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【小説】似た者草子(後編)


前回:【小説】似た者草子(前編)



 駅から一歩出ると、たくさんの人たちが舞い上がった様子で話し込んでいた。浴衣を着ている人も少なくない。誰もが同じ方向に向かって歩いていて、僕たちは流されるように歩き出す。

 はぐれないようにお父さんが手を握ってくれた。ざらざらした手のひらがほんのりと暖かかった。

 河川敷に着いた頃には、夕日も沈んで、空は徐々に暗くなり始めていた。交通規制がかかった堤防道路を、今か今かと待ちわびる人々が行き交う。

 下の緑地には屋台が並んでいて、きらめく電灯はまるで光の絨毯みたいだ。ソースの焦げる匂いが僕を唆す。

 お父さんは「何でも好きなもの買っていいからな」と言ってくれた。

 今思えば、簡単じゃない決断だったと思う。

 しかし、当時の僕は何の疑問も挟まずに、呑気にわたあめを舐めて、焼きそばを口に運んでいた。お父さんと一緒に食べる焼きそばは、豚肉はパサパサしていたけれど、ソースの味が優しかった。金魚すくいでは、僕が一匹しか掬えなかったのに対し、お父さんはポイを上手に使って一〇匹以上掬っていた。

 お父さんの自慢げな顔が、自分のことのように嬉しかった。

「花火なかなか始まらないね」

 レジャーシートのない僕たちは、坂の上で立ったまま花火が上がるのを待っていた。待ち焦がれた僕は何度もお父さんに話しかけた。きっとわがままな子供だったと思う。

 それでも、その度にお父さんは腕時計を確認しながら、「あと何分で始まるから」と僕を慰めてくれた。

 人々の期待が膨らんでいくことは、大きくなるざわめきで分かる。早く始まってほしいというムードが一体となって、辺りに変な緊張感を生んでいた。

 打ち上げ予定時刻の一九時ちょうどに流れたのは、「皆様お待たせしました」というアナウンス。目に見えるくらいに濃くなった緊張と期待は、川の向こうで上がった火の矢に一斉に解き放たれていく。

 すっかり暗くなった空に溶けて、一瞬見えなくなったそれは、次の瞬間には大輪の花を咲かせていた。円形に広がる炎の粒が、信じられないくらい美しかった。

 歓声が一気に上がる。ドンという音が遅れて聞こえる。音の波が僕を揺らして、反響が胸の奥でこだました。

 次から次へと花火は上がり、色とりどりの花束みたいに夜空が彩られていく。僕は夢中で花火を眺めていた。

 最初の花火がひとしきり終わって、夜空がまた静まり返る。

 僕たちは顔を見合わせた。「凄いね」「綺麗だな」。そんなありきたりの言葉しか出てこない。それでも僕たちはささやかな感動に、爪の先まで浸っていた。

 花火は少しの休憩を挟みつつ、続けざまに上げられた。僕は時間も忘れて、花火に見入っていた。周囲の雑談も聞こえないくらいに、僕の心を夜空に咲いた花たちは、奪っていった。

 お父さんも何も言わず、空を見ていた。花火の切れ間に、ポツリと呟く。

「大輔は、大人になったら何になりたい?」

 その言葉はやけにはっきりと僕の耳に届いた。横を向くと、お父さんは空を見上げたままでいる。

「えーと、まずマンガを書く人になりたいでしょ。歌を歌う人にもなりたいし、プロ野球選手にもなってみたいかな。あといろんなところに行ってみたい。もちろんお父さんと一緒に」

「そうか。やりたいこといっぱいあるんだな」

「うん!」

 僕が元気よく返事をすると、お父さんはまた少し黙ってしまった。次の花火はなかなか上がってこない。

 お父さんが僕の方を向いた。ぎゅっと噛みしめられた唇が、つぶさに開いていく。

「大輔は、早く大人になりたいか?」

「うん! 早く大きくなりたい!」

「そうか、大人は楽しいぞ。できることもどんどん増えていくし、大切なものも手に入る。友達だって子供の時とじゃ比べ物にならないほどできるしな。毎日がカラフルなパレードみたいなもんだ。大輔も、早く大人になれるといいな」

「うん! 僕、がんばるよ!」

 僕が言い終えるのを待っていたかのように、また花火が上がった。次から次へと咲き連ねる花火。

 お父さんが「あれはスターマインって言うんだぞ」と噛みしめるように言う。僕は、今まで見たことのない花火の連続に目を輝かせていた。

 その時はまだ、これがお父さんとの最後の思い出になるなんて、一欠片も思っていなかった。





 次の日もまたうだるような暑さだった。僕は友達とセミの抜け殻を見つけたりして遊んだ。宿題は何とでもなる。楽観的な子供だった。お父さんに暗くなる前に帰るようにと言われていたので、言いつけ通り帰る。

 玄関を開けると、ポロシャツ姿のお父さんが立っていて、ご飯を食べに行こうと、近所のファミリーレストランに僕を連れて行った。何度か来たことがあるファミリーレストランは、ほとんどの席が埋まっていて、僕たちは一番窓際の席に座った。

 お父さんは注文をせずに、ただ座って店内の動きを眺めていた。あちらこちらから騒ぎ立てる声が聞こえる。

 午後七時のファミリーレストランは、緩やかな解放感が海みたいに満ちていた。

「お父さん、注文しないの?」

「今はまだいいんだ」

 そう言うお父さんの目は、透明なように見えた。何の光も湛えず、ただ僕を映していた。

 店内を見回していると、入り口に一人の男が立っているのが見えた。短く切り揃えられた髪が清々しさを放つ。お父さんよりも少し背が低くて、体格が良かった。

 その男がこちらに向かって歩いてくる。間近で見るとTシャツが筋肉で盛り上がっていて、少し怖い印象を受けた。

「真(まこと)、久しぶりだな」

 男はお父さんに向かって、何だか馴れ馴れしい口を利いていた。

 お父さんの眉が上がる。目に濁った光が宿った。

「五年ぶりの挨拶がそれかよ。いいから座れよ」

 お父さんに促されるまま、男は僕たちの反対側の席に座った。僕ではなくお父さんと向き合う形だ。

「お前五年間何してたんだよ。大学も急に辞めてさ。孝子に聞いてもどうしてるか分かんないって言うし。本当どこ行ってたんだ?」

「それについては本当に申し訳ないと思ってる。正直言うと、別に好きな人ができたんだ。結婚したいとまで思った。それで、子供がいると相手の親の心証が悪くなると思ったんだ。今考えると全くの間違いだけれど、その時はそう思い込んでた。それで、頼み込める相手を考えたとき、お前しか思い浮かばなかったんだよ。本当にすまん。でも、今は反省してるから。この通りだ」

 男はテーブルに手をついて、頭を下げた。旋毛まではっきりと見える。隣の席から視線を感じたけれど、僕だってどうしたらいいか見当もつかない。

 それでも、お父さんはため息をついてから、言葉をぶつけていく。

「それにしたって行方をくらませる必要はなかっただろ」

「その時はけじめをつける必要があると思ったんだ。今はなんてバカバカしいと思うけど、当時の俺は一つの考えに囚われていて、周りが見えなくなってたんだ」

「そうか。まあ顔上げろよ」

 そう言われて、上げられた男の顔は苦渋がほとばしっていた。目元に深い皴が寄っている。お父さんは重ねるように尋ねる。

「で、その人とは結婚したのか?」

「ああ、した」

「名前は?」

「晴美」

「子供は?」

「いない」

「そっか。……うん、注文取ろうぜ」

 お父さんは男にメニューを渡した。男はメニューを開けるのに渋っていた様子だったが、お父さんに、ほらと促されると怯えるようにメニューを開けた。

 僕たちは店員を呼んで注文をした。僕はお子様ランチ、お父さんは唐揚げ定食、男はエビのパスタを頼んでいた。

 今でも鮮明に思い出せる。気まずくなって口をつけた水が、かすかにレモンの味をしていたことも。

「で、お前今何してんの?」

 店員が戻っていったのを確認して、お父さんが聞いた。男は眉をひそめながら答える。

「普通のサラリーマンしてるよ。電話でも言ったろ」

「そうだったな。証明できるものは、ちゃんと持ってきたのか」

 男は黒のトートバッグから、社員証と名刺を取り出した。名刺には「営業二課 国広浩司(くにひろこうじ)」と書かれていた。当時の僕は分からなかったけれど、男が働いていたのは、誰もが名前を知る大手出版社だった。

 お父さんはそれを見て小さく頷く。

「なぁ、分かってくれただろ。俺がちゃんと働いてるって」

「確かに嘘じゃなさそうだな」

「ああ、だから頼むよ。俺と大輔にやり直すチャンスをくれ。今度は逃げも隠れもしないから」

 男は、手を合わせて頼み込んだ。小麦色に日焼けした手は、お父さんのそれよりも分厚かった。

 この時だ。僕が、お父さんの子供ではないと初めて知ったのは。上手く状況が呑み込めなくて視界が霞み、頭にモヤがかかったように感じたのを覚えている。

「お前、仕事は忙しいのか」

 お父さんが尋ねる。平静を装っていたが、動揺を隠せない口ぶりで。

「帰りは八時とかになることが多いな。でも、妻は専業主婦でいつも家にいてくれるから。免許も持ってるし、送り迎えの心配もいらない」

「先月の手取りいくらだよ」

「二三万だ」

「俺より一〇万も多いな」

 店内にはゆったりとした音楽が流れている。普段なら落ち着けるけれど、この日は僕とお父さんを責めているように聞こえた。

 お父さんは少し考える素振りを見せる。いや、もしかしたらずっと前に、答えは決めていたのかもしれない。それこそ、電話を受けたときから。

「分かった。大輔をお前に譲るよ。いや、返すと言った方がいいのかな」

 僕にはその言葉の意味が分からなかった。分からないふりをすることで、自分を守ろうとしていた。

「本当にいいのか?」

 男が突拍子もない声を出した。店内にいる何人かが、こちらを向いている。悪気のない視線は、僕には恐怖でしかなかった。

 どうやら男にとっても、予想外のことだったらしい。口をあんぐりと開けている。

「なんだよ。そっちが言ってきたんだろ。お前の言う通りにするよ」

「でも、苗字がお前のものになっているってことは、養子縁組を組んでんだろ?」

「別に特別養子縁組ってわけでもないしな。普通だよ。大輔とお前の親子関係はまだ残ってるんだ。俺が大輔との養子縁組を解消すれば、苗字はお前のものに戻る」

「でも、今は大事な時期じゃないのか。小学校に上がったばかりなんだろ。大輔のことも少しは考えろよ」

「お前が言えた義理かよ。この状況を招いたのはお前なんだから、きっちり責任は取れよ。これからこいつを育てることでな」

 お父さんが僕の肩を叩く。汗で滲んでいるのが服越しでも分かった。

 そして、お父さんと男は向き合ったまま、お互いから目を逸らさない。ひりついた空気はファミリーレストランのゆったりとした雰囲気からひどく浮いていた。

 僕の行方が、僕の手の届かないところで決められようとしている。漠然とした不安に、吐きそうなくらいだった。けれど、口を挟むことはできなかった。

 俯いていれば、お父さんの気が変わる。そんな幻想に縋っていた。

「それに遅かれ早かれ、言わなきゃいけないことだったしな。まだ小さいほうが立ち直りも早いだろ。こいつにとっても、本当の父親と一緒にいた方が安心するだろうしな」

「そうだな。真、本当にありがとう。大輔をここまで育ててくれて。俺の勝手で押し付けちまったけど、今は感謝してるよ」

 男は再び頭を下げた。そんなことされたって、僕の心はちっとも癒されない。

「そっちこそ、これから大輔をよろしく頼む。急に苗字が変わったら学校でいじめられるかもしれないから、その時は転校でもさせてやってくれよ」

 お父さんが穏和な声で言うと、料理が運ばれてきた。店員は頭を下げている男を見て、少し戸惑っている。

 おずおずと差し出されたお子様ランチのご飯に国旗が立てられていて、僕はその国旗を皿の外にそっとよける。つまようじの先に着いた米粒が、照明を反射してキラキラ光っていた。

「ほら、飯来たんだから食べようぜ。もったいないだろ。話はまた後でな」

 男は顔を上げて、僕たち三人は夕ご飯を食べ始めた。食べている途中に会話はなかった。

 お子様ランチは不思議なくらい薄味だったし、オレンジジュースは人工的な甘味料の味がして嫌だった。

 黙々と食べ続ける僕たち。会話がひっきりなしに続くファミリーレストランの中で、僕たちはやはり少し浮いていた。






 外に出ると、熱帯夜らしくまとわりつくような空気が僕たちを包んだ。アスファルトから熱が湧き上がってくる。

 僕たちは少し歩いて、スクランブル交差点に差し掛かった。僕はお父さんと手をつないで、信号が青に変わるのを待った。男も手を差し出してくれたけれど、重ねる気にはなれない。

 敵ではないことは分かっていたけれど、繋いでしまったらお父さんの手の暖かさが、男にも流れてしまう気がしていた。

 やがて、信号は青に変わる。人々が、自転車が歩き出す。

「じゃあ、俺もう行くわ。家こっちの方だしな」

「ああ。今まで本当にありがとな」

「大輔をよろしく頼むな」

「分かってるって。今度は逃げたりしない。誓うよ」

「そうか」

 お父さんは膝を曲げて、僕の目線に合わせて屈んだ。そして、大きな手の平で頭を撫でてくれた。

 さらさらとした感触が静かに寂しい。

「ごめんな。これ以上一緒にいてやれなくて。これからはこの人がお前のお父さんだから。しっかり言うことを聞いて、素敵な大人になるんだぞ」

 「じゃあな」。お父さんが離れていく。いつもの道を帰っていく。たった一人で。誰も待っていない家に。

 自分でも気づかないうちに僕は走り出していた。お父さんの体をぎゅっと抱きしめる。腕に腰骨の固い感触が当たった。

 僕たちは横断歩道の真ん中で立ち止まる。車が、歩行者が、ビル群がただの背景になって、幕をめくれば僕たちの家に着きそうな錯覚がした。

 お父さんは僕の手を引いて、男の元まで戻る。そして、こう言った。

「なぁ、浩司。お前の家までは一緒に行っていいか?」






 男の家へは、電車を二つ乗り換える必要があった。駅前の商店街を抜けてしばらく歩くと、無個性な住宅街に辿り着く。家々の壁にはまだ艶があり、好景気に乗せられるようにして建てられたらしい。

 男の家もそのうちの一つだった。オフホワイトの壁が夜に溶けていて、玄関の照明が暖かく光っている。

「凄いな。二六でもう自分の家を持ってるのか」

「今時、この年で一戸建てなんて珍しくもなんともないだろ。それに妻の親が教頭と校長でな。結構金持ってんだよ。半分くらいは出してもらったかな。もちろんローンもまだまだ残ってるけど」

「先生ってそういうの厳しいイメージあるけどな」

「娘が可愛くて仕方ないんだよ」

 お父さんは羨ましそうに男の家を眺める。僕らが住む二部屋しかないアパートとは大違いだ。

 お父さんは納得したように、何度も頷いた。そ自分に言い聞かせていたのかもしれない。僕とはもう会わないという、触れたら壊れてしまいそうなほど脆い決意を、確かなものにしようとしたのかもしれない。

「じゃあ、俺そろそろ行くわ。必要なものは新学期までに宅配便で送っとくから」

「ああ、頼むわ」

「言い忘れてたけど、こいつエビアレルギーだから。食べると湿疹起こすから、なるべく食わせないでくれよ。あと、まだおねしょをする年頃だから、もししても怒んなよ。それと、漫画を書くのが好きだから、よかったら見てやってくれよな。あと……」

 その日は新月で、街灯の明かりだけが僕たちを照らしていた。お父さんの口が止まる。言葉に詰まったように、ただ立ち尽くしていた。

「分かった。そのあたりのことは宅配便と一緒に、メモに書いといて送ってくれればいいから」

 見かねた男が声をかけると、お父さんは口を結んで僕の方を見た。眼鏡の奥の目が、痛いほど澄んでいる。

「じゃあな、大輔。俺もう行くから。これからは国広大輔として、浩司お父さんと一緒に暮らすんだぞ」

 「元気でな」。お父さんはそう言うと踵を返して、僕たちから離れようとする。

 その背中がいつもより小さく見えて、とっさに僕は駆け出していた。たぶん「嫌だよ」とか「もっと一緒にいたいよ」みたいなことを言っていたと思う。僕の頭は突然の出来事に、パニックを起こしていた。涙も流れていたように思えるけれど、記憶は自己防衛の絵の具に塗り重ねられている。

 それでも、お父さんが、

「大輔、指切りげんまんしようか。また会えるように」

 と言ったことは覚えている。

 お父さんの小指の柔らかさも、少し火照った体温も、手を開けば思い出すことができる。

『ゆびきりげんまん。うそついたらはりせんぼんのーます。ゆびきった』

 指切りが終わっても、お父さんはしばらく僕の小指を離さなかった。感触を味わい切るかのように、じっと佇んで、セミの鳴き声が止んでから、僕の手を離した。

 お父さんはそれ以上何も言わず、僕らに背を向けて歩き出していった。角を曲がって姿も見えなくなっても、僕はお父さんを追うことはなかった。

 男が肩を叩いてくる。僕は、その手を振り払わず、ただ、呆然と目の前の光景を眺めていた。後ろから女の人の声が聞こえる。

 僕は新しいお父さんに手を引かれて、淡いオレンジ色の光がこぼれる真新しい家へと、ゆっくりと自分の意志で足を動かした。

 こうして、僕のお父さんはお父さんではなくなった。

 そして前のお父さん、望月真とは、その後一度たりとも会うことはなかった。




***




 一時間のインタビューはつつがなく終わった。児野は話を引き出すのが意外と上手く、俺も気持ちよく話すことができた。

 最後に児野と握手をする。柔らかな手の感触が少し切なかった。

 児野と別れて店を出る。スマートフォンを見ると、時刻はまだ五時半過ぎだった。このまま帰って連載のアイデアを練っても良かったが、不思議とそんな気分ではなかった。気づくと家とは反対方向の列車に乗っている俺がいた。

 列車の中は通勤時みたいな混雑で、日曜の夕方にしては珍しい。

 ドアの付近に立っていた俺は、駅に着くと、降車客の邪魔にならないように、一旦列車を降りた。目の前の掲示板に一枚のポスターが貼られている。日付は今日を指していた。

 ぞろぞろとホームに降り立つ乗客を俺は背中で感じ、振り返ると列車の中はがらんとしていた。

 ほとんどの人がこの駅で降りて、ホームへの階段を上っている。

 ぎゅっと拳を握り締めて、最後尾に俺も続いた。

 人々の流れに沿っていくように歩くと、河川敷に出た。日は既に落ちて、空はおあつらえ向きに暗い。橋の近くには多くの屋台が出店していて、オレンジの電灯が瞬いていた。

 斜面にはレジャーシートを敷いて何人もの見物客が座り、空に広がる瞬間の芸術を堪能している。

 俺は堤防道路を歩いていた。人々は俺を何も言わず追い越していく。どこで見物しようか、辺りを見回しながら橋の方へ向かう。

 すると、腹の辺りに何かがぶつかったような感触があった。視線を落とすと、小学校に入って間もないであろう年頃の男の子が、困ったような目で俺を見上げていた。

 父親がすぐに駆け付けて、何度も俺に「すいません」と謝る。何も悪いことをしていないのに、子供が可哀想だ。

 俺は「大丈夫ですよ」と優しい口調を心掛けた。親子はホッとした様子を見せて、俺の元から去っていく。

 背後で「パパ、楽しみだね」と声がした。興奮を隠しきれない様子に、ふと蓋を開けたままの記憶があふれ出す。

 立ち止まりそうになったが、感傷に浸るなんて真似は、三七の男には似合わないだろう。

 俺は、顔を上げて歩き出そうとした。一歩目を踏み出そうとした瞬間、立ち止まる。

 佇んで空を見上げている一人の男。背が高いので、遠くからでもよく目立っている。

 戻ることはないと思っていた。いつの間にか諦めを覚えてしまっていた。

 でも、今僕たちはここにいる。

 ゆっくりと、しかし確かな足取りで、また歩き始める。花火の音に消される足音。

 隣に立っても、男は恍然と夜空を見上げたままだった。俺も一つ息を吐いて、見上げてみる。

 同じ空の下にいた。

 そんなありふれた言葉では括れない感情が胸を飛び出し、夜空に弾けた。



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