと見つめていた。煙草の匂いに、糞尿の臭いが混じった凄烈な部屋の片隅で、何も言わずに見つめていた。

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