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新しい「記憶」を結ぶ試み

あなたの今年の記憶は、どこまで積もり重なっていますか?

パンデミックという特殊環境。健康面への懸念が大勢を占めますが、コロナによって、大切な「記憶」が生まれない現象に頭を悩ませています。

わたしをわたしと規定するのものはなんでしょうか。その一つが、記憶です。どこかに出かけた記憶。誰かと話した記憶。美味しいものを食べた記憶。そうした、一見価値がなさそうな記憶で、意識の周縁をかためることで、精神的な「わたし」はアップデートされます。

わたしは闘病で6年近く、ほぼベッドの上の生活だったのですが、目にするものはほぼ、白い天井だったので、恐ろしいほど、その時間で形成できたはずの「わたし」がありません。裏技で6年間の時をすごした「わたし」を回収する技はあるんですけど(一生懸命開発しました)、リアルタイムな記憶で形成される「わたし」には、硬度で劣ります。ささいな変化でも、異なる記憶を脳に焼き付ける作業は、人間には欠かせないのです。

さっきまで、この映画を見ていました。

作品のテーマの一つは「記憶」です。脚本が残念なので、エンタメ性はないのですが、「記憶」によって、わたしたちがどう自身を認識するか、という面白い視点を提供してくれます。わたしには、面白くなかったんですけど。


外に満足に出ることもできず、だれかと共通の体験ができないことで、本来、生まれるはずだった「記憶」が生まれません。

一方で、新しい形の「記憶」形成の世界が徐々に展開されつつあります。

今週、オンライン月見の歌会をします。

その関係で、イランのある大学の先生とやりとりをしたのですが、そこで、双方の興味関心にまつわる、心のこもったやりとりが発生しました。たぶん、置かれている環境が近侍していることもあって、シンクロしたコミュニケーションなのかも、と思うのですが、一度もあっていない人と、お互いの内面深くまで降りていって、感情を共有する機会が増えています。0と1が間に挟まっていて、除菌しちゃうんですけど。


みたいなことを考えながら、もう一本映画を見て、寝ます。


ごちそうさまです。


まさかお金が振り込まれることはあるまい、と高を括っているので、サポートされたら、とりあえず「ふぁ!」って叫びます。