見出し画像

12/16 将来世代の利益先食い問題

広告会社にいると色々なメディアに触れることができる。例えば、雑誌も見本誌というのが届いたりするし、クライアントが出稿した新聞や雑誌は掲載紙(誌)というのが届く(クライアントにお届けするのだけど代理店用にも余分にくれるのです)

知ってはいたけど読んだことないという雑誌も沢山あるのだが、最近「中央公論(中央公論社)」を初めて読んだ。(そういえば、むかし父親が文藝春秋とか中央公論とか読んでたなぁと思いだした)

面白かった。

10月号にあった記事で「持続可能社会を引き継ぐために 政治哲学と経済学からのアプローチ」という宇野重規氏と小林慶一郎氏の対談。

「ライフボート・ジレンマ」という思考実験があります。

遭難した複数人が救命ボートに乗っていて、誰か一人が犠牲になればほかの全員は助かるけれど、誰も犠牲にならなければボート全体が沈んでしまう。
(中央公論10月号本文より引用)

グレタさんが注目されがちの環境問題についても、結局は現役世代が将来世代の利益を先食いしているだけです。「なるほど、そうか」と思ったのは以下の点です。

近代リベラリズムはすべてが自由であること、経済成長が永遠に続くことを前提に議論してきました。逆にいえば、経済成長なくしてリベラリズムは支えることができないのかもしれません。すると、経済成長に限界が見えてきた今、リベラリズムを保ち続けるためには、自己犠牲が必要になってくる。
(中央公論10月号本文より引用)

ブレグジットもトランプの台頭も全てはリベラリズムの否定に関連する訳ですが、もはや経済成長が見込めない世界においては保守主義というか、これまでのようにあらゆることがオープンで市場合理性に任せるというような話にはならなくなってきます。インターネットが全てをオープンにしていくのと逆行していく訳ですが、この先どうなっていくのかよく分からない。

ここで言及された「自己犠牲」というのは一体だれがその犠牲を払うのだろうか?

よく、官僚や政治家の質が昔より劣化した、と言われますが、実は質的にはそれほど変化しておらず、経済成長による問題の先送りができなくなったために、機能しなくなった。(中央公論10月号本文より引用)

経済成長が全てを覆い隠してくれた、というのは非常に分かりやすいのだけど、日々我々が目にする言説やコンテンツは全て過去の高度経済成長期を懐かしむようなもの(「always三丁目の夕日」「いだてん」)ばかりだし、あくまで問題から目を逸らし続けたいというのが今の世の中なんだと思う。

逃げ切れる世代というのは確実に存在するし、グレタさんとか香港の若者のデモとか、そういうのを批判している人って意外と逃げ切り世代とかなのかな?とか思ったりして。

ファクトがある訳ではないからあれなんだけど、利益の先食いもするし、逃げ切ろうとするし、けど若者がやることには文句つけるとか、なんかセコイよねって思うんだけど。


もしサポート頂けることがあれば、それは金額の多寡というより、そのお気持ちが私に多大なる自信を与えてくれます。それに感謝致します。