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妻のおかげ

 ただ生きているだけでいいと考えるようになって、今まで思いもしなかった感覚がうまれた。今から実施しようとする活動が色あせて見える。たとえば、出勤前に今日の仕事は何の役に立つのだろうと自問すると、頭の中がグルグルまわって先に進まなくなってしまう。仕事をしたり、テレビを見たり、読書したり、動画を作ったり、旅行に行く気力が湧いてこない。
 かつて仕事は生活の糧を得るためにあった。けれど、いつもそれだけでは満足できなかった。出世欲などなかったけれど、家族のために、生徒のために、学校のために、社会のために少しは役立っているに違いないとの思いがあった。また、家族が、同僚が、他人が、社会が、自分を認めてくれているに違いない。社会のためになって少しは認められているに違いない。あまりに微かな感情で意識はしていなかったけれども、そんな思いが確かにあった。生きる意欲は活動する意志からうまれ、喜びは意欲と活動が成就することによってうまれる。悲しみは意欲と意志が打ち砕かれたときにうまれる。人は自らの行動に価値をみつけたい、認められたいと願う生き物であることが他の動物との違いであり、人間だけが文化を築き、人間社会だけが科学技術を発展させた。
 体力も頭脳も衰え、若いころのような喜びや悲しみを感じなくなった。今のところ、たとえ病になっても夫婦で助け合える。しかし、近い将来確実に「ただ生きるだけの毎日」になる。その予行演習のような日々を夏休みに送って歳をとる意味を実感した。
 病を患えば生きているだけで幸せを感じる。そして、成し遂げたいものが思い浮かばなくなる。何かの役に立ったり人に認められたい意欲が薄れても生きていける。歳をとっても生きながらえる意志だけは残る。決して死にたいとは思わない自分が想像できる。

「何、ボーとしているの?」
「仕事に行く時間ですよ。」
夏休みの痛風発作は2時間の散歩でしっかり汗をかいた翌日に始まった。それ以来、怖くて汗の出るような真似ができず、学校まで妻に車で送ってもらっている。
「いくわよ。」
「はい。」
自分で背中を押して生きてきたが、もう押すことはやめてしまった。それでも、ボーとしていると元気な妻が後ろから押してくれる。
「そうだ。」
私がボーとして生きて妻が背中を押せば、お互いがお互いを助け合うことになる。
 妻が元気なうちは安心して暮らせる。私は背中を押してもらいながら生き長らえよう。もうしばらくは、お互いがお互いのために支えあう関係を続けよう。とにかく、妻には長生きしてもらおう。

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