ロレンス

ロレンス

最近の記事

精神症者の僕にカウンセラーの適正はほぼ無い。 だからやるからには自己の人格をある程度否定せず矯正をかけるしかない。恐らくとても難しい。いや、確実に適正が無いのだから大変なのは解る。まず主軸で自我の脆さを強化するのは当たり前だし、認知の歪み、他者への労りを得る為の自己愛の欠乏症状も治めないといけない。自分の自立は焦らずしかし確実に進めなければならない。どの様なアプローチも対象の自立心無くしてはもたれかかる先が変わっただけになる。自立心を育てられるのは自分だけだ。 自己愛の欠如者

    • 憎しみと暇

      自己実現に正しく向かえない人はその歪んだきっさきを向ける方向を探す。 自分で自分を満たそうとしない、出来ない人間は他人に驕り嫉妬しその自己執着の根本にある攻撃性を他人に向ける。 自己実現に正しく向かえている人間にそんな暇はない。 というよりはそういった問題とは次元の違う世界で『自分の世界の幸せ』を探求しに社会のジャングルで模索し探索をし続けている。 『善悪のある社会性』に依存するのか愛するが故に変化を望む人間かでは全く異なる人間になる。 しっかりと自己の満たし方が解る人間がそ

      • 僕は人を鬱病にもさせた鬱病者

        神経症的非利己主義(自己犠牲の模範者)の皮を剥ぐと利己主義者になると言う。 これの事実は僕なりの見解で言うと利己主義者であるからこそ、自己犠牲の利便性を無意識又は意識的に理解しているからこそなり得ると感じている。 そのソースは僕が実際に体感しているからだ。 自己犠牲の利便性、とは。 究極に自分を差し出す事によっての 相手の同情、や、仕事の内訳的に自分の狡さを相手に押し付ける事が出来る(相手の良心への呵責、又は自分本位から出る他人からの承認欲求) 僕は時間を遡ると、自分よりも

        • 今日起きた事『無』について

          鬱病にかかった僕が1番苦しかったのは自己憎悪や自己否定から来る希死念慮。次いで辛かったのは無気力という名の『無』。 僕は自己愛性パーソナリティ障害持ちです。一人称が多いのは許してね。 端的に言います。僕は希死念慮(自死願望)に混ざってやってくる自責の念を分解してみるとそこにあったのは"自己憎悪"でした。何故か?それは自分が生きている状態を許せない自分がいたからです。※沢山理由は有るけれどココは割愛します。この心境の中にいる自分は心が『死』にロックされていて他の自分が楽になる方

          とてつもない暴論

          鬱病の人に辛辣な言葉をかけるとしたなら、他人ばかりをみない。という事。 もし貴方が内乱戦争の真ん中にいるとしよう。 常に銃弾が飛び交い、食べるものはほぼ無く毎日が死と隣合わせという環境下である。しかしてそれは周りも一緒の状況下である。彼らは僕らの目線からしたなら不幸である。だけれど僕らが、『彼ら』を『不幸』と認識できるのは様々な連絡手段、今ならインターネットやテレビがあり、その状況を見る事が出来るからだ。 だけれど彼らはどうだろうか?彼らには連絡手段がほぼ無いとしたなら、又は

          とてつもない暴論

          『他者との比較の人生』

          鳥が自由で良いと単純に思う人は 自分の存在に『ありのままの自分で良い』と思えていない人ではないのだろうか? 鳥には空を飛ぶ権利を進化の先に得たがそのプラスの反面に与えられたコストとも言うべきマイナスが見えていないのではないのだろうか? 語るとするならば、鳥は『空を飛ぶ権利』と同時に『空を飛ぶには腕(羽)を動かし続けなければならない』という義務を課せられた。 似たようなものだが僕らは空を飛ぶ自由さを得られなかったが『足で歩く』と『手を使い便利に生きれる』という進化を得たのでは

          『他者との比較の人生』

          誰しもに言える苦痛と人生の報酬

          ‪誰しもが強要や強制が出来ないし、与える事も出来ないから‬ ‪自分で痛みに突っ込んで行く許されない規律に突っ込んで行く程の心をもつしかないといえる。‬ ‪それは『勇気』とも言える。が方法やモラルや人間性の方向を間違えてしまう人もいる。‬ ‪望む者は腕や脚を荊に入れても花を取る。それは健常者も僕らも変わらない。‬

          誰しもに言える苦痛と人生の報酬