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【小説】似た者草子(前編)



 過ぎ去ってしまった記憶。彼方に埋もれた思い出。三〇年以上前のシャボン玉みたいな日々の残骸が、削り取られ風化していく。戻ることはないと、いつの間にか諦めを覚えてしまっていた。

 年を重ねる残酷さにはもう慣れたけれど、かすかに残った子供の人格が俺にささやく。その声に素直に耳を傾けられるほど、俺は自分の辿ってきた道のりを達観できてはいなかった。

 喫茶店の外に置かれた観葉植物がひし形の葉を大量につけて、通行人にその手を振っている。サンダルが跳ねる音が店内に響いては、消えていく。

 グラスに注がれたアイスコーヒーはどこか甘い味がして、俺の動悸を少しだけ落ち着かせた。冷房の風がコーヒー豆の風味を乗せて、店内を流れる。

 目の前にはワイシャツに身を包んだ女性が座り、メモに文言を書き込んでいる。机の上のスマートフォンは録音モード。画面に電子の波がゆらゆらと揺れている。

 一つ咳をしてから女性は、切り出した。

「私、今回のインタビュアーを務めていただきます、児野(この)と申します」

「よろしくお願いします」

「この度は画業一〇周年おめでとうございます。私、国広(くにひろ)先生の漫画を読んで育ちました。特にデビュー作の『ティーンエイジャー』、とても面白かったです。一六歳のときに読んだんですけど、自分のことが書かれてるって衝撃を受けました」

「どうもありがとうございます。児野さんのような読者の方に支えられての一〇年ですから」

 児野は緊張しているのか、声が少し上ずっていた。俺はアイスコーヒーを一口飲んで、落ち着くように勧める。

 児野はアイスコーヒーを飲みこむと、「よし」と聞こえるような声で、気合いを入れ直した。店内に流れるゆったりとしたボサノバも、児野の背中を押したらしい。

 眉が上がって、顔に生気が宿っている。

「では、ここからは来月発売される新作『あの日のスターマイン』についてお伺いします。この作品は国広先生初のコミックエッセイとなりますよね」

「そうですね。子供の時のことは、いつか書かなきゃいけないとずっと思っていました」

 視線を落とすと、コーヒーの水面に俺の顔が映った。皴が顔の表面に浮き始めた、三七歳の顔が映っていた。



***




 窓を開けると、ふんわりとした風が僕の頬を撫でた。道路脇に植えられた桜のつぼみが、膨らみはじめている。きっとあと1週間もすれば満開の花を咲かせるのだろう。そう思うとしばらくこの道を通ることができないことが寂しく思えた。

 お父さんは僕の前の運転席にいて、時々外を見やりながらハンドルを握っていた。カーラジオからは僕が生まれる前にヒットした歌謡曲が流れていて、歌詞の意味は分からないけれど、なんだか胸に染み入る感じがした。

 僕たちの車が通ろうとするところで、信号は赤になった。歩行者信号が青になるのを待ちきれない自転車が、一拍早く飛び出している。

「大輔、今日何食べたい?」

 お父さんがふと呟いた。いつもの低いトーンの声とは違って、どこか弾んだ声だった。こちらを振り返る。眼鏡が少しくすんでいて、その奥に見える目はどこかおぼろげだ。

「別に何でもいいよ。お父さんと一緒に食べられるんだったら、何でも」

「何でもいいってことはないだろ。今日は特別な日なんだから。保育園での四年間を良い思い出で締めくくれるように、美味しい物を食べないとな」

 しみじみとしたお父さんの口調は、僕に対する申し訳なさを含んでいるように思えた。確かにお迎えのときは、いつも僕が最後まで教室に残っていた。閉園時間ギリギリになって迎えに来るお父さんが、先生に注意されているところを何回か見たし、謝ってばかりのお父さんはとても可哀想だった。

 友達がピアノやサッカーの教室に通っていることを羨ましく思ったことも、お父さんには内緒だけれど少しあった。

 それでも、僕はこの四年を不幸に感じたことは一度もなかった。友達は優しかったし、先生も親身になって接してくれた。歌の時間にはいくつもの拍手を貰うことができた。

 何よりお父さんは参観日や運動会の日には、四年間一度も欠かすことなく来てくれた。参観日には他の子の母親たちとよどみなく話していたし、運動会の保護者対抗リレーでは、若さというアドバンテージを生かしてアンカーを務め、一番にゴールテープを切っていた。その姿を僕はかっこいいなと、羨望の眼差しで眺めていた。

 お父さんはどう思っているか分からないけれど、この四年間は僕にとっては大切な時間だったと思う。

 信号が青になった。お父さんはアクセルを踏んで車を前に進める。エンジンの音が少しだけうるさい。

「お父さん、僕、お寿司食べたい」

 冗談のつもりで言った。どこか気の引ける思いがあったのか、語尾は小さくなっていた。

「そうか。お寿司か」

 お父さんも語尾を少し濁す。車は交差点を右に曲がって住宅街に入っていく。僕は自分が大それたことを言っていることが分かっていた。
 僕の家でお寿司といえば、スーパーマーケットの半額になったパックのお寿司だ。それも年に三回ぐらいしか食べない。

 特別な日とはいえ、少し背伸びをし過ぎただろうか。自分がわがままを言ってしまったことに気づき、顔が赤くなった。

「分かった。今日は、一生に一度の日だからな。お寿司食べに行こう。ただし、回転寿司な。いくらなんでも回らないお寿司屋さんは無理だから。あと、あまり高い皿取りすぎんなよ。取っても三〇〇円までな」

 お父さんは僕の方を見ずに、元気を取り戻した声で言った。バックミラーに手を上げて喜ぶ僕の姿が映っている。

 お父さんの周りの空気が少し緩んだように思えた。ふっと緊張感が解けたみたいな。僕はシートから飛び出た頭を見て、見えない後ろ姿を想像し、少し笑った。

 車は住宅街を進んでいく。遠くでチャイムが鳴っている。

「いつか大きくなってお金をたくさん稼いで、父さんを回らないお寿司屋さんに連れてってくれよ」

 あと二週間で僕は小学一年生になる。真新しい黒のランドセルは先週買ったばかりだ。




 アパートの前の生け垣は、緑色の葉を大量につけて、触ると少しチクチクするようになっていた。街灯に照らされることなく、黙っている葉たちは、児童館からの帰り道だと、とても不気味に見えた。

 もうすぐ五月も終わろうとしている。小学校も二ヵ月経つと、色々と慣れてしまうものだ。教室の外から見える景色にテンションが上がることもなくなった。

 登校班で一緒の健太君の家には遊びに行けるようになったし、三年生の久保田さんは僕の手を引っ張っていってくれる。授業中は少し眠たくもあったが、ランドセルが少しずつ重くなっていくのは何だかこそばゆい。

 児童館の先生も物腰柔らかに接してくれるので、ありがたかった。

 夜も九時を過ぎた頃。椅子に座って、テーブルに肘をかけながら、僕はテレビを見ていた。お笑い芸人がコントを繰り広げている。

 僕はそれを見て無邪気に笑っていた。半年間限定の穴埋め番組なんて当時は思いもよらなかった。健太君は九時にはもう寝てしまうらしい。こんなに面白いものを知らないなんてと、僕は密かに優越感に浸っていた。

 後ろから水が流れる音が聞こえる。お父さんが食器を洗っているのだ。といっても洗うのはお皿と箸だけ。

 僕が小学校に上がってから、仕事が忙しくなったらしく、料理をする時間がないのだとお父さんはよく嘆いていた。晩ご飯も名前の知らない人が作ったスーパーマーケットのお惣菜が並ぶことが多くなった。

 お父さんはいつも少し申し訳なさそうにしていたけれど、僕はお父さんが用意してくれるものならなんでも美味しかった。

「大輔、学校は大丈夫か?」

 お父さんは毎日同じことを聞いてくる。他に話題はないのかと思うほど。高学年になってからなにかの拍子に見た小一のときの連絡帳にも「うちの子はちゃんとクラスになじめているか」みたいなことばかり書かれていたから、よほど心配だったのだろう。

 僕は毎日同じように答える。

「うん、大丈夫。勉強も楽しいし、休み時間に友達と遊ぶのはもっと楽しいよ」

「本当か。何か嫌なこととかないか」

「特にないよ。今日は、アサガオの種を植えた。夏になるときれいな花を咲かせるんだよね」

「そうだな。毎日ちゃんと世話してあげないとな」

「うん」

 食器洗いを終えたお父さんが、僕の隣に座る。手から洗剤のオレンジの香りがかすかにした。テレビはお笑い芸人が体を張ったVTRを流していて、僕とお父さんは一緒のところで、笑顔をこぼした。

 CMに入り、僕がトイレに行こうと席を立ったとき、お父さんが話しかけてくる。

「大輔、ちゃんと宿題はやってるのか」

「大丈夫だよ。今日の分はもう終わったから」

「大輔は頭いいなぁ。父さんとは大違いだ」

 お父さんは少し肩を落としたように見えた。仕事で疲れているのだろうか、その声はひしゃげられている。僕は優しく声をかける。花に水をやるように。

「そんなことないよ。お父さんだってお仕事がんばってくれてるじゃん」

「いつもごめんな。帰り遅くなって。児童館は六時半で閉まっちゃうんだろ。お父さんが帰ってくるまでの間、一人で待っていて寂しくないか」

「本当はちょっと寂しいけど、でも大丈夫。お父さんが僕のために、お仕事してくれるのは分かってるから。それにね、今日はマンガを書いたんだ。お父さんがヒーローになって悪者をやっつける話」

「そうか。それは面白そうだな。ちょっと父さんにも見せてくれるか」

 和やかな顔でそう言うので、僕は「うん、いいよ」と答えて、マンガが描かれたノートをお父さんに見せた。小一の僕が描いたマンガは今思えば、めちゃくちゃなものだったと思う。

 コマ割りなんて概念はなく、ガタガタの絵をただ並べただけ。セリフもところどころ「を」と「お」を間違えている。今、思い返せば恥ずかしいような、微笑ましいような。

 それでも、お父さんは僕の書いたマンガらしきものを、頷きながら感心した様子で読んでくれていた。「大輔は本当に凄いな」という褒め言葉つきで、決して苦い顔をすることはなかった。

 否定せず、褒めてくれたことが、認めてくれたことが、ぼくの心の土壌を豊かにしてくれていた。

 天井の照明のさりげない光が眠気を誘う。僕は一つあくびをした。





 アサガオはすくすくと成長し、青や紫の花を咲かせている。校庭には眩しい日差しが惜しみなく降り注がれ、立っているだけで汗ばみそうだった。

 一年八組の教室は、普段とは違う喧噪で包まれていた。給食中もみんながみんな落ち着かず、ヒソヒソ話が増えて、どこか浮き足立っているのは明らかだった。

 今日は入学してから二回目の参観日だった。前回は僕のお父さんを除いて、全員の親が参加していたので、どんな雰囲気になるかは、ほとんどの子供たちが分かっていたと思う。

 僕にとっては何ら変わりない授業の一つでしかなかったけれど、やはり見られているような異様な雰囲気はしっかりと感じていた。

 授業が始まる一〇分ほど前から、続々と親たちが入室してくる。他の親に値踏みされないようにできる限り高級感を演出する一方、出る杭となって打たれないようにどこか控えめに。そんな気苦労が見える服装をして。

 見渡してみるとやはり母親ばかりだ。父親は一人もいない。時計は一時二九分を差そうとしていた。先生が教卓に教科書を置く。

 五時間目の授業が始まろうとしたその時だった。

 教室の後ろのドアが勢いよく開いて、お父さんが入ってきた。あまりの勢いだったので、壁の掃除当番表なんかが少し揺れていた。

 お父さんを見るなり、僕は顔を背けたくなった。お父さんは仕事に行くようなスーツ姿をしていたからだ。この暑いなか、ジャケットまでしっかり着て、こめかみに汗をかき息は上がっている。他の親は一応私服だというのに。

 クラス中の視線がお父さんに集まっている。「望月くんのお父さんですね。もう少し静かに来てもらえますか」という先生の言葉に、お父さんはバツが悪そうに縮こまりながら、ドアを閉めていた。

 教室中がざわついている。子供、大人関係なしに。

 それはまるでお父さんを責めているようで、僕はどこか深いところに隠れたくなった。

 お父さんが教室の一番隅に立っても、状況はあまり変わらなかった。どちらかというと、親の方がざわついているように僕には感じられた。お父さんはこのクラスの親の中では一番若いし、背も一八〇センチメートルほどある。

 だから話題になるのも当然ではあったのだが、親たちの様子を見るにそれだけではないように感じられた。

 僕は最前列にいたので、話の内容は良く聞こえなかったが、隣の母親がお父さんから少し離れているのを見るに、あまりいい話ではないように感じられた。

 それでも、「静かにしてください」という一言で、クラス中が無言になったのはさすが稲葉先生だ。だてに白髪が交じり始めるまで先生を続けていない。

「うんとこしょ。どっこいしょ。まだまだカブはぬけません。すると、ネコがネズミをよびにいきました。カブをひっぱるおじいさんをおばあさんがひっぱり、おばあさんをまごむすめがひっぱり、まごむすめをイヌがひっぱり、イヌがネコをひっぱり、ネコをネズミがひっぱります」

 後ろから村上くんが教科書を音読する声がしている。たどたどしい声だ。稲葉先生が「はい、ありがとう」と言い、「最後は望月くん、読んでください」と僕を指名した。

 順番からいってそうなることは分かっていたけれど、この六〇人の注目を一身に浴びる状況での音読は、なかなか勇気が必要だった。

 上手く喋れなかったらどうしよう。止まってしまったらどうしよう。

 おっかなびっくり立ってみたものの、なかなか声は出てこなかった。教科書を持つ手が少し震えている。振り返ると、お父さんは僕の方をじっと見て、一つ頷いていた。眼鏡の奥の目が、力強かった。

 僕は前を向いて、教科書を読み始める。

「うんとこしょ。どっこいしょ。みんなはちからいっぱいカブをひっぱりました。すると、おおきなおとをたててとうとうカブはぬけました。おじいさんはいいました。『ありがとう。みんなのおかげだよ』。おおきなカブをかこんでみんなおおよろこびしましたとさ」

 僕が最後の一文を言い終わったとき、安堵したのも束の間、後ろから拍手が聞こえた。振り返ってみるとやはりお父さんが拍手をしていた。慎重な空気の中での拍手はとても場違いなものだった。

 お父さんもそれを察してか、集まる視線にすぐに拍手の音は小さくなり、やがて消えた。隣の親に恥ずかしそうに謝っている。

 しかし、僕はお父さんを恥ずかしいとは思わなかった。僕一人に贈られた最大限の賛辞だったからだ。

 僕はお父さんを見て微笑んで、座った。授業はまだまだ続いていく。大きな学校のほんのすみっこで。





 扇風機から伝わるそよ風で、僕の目は覚める。枕元には宿題の絵日記と色鉛筆が転がっていた。布団に寝転びながら書いているうちにどうやら眠ってしまったらしい。

 枕元の目覚まし時計は四時ちょうどを指していた。何をするにも中途半端な時間だ。

 小学校は一学期を終えて夏休みに突入していた。平日と休日の区別なく、毎日友達と遊んでいるとさすがに少し飽きてくる。日曜日だというのに特別感が薄い。

 健太君の家は昨日から大阪へ旅行している。「お土産いっぱい買ってきてやるからな」と言っていた健太君の顔はどこか眩しかったことを、ぼんやりと外を見ながら思い出す。

 とりあえずリビングで再放送のドラマでも見ようと、部屋のドアを開けた。北向きの部屋に日光はあまり差し込んでこない。

 一歩踏み出すと、玄関の側でお父さんが電話をしているのが見えた。灰色の受話器を握って何やら話し込んでいる。

「どうしたんだよ。いきなり電話かけてきて」

「はぁ? 何言ってんだよ。そんなことできるわけないだろ」

「そう言ったって、五年前いなくなったのはそっちだろ」

 お父さんの口調はどこか刺々しい。電話の向こうの相手に、明確な敵意を伝えている。しかし、口調とは裏腹に視線は下を向いていて、何かを押しとどめているようだった。

 廊下に立ちすくむ僕のことには全く気づいていない。たぶん軽薄な内容ではないだろう。僕は困って頭を書くお父さんを見て、そう感じていた。

「分かったよ。一回会うだけな」

 お父さんは無造作に受話器を電話に戻した。一つ大きなため息をついてから顔を上げる。僕に気づいたようだ。動きを止めて、僕のことをぼんやりと見ている。

 少しの間、沈黙が流れた。

 近所のセミの鳴き声だけが聞こえている。

「お父さん、さっきの電話。誰から?」

 僕はおそるおそる尋ねた。お父さんは口ごもってしまう。

 それでも息を呑んで、決心を秘めたようにゆっくりと言った。

「なぁ、大輔。花火見に行こうか」



続く


次回:【小説】似た者草子(後編)

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