高IQとかギフテッドとか(8)凡庸になることがゴール?

*またまた下書きのまま随分と放置していたので、話題の盛り上がりとしては少しピークを過ぎました🙇🏻‍♂️🙇🏻‍♂️🙇🏻‍♂️
以下、以前書いてた下書きを仕上げました。
————————

今また話題になってるこちらの記事↓

私は何年か前に下記↓の記事(探したら見つかった!)を読んでいたので目新し感は無かったのですが、以前とはまた別の新聞社が取材されたらしく、また天才教育は今タイムリーな話題なので広くシェアされてるみたいです。

前々から考えて来て、けっこうもうこちらの方へ結論が終局して行きそうなのですが😅これら記事を読むにつけ、
「高IQとかギフテッド当事者にとっての学校教育のゴールは、凡庸化することなのかもな」と思った次第。

この境地は本人にとって諦めでも妥協でもなく、文字通りゴールなのではないかという話。むしろ凡庸化して行くのが辛かったり哀しかったりする葛藤の方が、学校教育の中では過程だというべきか。あくまでも当事者にとって、ですが。
勿論よほど合わなかったら出て行くしかないですが、もしその集団の中に居続けることにしたとした場合に、普通に(幸せを感じて/リラックスして)暮らせるようになることを身に付けたらそこがゴールなのではないでしょうか。何らかの手段によってマジョリティに馴染む術を見つけた=社会で幸せになれる、ということなのでは。

だからといって彼らの個性が消えてしまったわけではないので、こういったギフテッドや高IQ側からの歩み寄りが出来てる状態でこそ、よりその特異性が輝く社会であって欲しいなとは強く思います。
きっとそれこそ「頭が良い」人ほど、マイノリティがマジョリティに合わせるという難しい作業にも、何らかのメソッドを見つけて攻略して行くのだとは思うけれど。
いつでもマイノリティはマジョリティに合わせて行くことが要求されていて、それは社会構成の理屈から言えばある意味当然なことなのですが、マイノリティにとっては不自然な努力のプロセスを経て仲間入りして来てるのだから、その他良いところの突出に関しては是非認めてあげて欲しいところです。本人たちも隠したり妙にわきまえたりする必要は無いのではないかと思う。

集団教育がマジョリティである中間層をターゲットにしていることに間違いはないけれど、中間層を作り上げることが「教育の目的なのか」どうか、これは両端に突き抜けた当事者の幸せも含めてじっくりと考えて行きたいところです。