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#生きづらさを語ろう

僕にとっての生きづらさを考えてみた。

自己紹介や幾つかの記事にも書いてあるように、うちの親は全く親として機能していない。

そのせいで家族全体として、全く成立しないない状況である。家族とは名前ばかりで、住む場所と冷蔵庫を共有しているくらいのことだ。

こういう環境に生まれ、育ったせいか、僕は現在のところパニック障害や不眠症などを抱えている。詳しいことは他の記事を読んでいただければと思う。

これらの治療として抗鬱剤や睡眠薬などを処方してもらっている。ストレスが原因で激しいめまいや腹痛などにも襲われるので、それらの薬も併用している。

■「生きづらさ」という壁

さて、こう書いたのは決して悲劇のヒロインを気取りたいからではない。

ここで本題としたいのは、このような人間が社会に出た時にぶつかる「生きづらさ」という壁の方である。

家族という言葉を出すと、そこにイメージされるのは、団欒であったり、幸福であったりするのだろう。

だが、僕が生きてきた中で現実としてあった家族は、ホームドラマで見るような、多幸感溢れる家族ではなかった。

そんな環境で育ったために、学校に行けば周りとの違いを感じるようになる。

彼らはみんな親に守られていたが、僕は誰にも守られることはなかった。全ては自分で行動しなければならなかった。

クラスメイトにいじめられようが、提出物を親が書いてくれず先生にひどく怒られようが、僕は全て自分で自分を処理するしかなかった。

僕は何もかも自分流でやるために、数え切れないほどの失敗をした。

特にコミュニケーションや運動など、苦手なことはとことん苦手であり、それを教えてくれる人もいないから、今なお得意にはなっていない。

周りからは変人と呼ばれ、汚物のように扱われた。

家に帰ったって慰めてくれる人もいない。

ひとりで布団をかぶり泣いていると、酒に酔った父親が帰ってきて布団を剥がし、僕を笑った。

次の日、学校に行けば昨日と同じようないじめが待っていた。

いじめはそれを体験したものにしかわからない。あれは繰り返される、終わりのないものなのだ。

僕は殴られようが蹴られようが耐えるより方法がなかった。

僕の居場所は家の中にも社会の中にもないのだと知った。

***

やがて年齢を重ね、自分と周りとの違いをはっきりと認識するようになり、僕をいじめていた奴らが言っていたことは合っていることが分かった。

僕は明らかにおかしな人間なのだ。

満員電車など、人が密集しているような状況で、汗が吹き出し、脈拍が速くなり、呼吸が浅くなり、吐き気を催し、意識が飛びそうになる。

そのせいで学校に着く頃には、ヘトヘトに疲れ切ってしまい、全く勉強が手につかなくなったこともある。

それがパニック障害という名前であることを知ったのは、発作が起こるようになって、かなり経った後だった。

僕は自分のおかしさに気付くまで、自分ひとりで「生きづらさ」に耐えなければならなかった。

発作が起こっても必死に隠す毎日だった。以前、発作のことを周りに言ってみたのだが、笑い話くらいにしか受け止められなかった。

彼らは理解していなかったのだ。彼らはみんな、自分たちと同じように同じことが出来るだろうと思い込んでいた。

だが、中には周りが出来ることが、同じように出来ない人もいる。そのせいで周りからわ笑われ、バカにされ、指を差され、侮辱された。

僕は周りとの違いや生活の差に「生きづらさ」を感じた。

しかし、彼らは健常社会での「生きづらさ」を知らなかったのだ。

***

僕は自分がHSPであると思っている。

思っている、と書いたのはこれが医学的な病名として認められていないらしいためだ。

以前、僕が自分自身についてHSPだと言ったら、noteをやっている医者からHSPは言い訳であるというようなことを言われた。

HSPとかエンパスとか言えちゃうひとが増えてる、というか自覚して楽になろうという傾向が出てるから(そしてそれは良いことと思う)敢えていうけど、だからこそコミュニケーションを面倒くさがらず取っていかねばならないのでは、と思うのです

確かにHSPは、世界的に病気として認められ、医者によって診断された病名ではないかもしれない。

しかし、僕たちの個性は僕たちが決めるのであって、僕たちの生きづらさは僕たちにしか経験できないものであって、医者が僕たちの個性や生きづらさを決めるのではない。

自分が生きづらさを感じたのであれば、医者が何と言おうが、それは事実ではないだろうか。

それをどう表すかは、僕たちの自由なのではないだろうか。

医者が行う医療行為とは、本人の意思があってこそのものであるはずなのに、最初からそれを言い訳と決めつけられてしまった。

HSPであることの表面だけを見てのことだろうか。

確かに医学としては正確でないかもしれないが、みんなが似たような経験をしているのであれば、それは否定しようもない。

僕たちには僕たちにしかわからない生きづらさがある。

そして、医療従事者にこう言われたこともまた生きづらさを感じた経験のひとつだ。

彼らのような人間にも「生きづらさ」を理解してもらわなければならない。

頭でっかちになり、医学の示す範囲のみが全てであると思い込んでいる人間に、その外側にいる僕たちの存在を教えてあげる必要がある。

医学が僕たちを決めるのではなく、僕たちで僕たちを決めるのだ。

***

ここで僕は自分たちを障害という言葉で安易に表したくない。

自分たちを病気だと決めつけたくない。

障害になっているのは、僕たちではなく、むしろそれを理解できない健常社会の方だからだ。それを異常だと決めつけた社会の方だからだ。

だが、健常社会が僕たちをそう呼ぶので、仕方なく使うことを許してほしい。

この活動が広まれば、きっといつか僕たちの名前から障害という言葉が除かれることになるだろう。

僕たちが自らの生きづらさを克服するためには、彼らのような人間にも生きづらさについての理解してもらわなければならない。

■生きづらさを経験した者への賞賛

まずは、生きづらさを抱えながらよく頑張ってきたと、僕たちは僕たちに賞賛を送りたい。

誰にも生きづらさを告白できず、どこに怒りをぶつけることもできず、ただただそれを腹の中に抱えて生きてきた。

すでに息が切れるほど頑張っているのに「頑張ってね」などと、安っぽい励ましをもらっても、怒ることなくここまでやってきた。

理解してもいないくせに、全てを理解したかのような顔をして近づいてくる者にも丁寧に対応してきた。

集団に所属させられるたびに、普通であるかのように振る舞い、不器用ながらも周りに合わせてきた。

誤解を受けつつ、時には笑顔を返し、努力が足りないと怒られれば頭を下げ、それでいて泣くときは誰にも涙を見せずに多くの我慢を経験した。

互いを褒めてあげられるだけのことは十分にやってきた。

そのことを分かり合えるのは、僕たちだけだろう。

だからまずは、僕たちは僕たちに賞賛を送りたい。

***

中にはその生きづらさに耐えきれず、自ら命を絶った者たちもいる。僕たちはそういう人たちも懸命に生きたことを認めてあげよう。

自ら命を絶つのは言葉では表しようもない激しい決意である。

世間では自ら命を絶ってはいけないと決めつけて、死ぬ自由すらも奪うなか、自らその選択肢を選ぶ決意をしたことには深い葛藤があっただろう。

また、人によっては自らその選択肢を選ばざるを得ない状況にまでなった人もいる。

そういう人たちも含めて、僕たちは生きづらさを感じてきたのだ。

今まで耐え忍んできたことについて、まずは互いを褒めてあげられるようになれればいいなと僕は考えている。

生きづらさを一度でも経験し、どんな形であれ抗おうとしたのであれば、それはすでに褒められるべきものである。

■それぞれが持つ「生きづらさ」

生きづらさとは実際的なものである。

症状として一般化されたものではない。

それぞれには、それぞれの生活があるはずで、そこにはそれぞれの生きづらさがあるのだ。

「この障害を持っているから、これが苦手なんでしょう」という決めつけは愚かでしかない。

あくまでも、それぞれに不得意があり、それぞれに苦手があるのであって、それらはみんなに必ずしも共通するものではないのだ。

同じ障害を持っていると診断された人たちでも、人によって経験するものは様々なはずだ。

「パニック障害だからこう」とか「ADHDだからこう」などと生きづらさをひとつに束ねて、生きづらさの程度を決めつけることはあってはならない。

生きづらさとは、一括りにされた名称が表す一般的な傾向ではなく、それぞれが経験する、より実際的なものなのだ。

生きづらさを誤解し、同じ障害だから同じ生きづらさを経験していると思い込むのは、間違いである。

その点を間違われると、ここで語ることについて、あの障害とこの障害を一緒にするな、と言われるだろう。

誤解しないで欲しいのだが、僕は決してそれぞれの生きづらさを一緒くたにするつもりはない。

それぞれが、それぞれの生きづらさを持っているのだ。それぞれが、それぞれの迫害を経験しているのだ。

それらに、どれひとつとして同じものはない。

どれひとつとして同じ経験などないのだ。

***

あるのはあくまでも一般的な傾向のみであり、細かい出来事はそれぞれが経験している個別のものである。

だからこそ、それぞれが、それぞれの言葉で、自分自身と自分が体験してきた生きづらさを語らなければならない。

春になって咲く花のそれぞれが美しいように、それぞれの生き方には色があり、花があり、美しさが本来的に備わっているはずなのだ。

しかし、その美しさが何かによって妨げられたのだとすれば、その訳を個々の花について考えなければならない。

そこには語られるべき理由があるのだ。

僕もそうだし、みんなもきっと、生きづらさの大小や期間の長さ、程度の酷さなどを問わない。

誰かの生きづらさと、別の誰かの生きづらさを比較して、どちらの方が酷いとか、どちらの方が悪いなど競うような野蛮なことはしない。

悲劇のヒロインを気取って、誰かの救いを請うようなことはやめよう。僕たちは堂々と、自分を主張する権利があるひとりの人間なのだ。

野蛮な争いや救いを請うようなことは、健常社会がやることであって、僕たちの中には不公平も不平等もないのだ。

それぞれが生きづらさを感じたのであれば、それは変えようのない真実である。

それぞれが、それぞれについて主張しても良いはずのものなのだ。

■生きづらさを語るとき

僕たちは今こそ自分たちの「生きづらさ」を語らなければならない。

言いたいことや言うべきことを、誰かが言ってくれると思っているのであれば、それは間違いだ。

主張するべきことがあるのなら、それは僕たちにしかできない仕事である。

誰かの作った作品に共感するのもいいが、共感できる自分がいるのであれば、それを書くことこそが、誰かのためになるのではないだろうか。

世間は僕たちの「生きづらさ」を優しい励ましや甘い応援によって埋め合わせ、健常者による社会に適合させるように要請してきた。

しかし、健常者の語る励ましや応援など、彼らが僕たちに行ってきた誤解と迫害の歴史からすれば、まるで説得力を帯びていない。

狭い部屋に閉じ込め、異常だからと理由で暴力を振るい、家畜を扱うように汚い言葉で罵ってきた。

だが、僕たちには健常社会にそのような言われ方をされる筋合いはないのだ。

こんな世の中だからこそ、僕たちには自分たちなりの生き方があるのだと、はっきりと主張しなければならない。

彼らがやるような「一般社会との適合」「普通であることの強要」を受けてまで、生きなければならない世の中に、優しさなど微塵もない。

彼らはそれを優しさだというが、それは見かけ上のものであって、健常であることから生まれた傲慢でしかないのだ。

僕たちが僕たちなりの生き方を主張し、それを実行することは、僕たちにとって当然の人権であり、それを行使するのは当たり前のことなのだ。

誰かに合わせて疲弊し、心を擦り減らして生きることなど、あってはならない。本来あるはずもないことなのだ。

それが現実として起こっているのは、彼らのような白い目を僕たちに向ける人間が世界の多数だからだ。

優しいあなたに健常社会が優しくしてくれることなどない。

だからこそ僕たちは、僕たちなりの生き方があるのだと主張しなければならない。

みんなで声を合わせて、自分たちの生きづらさについて語らなければ、今までの暴力と迫害の歴史を繰り返すだけだ。

世間の人間たちは、暴力と迫害という言葉を大袈裟に読み取るようだが、僕たちはこれらの言葉が決して大袈裟ではないことを知っているはずだ。

僕たちは今こそ自分たちの「生きづらさ」を語らなければならないのだ。

■生きづらさを語るには

以前の医学では会話や対話が中心で行われていた。これは統合失調症患者の場合、書くのが苦手で話すのはある程度できることが分かっていたからだ。

なので、自閉症患者にも対話形式をとっていた。

ところが、自閉症は統合失調症と逆に話すことは困難だが、書くことはできることが判明した。

これによって、自閉症の理解を得るためには自伝が有効であるとわかった。

数多くの自閉症患者の自伝が記され、それによって医学の自閉症に対する理解不足が明らかとなったと同時に自閉症への理解が進んだ。

***

このような自閉症患者の例からもわかるように、僕たちが僕たち自身について、自分たちの得意な形式で語ることができる。

また、そうやって語らなければ、彼らはまともに僕たちのことを理解できないのだ。

それなのに彼らはあたかも理解したかのような顔をして、僕たちに接してくるのである。

僕たちは今こそ自分たちの「生きづらさ」を語らなければならないと言ったのは、そういう歴史的事実があったからだ。

彼らに気付かせてやるためには、どうしてもこちらから語りかける必要があるのだ。

彼らは僕たちの主張をワガママだと言うだろう、努力が足りないと言うだろう、甘えだと言うだろう。

しかし良く考えてみれば、それは彼らの側が生んだワガママであり、努力不足であり、甘えなのだ。

彼らには言って聞かせ、彼らを信頼し、彼らの振る舞いに感謝してやらねば、彼らは僕たちのこと理解できないし、理解しようともしないのだ。

理解できない人たちにこそ、僕たちは優しくし、励ましを与え、理解を促すように、自分たちの存在を説明してやらねばならない。

***

僕たちが感じている「周りと違う」という感覚は、僕たちだけに備わった特別な能力だと言えるだろう。

周りの人間には感じることの出来ない世界を感じ取っているのである。

しかし、それが健常社会によって変人扱いされてしまうために、僕たちは自信を失い、自分に失望するのである。

だが、このことは本来は逆であるべきことだ。

僕たちは特別なのだ。周りの人間に感じ取ることの出来ない世界を感じ、周りの人間は気付かないことに気付くことができる。

これは才能であり個性なのだ。決して間違いであったり、おかしなことなどではない。むしろ誰よりも特別なのだ。

だから僕たちは、この才能を認めようとしない社会に対して、言い聞かせなければならない。

自分たちの個性を逆手にとって「変わっている」というレッテルを貼る人間たちに、多くを気付けない人間であることを教えてやらなければならない。

どうして理解できないのかと問わなければならない。

***

はっきり言うと、僕はみんなに安易な励ましの言葉など送りたくない。

みんなが生きづらさを克服し、ひとりの人間として独立した存在であることは、当然のように認められなければならないからだ。

僕たちが頑張ったり、努力して周りに合わせ、普通であるかのように振る舞うことなど、本来は必要ないはずのものだからだ。

彼らが理解しようとしないのだ。

彼らの方が理解できないのだ。

だから僕たちは語って聞かせてやるのだ。異常だと呼ばれてきた歴史こそ異常なのであると教えてやるのだ。

そうでもしなければ、いつまでも彼らの頭の中は、狂った世界のままでいることだろう。

***

ただし、僕たちは彼らに伝えるのではない。

生きづらさは語らなければ理解されない。

ただその情報を「伝える」のではなく、今まで過ごしてきた中で受けてきた屈辱や恥など、ありとあらゆることをエピソードとして「語らなければ」ならないのだ。

想像力の乏しい彼らは、何が問題だったかを列挙したところで、分かったつもりにはなっても、真の理解までには及ばない。

だから僕たちが経験してきた苦い過去を追体験させるくらいに生々しく、同じ鼓動を感じるように、エピソードとして語るのだ。

分かったようにさせるのではなく、本当の共存を目的とした理解が得られなければ、また同じことが繰り返されるだけだ。

***

きっと、僕たちが健常社会を打ち壊し、誰にとっても生きやすい世界を作るのには、果てし無い時間がかかることだろう。

だが、今すぐに僕たちが行動を起こさなければ、この生きづらさをまた他の誰かが体験することになる。

仮に誰かが自らの命を犠牲にして生きづらさを表現したとしても、その生きづらさは誰かの元へと移っていくだけで、生きづらさの総量は変わらない。

生きづらさそのものを、もっと根本から減らすようなことをしなければ、いつまでも誰かが健常社会の犠牲になるだけなのだ。

だからこそ僕たちは生きづらさを語る必要がある。

彼らの友人となって、彼らの親となって、彼らの兄弟となって、彼らに語りかけてやることで、生きづらさとは誰しもが感じ得る、当たり前のことなのだと理解させてやるのだ。

そうやってみんなで生きづらさを理解することで、どんな人間も受容される社会、広い器としての社会が確立するのだ。

■最後に

ここまで激しい言葉や過剰な表現を使って主張を述べてきた。気を悪くしてしまった方もいるだろう。

しかし、僕たちは語るべきことを語れなかったのだ。

僕たちは今まで口を塞がれ、筆を奪い取られ、語ることを禁じられていたのだ。

たとえどこかで語ることを許されたとしても、彼らは耳を塞ぎ、目を瞑り、まるで僕たちが存在しないかのように扱ってきた。

僕たちが真剣に話しても、それは良くできた笑い話だと酒のつまみにされた。

だが、これは真実なのだ。

確かに僕たちが感じてきたものなのだ。

そして僕たちが感じてきた生きづらさは、きっと他の誰かも感じているであろう生きづらさでもあるはずだ。

だから僕たちは今まで受けてきた屈辱を明確にし、声を合わせて表明することで、この健常社会がいかに異常であるかを知らせなければならない。

それは僕たちに与えられた、ある種の使命でもあり、義務でもあるのだ。

健常社会の悪しき風習を白日の元に晒し、生きづらさから自分を守るためにまとっていた忌まわしき甲冑を脱ぐ時がきたのだ。

僕たちはもう自分自身と戦わなくて良い。

僕たちが相手にするべきは健常社会であって、そこにこそ生きづらさの矛先を向ける必要のある敵がいるのだ。

現代においてはあらゆる方法で「生きづらさ」を語ることができるだろう。

そして語るべき「生きづらさ」が僕たちの中にはまだまだ眠っているはずだ。

それらを解放し、明らかにしなければ、いつまでも生きづらさは社会から消えてなくならない。

今こそ僕たちは「生きづらさ」を語らなければならないのだ。

しかるべき筆圧でもって語られた「生きづらさ」はきっと多くの共感を得ることだろう。

そうすることで僕たちは窮屈な檻の中で、鎖に繋がれながら生活しなくても良いような社会が実現するはずだ。

もし僕と僕たちの考えに賛同してもらえるなら是非この運動に参加してほしい。noteやTwitterで引用し拡散してもらえれば、多くの仲間が集まることだろう。

力を合わせれば僕たちにだって出来ないことはないのだと示し、僕たちにとっての自由を獲得するために、今この時から立ち上がるのである。

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コメント (20)
初めまして😌💕
この度はスキ💓ありがとうございました🙇❤


たくさんたくさん、
乗り越えて、こられたのですね😭💝💝
私も、機能不全家族で育ち、たくさん辛かったから、たくさん頑張ってきて、

今の私があります😆💓💓
私はヒーラーです。
お辛い方を癒すお仕事をさせてもらっています😌💕
そして、少しでもお辛い方が楽になるように、
noteやインスタで文章を綴っています。
もしかしたら、分かってくださるものも多いかも?しれません😊❤

私もHSPです。
でも、だから霊感があるし、特殊能力があります✨✨
HSPは個性ですから💕💕
私は今の自分を愛しています❤❤

過去の自分は「今の自分」とは違いますから、
「今の自分」をとことん好きになって、愛せるように、
過ごしていけばいいと思います💓💓💓

もし宜しければ、
他の文章も読んでみて下さい😌💕
私もまた拝見しますね😆💝

ご縁に感謝します💓
どうもありがとうございました🙇💕
私も語り尽くせない「生きづらさ」の中に生きています。これからも自分の居場所で語り続けようと思います。
こんなに明確にわかりやすく、しかも感情も置き去りにせず表せるなんて…✨
子どもに勉強に勝るものはない…って伝えてるんです。私も親に助けられず育ち、勉強好きなはずなのに勉強から逃げてしまったから…辛かったのに学びを深めトップクラスを走り続けてこられたこと羨ましいです。でも、たくさんご苦労もされて。。
生きづらさの中で諦めないってことが大切だと思いはじめたばかりのわたしですが、これからもよろしくお願いします💞あ、年はたぶん。。2倍くらいですけれど😅
こんにちは。スキありがとうございます。きっと私も随分年上です。
そして、我が子は皆成人しているので、敢えて言いますが、障害や病気では無く一つの個性です。
「障害」「病気」で、十羽ひとくくりにして欲しくない。
皆が一緒でない。今の世の中の方が病んでいます。健常者の社会とは言えません。私自身はすっかり忘れてましたが(覚えていたら生きて行けなかったから)餓死しかけていたし、学校に何年間も親の都合でいかして貰えなかった。妹達は行っていたのに‥自分の人生を生きていなかった。幸せとは書けても幸せの意味を知らなかった。
だから貴方の、いろんな生きずらさを知って貰う為に、晒け出そうには賛成です。今から未来のある子どもの為に‥
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