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ストラスブールのベアショルダー       40年前の自分へ(3)

 ようやくストラスブールの話になります。

 40年まえ、私はドイツのフランクフルトにいました。二十歳前半。自分がちょっと面倒な脳みその持ち主だと気づいていました。一人が好きだし、何かにのめり込みたいのに、常に引き戻す自分がいて、何をしていてもそれが正しいのか前後左右不覚になって大丈夫なのか、悩んでは自分をひきもどし当たり障りのない、安全で不安のないものばかり選んでいました。

 新卒の就職先をドイツに決めたのは、そんな自分を変えたくての決心でした。思いつきに近い応募にも関わらず就職試験はうまくすすみ、気がつけば遠くドイツの地におりたっていました。いま考えると、人生って案外そんなふうに他人任せですすむのかもしれません。決心して応募し、面接を受け、多少の訓練などもうけていったのにも関わらず、私はどこか自分の一生懸命とは違う気がしていたのです。

 仕事は日系の免税店での販売業でした。担当商品がきめられて買付けから品出し、棚卸しまで包括的に関わらせてもらえる今の時代では考えられないやりがいのある仕事でした。しかも憧れていた外国暮らしです。PCも普及していなかった時代ですから、来期の発注数を決めるため台帳をひとつひとつ加算して求めました。近所のブランド店のウインドウを見てはディスプレイの勉強をしたり、やることは山ほどあってそれがどれも楽しくて。マニュアルの時代はこれより5年ほどあとのことで、こうすべきという決まり事は何もなく、自分の能力と興味次第で仕事の幅も量もどんどん増えました。面白い時代だったんですね。

 でも半年ほどが過ぎ、仕事にだんだんなれてきたころから、生来の考えすぎの癖がでて来るようになりました。休日アンネ・フランクが一時期すんでいたレーマー広場を一人散策しているとき、休業中の骨董店の店先の自分より年寄りのランプをみて、このランプと同じ年になるとき自分は何をしているのか、ここにいていいのか、もっと別にすべきことがあるのじゃないか、などと取り留めない思考の迷路に迷い込んでいました。

 あれから数十年たって言えることは、自分を変えることはできないということです。変わりたくてドイツへ行ったけれど、私の素養は変わりません。母も同じような癖をもっていましたが、行動的なときとそうでない時の振れ幅が大きかった。そして行動する時は尋常ではありませんでした。それが私の場合はドイツ行きだったのです。おなじように行動とアンダーグラウンドをこの人生では数度繰り返すことになるのですが、いまはそれが当たり前と思えるようになりました。そしてそのどちらのフェーズでも、考えすぎは続くのです。さらに忘れることもできないので、どちらのいいこともつらいことも肌感として残っています。

 このことを、もっと早い時期にわかっていたら、と今は思います。ですから、『セルフモディフィケーション』にもかきましたが、いま自分に悩んでいる人は、どうぞ自分でコントロールできない自分にたいして耐性をつくって欲しいと思います。そして、コントロールできない時の自分を優しく観察してほしいと思います。

 なぜ、こんな文章書いているか。

 フランクフルトの続きになります。 ある仕事の休み日、通勤でつかっていたユーバーンの終点に行きたくなってクロンベルグへ行ったことがありました。ドイツは森にかこまれた都市が街道でつながっています。クロンベルグもそのひとつで、歴史のある城の町です。

 傾斜のある住宅地をのぼってゆくと山頂付近がポッカリひらけて、お城にでました。平日のこと、だれもおらず、城壁をくぐるとアスファルトから木々に囲まれた森にかわりました。お城へむかって、崩れかけた壁を背にのぼっていったとき、少し広い草地にでました。そこにたつと、なぜか私にだけ光があたるのです。小高く誰もいない丘で、不思議と涙がでました。どうしてかわからないけれど、とても幸せで少し悲しい感じがしました。また不思議なことはかさなるもので、視線を感じて視線をおろすと、さっきまで気づかなかったのに森の手前に鹿がたって、こちらを見ています。どれくらいだったでしょう。しばらくその姿をみていました。そして予感しました。このことはいつか自分を支えるだろうと。

 そして今、これを書いているのですから、現実になりました。

 ストラスブールには、先輩に誘われてバスツアーでいきました。

 

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