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「あるべき者にあるべき物が渡らない不愉快さ」と「歪な愛に身を浸す愚かさ」の話

才能や先天的なセンスに由来した「本質的に実力のある人」が、小手先の狡い技とか表面的に良い風に見える様に偽装するとかの「本質的に実力のない人」に力負けして排斥されるのをみるのはもう嫌なんですよ。

もちろん競争に勝つのも実力のうちですが、貶めるつもりで負けを強いる者は私は許しません。

誰もに希望した選択を全うさせてあげたいけど数に限りのある世の中ではやはり優先順位という相対化がされてしまって、だから弱い人には権利が回ってきづらい。

あまつさえ狡猾な者が我先にとその権利を掻っ攫っていく。

これは、酷く不愉快です。

競争は時に進化の起爆剤になりますが、自然淘汰の「弱きの隷従を強いる」という悪い側面が、こうしてあるべき者にあるべき物を授ける事を妨げることになってしまうんです。

相対化を、競争や資産価値や学歴・職歴やネームバリューを肯定すると「倫理観は衰弱していく」のです。

愛を説くことを馬鹿にする様になったのも、そこに根ざしているんだと思います。

競争で勝つために「いかに相手の足をすくうか」を画策するうちに余裕がなくなって、本来あるべき愛の形から逸脱した、安直な肉体の快楽と直結した「歪な愛の形」が跋扈してるんだと思います。

馬鹿みたいに体を重ねて、神経伝達物質に由来した薬物依存みたいな偽の愛に浸って真実を見た様な気になって、そんなところにご老体や赤ちゃんや体の弱い人にも通じる愛があるわけがないじゃないか。

絶対にそんなの間違ってる。

しかし愛の形に答えはなく、同じように人生や思想にも正解はない。

それに何を選択するかは自我を持つ各人に委ねられ、よって誰かに「特定の答え」を強いることは罪です。

だから私は「間違っている彼ら」に指摘や説法はしませんが、寛容でありつつも軽蔑や侮蔑・同情をすることはあるかもしれません。

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