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3/22 我々にオールマイトはいない

『私が来た』

この短い言葉にどれだけ多くの感情が詰め込まれているでしょうか。オールマイトはNo.1ヒーロー。緑谷出久(デク)や爆豪勝己(かっちゃん)の憧れであるだけでなく平和の象徴として多くの人々の心の支えでした。

なぜ今オールマイト(僕のヒーローアカデミア)を取り上げたのかと言うと「100日後に死ぬワニ」の周辺で起きたことと「僕のヒーローアカデミア」とが(私の中で)リンクしたため、その想いを書き残しておこうと思ったからです。昨日も書いたばかりなのに恐縮です。。

週刊少年ジャンプで連載中の「僕のヒーローアカデミア」をご存知ない方のために、ざっくりとあらすじをご説明します。

主人公の緑谷出久は人口の約8割が特殊な個性を持ち、その能力を活かしてヒーロー活動を行う世界において何の能力も持たない「無個性」として生まれました。しかし、No.1ヒーロー・オールマイトとの出会いによって「ワン・フォー・オール」という個性を継承しました。(※宜しければこちらの記事もご一読頂けると有難いです。)

緑谷は幼馴染の爆豪から度々以下のようにバカにされていました。

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モブ(モブキャラ)とは?
モブキャラクターとは、漫画、アニメ、映画、コンピュータゲームなどに登場する、個々の名前が明かされない群衆のこと。(wikipediaより引用)

爆豪は緑谷のことをモブと呼んでいた訳ですが、その後は継承した個性「ワン・フォー・オール」の力と彼の圧倒的な努力によって成長し、もはやモブとは呼べない正真正銘の主人公になっていきます。緑谷がモブを卒業する大きなキッカケになったのがオールマイトの存在、個性「ワン・フォー・オール」を継承したことでした。

我々は緑谷ではないし、我々にはオールマイトもいない

ここで我々が住む世界に目を移してみたいと思います。テレビをつければ俳優の皆さん、アイドル、お笑い芸人、スポーツ選手などキラキラした人達が楽しそうな笑顔を我々に見せています。インターネットの世界でも、インフルエンサーと呼ばれる方々が少なくない人達(フォロワー)を動かせるだけの影響力を持ってキラキラしています。

これは世の中の真理だと思いますが、私を含め多くの人達は彼らを遠目から見るだけの存在です。言わばモブなのです。なかなか受け容れ難いことですが事実です。昨日たまたまタイムラインに流れてきたツイートで以下のようなものがありましたので引用させて頂きます。

ワニの物語が完結してその後のビジネスがオープンになってから、多くの人が「ガッカリだ」「一気に冷めた」という反応を示しました。それを「メディアに乗せられていた」「操られていた」という風に書いていらっしゃったことに少し納得したのが引用した理由です。

裏側で大きな絵を描いていた人がいたのに、それに気づかずにまんまと踊らされていた。上手く乗せられてしまった。あのワニに感じた感動は紛れもないこの私自身が感じたオリジナルの心の動きだった。それなのに誰かが造ったものだと?騙された。返してくれ俺の感動を。

正直なところ、そういった気持ちも分からなくもないですが、若干の違和感も感じます。私自身、どうしてここまで激情するのだろう?と考え続けて、それはこういうことなんだと一旦結論に至りました。

モブであることを受け容れられない

少なくない人が「このワニは俺が育てた」それは言い過ぎかもですが、「少なくともこのワニが人気になるのに一定の貢献をした」と思っていたことと想像します。Twitter上で人知れず展開されていたコンテンツを「いいね」と「リツイート」というネットの力を駆使して大きくした(と思っていた)のに、実は「大きな絵を描いた人間(発案側)」がいて、自分は単なる「コンテンツ消費者の一人」だったことを突きつけられた。私が感じていたのは「造られた好き(偽りの好き)」だったことへの幻滅、悔しさ。

インターネットが我々にもたらしてくれたのは発信力です。これまでは世の中に対して意見をするなんてことは出来なかったけれど、今では少なくない影響力とともに私は存在している。評論家の宇野常寛さんの言葉を借りれば”世界に素手で触れている”感覚をやっと手に入れた。だから俺は(私は)もはや群衆の一人ではなく、顔と名前のある個人としてここに立っている。その俺が(私が)感じたこの感動が意図的に造られたものであるはずがない。もしそうであるなら、そんなことをする輩はとんでもない奴だ!なに?電通だと?またあいつらやりやがったのか、けしからん。叩き潰せ。

あくまで私の想像なので異論反論あればお願いします。

ねぇ、我々にはオールマイトはいないんだよ。「ワン・フォー・オール」なんて素晴らしい個性も継承していない。我々はモブキャラなんだ。それを受け容れることから始めないともう前に進めないところまで来ているんだ。いいじゃないかモブでも。

放送局のプロデューサーが作ったテレビドラマなら楽しめるのに、著名な監督が製作した映画なら泣けるのに、インターネット上のコンテンツだけは素人が無償で作っていると思ってしまうのはどうしてだろう?インターネットがメインストリームに対抗するカウンターカルチャー(サブカルチャー)だった時代はとうに終わっている。いつまでも、その意識にすがっていると既に周回遅れにされている世界にもっと遅れをとってしまうかも知れない。

我々日本人の(日本人だけじゃないかもだけど)インターネットに対する向き合いは決して生産的・合理的であるとは言えない。コンテンツの楽しみ方が下手なのかも知れない。例えばそれは、自分はそうじゃないのに相手には清廉潔白を求めてしまうような態度を取っていることにも関係するかもしれない。ちょっと立ち止まって一緒に考えましょう。これからの日本のコンテンツを。

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以下、蛇足です。

いきものがかりの水野さんが「純粋だということを先ず証明しないと伝わらない世の中になったんだなということが悔しかった。」と語るように、無名のクリエイターが無償でやっていることなら自然に受け容れられるのに、ビジネスになった途端に(特に広告代理店が絡んでいると)拒否反応を示してしまう。これだけサブスクサービスが浸透し漸くネット上のコンテンツでもマネタイズが出来そうかという状況でさえ、やはりインターネット常にあるコンテンツは本来無償であるべきという思想が見え隠れしてしまっているように思う。電通の人間が「電通のことは嫌いになっても、ワニのことは嫌いにならないで」と言えば収まるのかな。そんな訳ないか。。。すいません。

過去に書いた記事と内容被ってました。。。



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