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気づけば十年目、心は復興しているだろうか。

忘れもしない、3月11日午後2時46分
震度7、マグニチュード9、東日本大震災。

当時、わたしは、自宅療養中で、昼ごはんの支度をしていた。
親子丼を作り終えて、火を消した直後、微かな揺れから始まった。

それが、大きな揺れに変わってゆくとき、気づけば、家の外の塀にしがみつき、自分の家が、右へ左へ揺れているのを、眺めていた。

あ、倒れたら、死ぬな、と思い、隣家を見ると、
同じように、外へ飛び出してきた人が、空を眺めていた。
私たちは、目を合わせて、ぺこり、とした。

電線は、たゆみ、烏は一斉に飛びたっていった。
その日は、やけに青く晴れ渡った空であった。

揺れは、徐々におさまり、わたしは、室内へ戻った。
家具もみな、無事だった。
余震の揺れが止まないなか、どうしたら良いかわからず、足を引きずりながら、財布と携帯を持って、近くのスーパーへ行った。

すると、電話が鳴った。
兄だった。
「無事か?」と、問われ、「どうしたら良いか、わからないから、スーパーにいるよ。みんな、お水を買ってる」
「無事なら良い。お前も、水買っとけ」と、言って電話は切れた。
よく、わからないまま、水を買って帰り、父母に連絡を取った。
母は、「今日は、施設に泊まる」と、言った。
父だけは、連絡が取れなかった。

父は、当時、仙台で被災した。
二週間連絡が、取れなかった。
余震の揺れのなか、NHKの流すアラームが、耳にさわる。
画面の向こうでは、水が真っ黒だった。

一度は、父の死を覚悟した。
一週間して、ようやく、メールがつながった。
「いま、車中泊。避難所まで、毎日、五キロ歩いて、水や飯をもらいに行ってる。途中の家で、温野菜を食べさせてもらった」
と、言う。

二週間後、東京に帰ってきてから、父の顔は青黒かった。
「仲間が、部下が、津波で」と、無表情で話していた。

何がなんだか、わからなかった。

それが、父の最初の言葉であった。
あれから、十年経ったとは、未だ思えない。

街は復興したのか。
人は復興したのか。
心は復興したのか。

ぽかん、と胸に空いたまま、時間だけが過ぎる。
時に、あの破壊の圧倒的な力を思い出すとき、なぜ未だに人は、争いあうのか、と空虚な思いが残る。

いまも、必ず黙祷を捧げる。
人の心の復興だけは、時間が解決したりはしない。
あの時を、味わった人にしかわからない傷は、その人自身にしか向き合えないものであり、不可侵だ。

それだけは、言いたい。
無理に解決しなくていい。
死ぬまで、つきあいきれるのは、本人だけだから。
無責任な他人の感傷の道具になんか、されてたまるか。

当時から、ずっと決めていたことは、心の復興が終わるまで、この震災に終わりはない、ということ。

それぞれの十年。

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