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8/28 noteを心の健康のバロメーターに

noteを書き始めてから常に私のアンテナはネタを探すようになった。

・今日は何を書こうか?
・このテーマは重たいから準備しないとな。複数回に分けるか。
・今日考えてたこと、この間のアレとつなげられるな。

てな感じでね。

書きたいことについて考えている時というのは非常にポジティブで、目線は未来に向かっているような気がする。たとえ過去を振り返る内容であっても、「じゃあこれからどうしていこうか?」と未来志向でいられる。

書くという行為について

私はプロの書き手ではない(それは書くことの対価としてお金を頂いていないという意味で)。しかしながら、ライター・エッセイスト・編集者、これだけSNSが発達しインターネットによって誰もが好き勝手に物を言える時代においては、もはやそれらは名乗ったもの勝ちだと思うのです。それでもスポーツにおいてそうであるように、プロとアマチュアには大きな壁がある。それは真剣さと訓練の違いだろうか(それが結果としてクオリティの差になってくる)

なんとなく「書くという行為」でgoogle検索したところ同じテーマでnoteを書いていらっしゃる方がいたので恐れながら引用させて頂きました。

一節をさらに引用させて頂くと、

だから私はとてもつらいとき、文字を書く。書くという行為に集中している時、すべてを忘れられる。

文章を書くということは幸せな行為なのだと思う。

毎日を生きているだけで心は消耗する。楽しいことでも、ツラいことでも、どんなことでも心は消耗するのだ。では消耗した心をどう回復させるのか?人とおしゃべりをする人もいるだろうし、お酒を飲む人、身体を動かす人、人それぞれだ。考えたことを文章としてアウトプットすることで心身の安定を取り戻す人もいる、私がそうだ。

誰かに読んでもらえるのならば、それが多くの人に届くのであれば、それは尚嬉しいだろうが、少なくとも今は書いているだけで幸せなのである。というよりも、文章を書けるだけの精神状態を保てているということが幸せ、とも言えるかもしれない。

仕事や日常の些細なことに忙殺される時、私は何にも考えられなくなる。目の前のことに対応することにしか意識が向かないし、内省することも、未来について考えることもできなくなる。

それがどれだけ苦しいかご想像がつくだろうか?

「なんだそんなこと」と仰る人もいるだろうが、少なくとも私には耐えがたいことなのだ。生活の中に自分の意思や意識が介在しない状態が苦しい人、という人が少なからずいる。

だからnoteは心のバロメーター

だから、文章を書き続けられる状態というのは、ちゃんと毎日アタマを使って物事を考えられているし、内省できるだけの時間が確保できている、そしてそれを人に見せられるくらい整理してまとめられる能力を保てている、そういう人間的な状態を保てているバロメーターなのです。

文章の上手い下手とか、テーマ選びがどうとか、そんなことは些末で、人に読んでもらえるかどうかなんて正直運や巡り合わせだったりで、読んでもらおうと思って書くなら、広告費を払ってFacebookやTwitterやYouTubeに出したらいいんだよ。個人でも広告が出せる時代なんだし。

継続≠人に読まれる

いま108日間noteの更新を継続できている。しかし、継続したからといって多くの人に読まれる訳ではない。投下した時間や努力と人気(他人からの賞賛)は絶対に比例しない。そこをモチベーションにするのなら、有名媒体に実名で記事を書いたり、何度もいうが広告費を支払って自分の記事を拡散したら良いんだよ。

人によって書くことのモチベーションが違うから、何が正しいとか言うつもりは無いし、他人から押し付けられるつもりも無いけど、書くということで救われる人がいるというのは意外と知られていないのかもしれない。

また今日もこうして文章を書くことができて良かった。

私は今日も幸せです。

こちらも参考に。




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