傲慢滴るパトロネージュ

とある著名な文学者は、芸術家に対して生活の面倒を見たり、金銭の援助を行うパトロンに対して、次のような見解を示した。
「川の中で溺れている者を助けようともせずに眺めて、その者が岸に辿り着いたら助けようとするもの」だと。
大勢の芸術家を抱えているパトロンのN氏は、もっと酷い人でなしであった。
きっと彼の目の前に、川の中で溺れている者がいたら、子供がのたうち回っている蛇を見ている時のように、物珍しいものがあるな、と言った感じで眺めるだろう。
そしてその者がやっとの事で岸にたどり着いたら、手を掴んで引っ張りあげもせずに、いい三文芝居を見せてもらった、と手に小銭を握らせるだろう。
もし、溺れているものがそのまま水中に沈んでいってしまったら、なんだ、つまらないものを見せやがって、と唾を吐く。
本当に、その様な人でなしであった。
先祖は、茶葉貿易で財を為した商人で、その時に培った人脈が、世界を牛耳る蜘蛛が作った巣のように、張り巡らされていた。
N氏は、類まれな美貌と溢れるほどの資産を受け継いだおかげで、この世に居場所を得ていた。
もし、N氏が見た目も持っている富も普通の極みであったのなら、社会の人々は、このろくでなしを排除しようとするだろう。
N氏にとっては、美しい物事が全てで、他のことはどうでもよかった。
だからこそ、お気に入りの芸術家や作家には多額の寄付をした。
自身も美を愛し、詩やら絵画やらを見るだけではなくて、自分でやって楽しんでいたりした。
気に入った作品や家具などは言い値で買い付け、世界中にある別荘には、いつもごちゃごちゃとものが置かれていた。
住んではいなくとも、愛すべきもの達に埃が溜まるのはN氏にとって我慢がならない。
留守にしている屋敷にも、その為だけに掃除専用の召使いが置かれた。
彼らは誤って傷をつけたり、壊さないよう最新の注意を払いながら、毎日毎日埃を積まないように働いた。
世界に多数いる掃除係には、普通の屋敷で働いている召使いと比べると、可笑しいぐらいの給料が支払われていた。

N氏の仏蘭西にある別荘には、今日印度から輸入していた、水槽が届いていた。
その水槽は、全面玻璃硝子で出来ていて、大きさは印度象を四頭程並ばせたぐらいもあった。
四隅に金の猫足があるが、柔らかい金にこの巨大な躰をしている玻璃硝子の箱を支える事は出来ない。
何か丈夫な金属の上に、金メッキを施したものだろう。
そうだとしても、支えているのが信じられないほど華奢で繊細な造りをしていた。
この見事な水槽に、魚やら水草やらを投入したら、川の中を金の額縁で取り囲んだように切り取って、ここへ持った来たような気がするだろう。
前日のN氏は、この水槽の到着を待ち侘びて、遠足にわくわくする子供のようになっていて、全く寝付けなかった。
そして、まさかこの自分が力仕事をする訳には行かない、と業者を呼んで、庭のよく陽のあたる場所に運びこもうとしていた。

目の下のくまを隠すためいつもより厚く化粧を施したN氏は、 こんなものお前達には分不相応なのだが、と文句をつけながら業者達に絹の手袋を渡した。
「いいか、その硝子水槽に手垢の一つも付けてみろ、お前達のひい孫に至るまで賠償金を払って貰うことになるぞ」
N氏はとても傲慢で、人を人とも思ってないろくでなしだと、業者は噂で聞いていたが、もはやここまでとは思わなかった。
業者の一人は、他に寄せ集められた数人に対して、なるべく機嫌を損ねずに仕事を全うしよう、と目配せをした。
他の業者も、それを理解した。

N氏の、硝子にヒビを作るな愚図、芝生に痕を付けるな間抜け、などの罵詈雑言を浴びながら、業者達は、N氏の希望する庭の中の位置に、なんとか水槽を置くことが出来た。
安心のため息を流した業者達は、手触りのいい絹の手袋を外し、N氏へ返そうとした。
N氏は、元々自分の持ち物だった絹の手袋を差し出されて一瞬、訳が分からない顔をしたが、
「あぁ返さなくていい、お前達の手に一度でもはめられた手袋など、この私が使うわけなかろう」
と冷たく言い放った。
業者達は、怒るどころか、呆れてものも言えなかった。
「申し訳ない、など別に思う必要は無いぞ、捨てるなりなんなり自由にしてくれ、まぁ売っぱらっても、粗末な安酒を買う足しにしかならんだろうがね!」
業者達は、互いに口を固く結び、無言でN氏の別荘から出ていった。
絹の手袋は、別荘から一番近くにあった道端のごみ捨て場に全て捨てられた。
業者達は、みんなこぞって同じ酒場に向かい、席に着いた途端口々に、N氏についての不満や愚痴を漏らした。
周りの席の客も、酌をする女も、業者達に同情し、声をかけて宥めようとした。酒場の主人は、気の毒に思って、酒をいくらか奢った。
これで、またN氏の新しい悪評が街を駆け巡ることになるのだが、当の本人はそんなもの微塵も気にしないだろう。
さて、絹の手袋はというと、ごみ捨て場の前を通りがかった、貧しい地区に住んでいる女の子達が、目を輝かせて、いくらか拾って行った。
だか半分以上はまだ残っていて、その日のゴミ回収の担当だった男は、中に新品同様の光り輝く絹の手袋がいくつも捨てられていて、不審に思った。

当のN氏は、一体何を水槽の中に泳がせようか、と頭の中で思案していた。
その様子は、無邪気な顔の子供が、真っ白い紙に向かって一体何を描こうか、としている時に似ている。
N氏は、そうやってしばらく考え込んでいたが、
ぱちん、と指を鳴らしたかと思うと、すぐさま自分の部屋の机へと向かい、何か熱心に書き物をしだした。
紙に洋墨(インク)の着いた羽ペンを走らせ、カリグラフィーの手本のような字で次々と文章を書き上げていく。
「全く、かのオスカー・ワイルドも私の才能にはひれ伏すだろう」
書き上がった紙を見て、惚れ惚れした様子でN氏は呟いた。
それから、ろくに読まないくせに毎日とっている新聞の広告欄から、印刷会社の連絡先を確認し、メモをとった。
そして、書いた紙とメモを持ちながら、電話があるところまで向かった。
ーこの電話も特注で作らせたものだ。
花と小鳥の華美な細工がしてある白色の受話器を手に取り、一つ一つ厳かに、あるいは勿体ぶるようにして印刷会社の番号を回した。
「あぁ、新聞に広告を出していたところかね?頼みたいものがあるのだが……」

『 N氏ノ屋敷ニテ、以下ノ者、応募ス。
顔モ、体モ、髪モ、美貌ニ富ンダモノ、
美麗ナ衣装ヲ纏ッテ、踊リ子ノヨウナ仕事』

N氏が出した貼り紙は、その様な内容だった。
街の人々は、それを見て様々に噂した。
愛妾にされる、だとか外国に売られてしまう、だとか。
けれども、張り紙の隅には、普通の召使いに払われる給料以上の金額が書いてあり、紙に書いてあることをそのまま信じれば、破格の値段と待遇だった。
ただ綺麗な衣装を着て、踊っているだけでこれだけの代金を貰えるとあれば、それに飛びつかない手はない。
見た目に自信のある、別の仕事で手間賃をもらいながら、本職を掛け持ちしているダンサーや、その日暮らしの家出少女がN氏の別荘である屋敷に押しかけた。
もちろん、皆まるきり文面を信じている訳ではなかった。この値段で踊りだけ要求される訳では無いだろうー『 寝る事』を指示されるかもしれないと、皆頭の中にはあったが、それを差し引いても目に余る大金だった。それに、N氏は世界中を探してもいないくらいの美男子だ。
安っぽい妓楼で、端金で油臭い男に抱かれるより、よっぽど良い。
ベッドを共にした事で、豪華な屋敷で愛人として養われると期待している者もいた。

N氏は、年齢、服装様々だがどれも美しい娘達を眺めて、うっとりするように呟いた。
「あぁ私の可愛らしいアフロディーテ達……」
N氏の、小鳥も惹かれるような声で、初心な娘は蕩けてしまいそうになった。
「一回、それぞれの面接をした方が良いかと思ったが、その心配は杞憂だったようだね」
この言葉にどんな意味が含まれているかわからず、沈黙している娘達に向かって、またN氏は言った。
「ふふ、てっきり少しくらいは、金にがめつい醜女(ぶす)が来ると思ったが、思ったよりこの街の醜女は身の程を弁えているようだ」
娘達の半分は、この冗談とも本気とも取れない言葉に空気を読んで笑い。あとの半分は内心引きながらも、それを表に出さないでいた。
「君たちを彩る衣装は、もう部屋に用意してある。さぁ、こちらだよ」
言われるまま、娘達はN氏に連れられて、別荘の中の衣装部屋へと向かった。
廊下を通ったり、部屋の中を通ったりする度に、娘達の中から小さな歓声が上がる。
中には、あまりに豪華な屋敷の内装に気後れして、見知らぬもの同士で、手を繋ぎあって、進む娘もいた。
「ここにある、好きな物を着るといい。ドレスも小物も。私の召使いには、申しつけてあるから気兼ねなく使うといい」
娘達は、大きな衣装部屋に圧倒されるばかりであった。
部屋の三分の一を占める大きな箪笥は、漆塗りで東洋の螺鈿細工が施され、取手を掴むこともはばかられる様だ。
箪笥に負けないくらい大きな鏡は、右と左が折りたたまれる形になっていて、後ろ姿だけではなく全身を見渡せるようになっている。
中でも、娘達の目を引いたのは虹のような色の衣装の数々だった。
名だたるデザイナーが拵えたものや、踊る事を前提にした世界中の民族の衣装があり、フリルをふんだんに使った下着までもが揃えられていた。
近くの棚には、金銀財宝のように、翡翠髪飾りや、茜色の珊瑚の首飾り、大きな琥珀を垂らした耳飾りなどが置いてある。
黄色い声を上げながら、娘達が次々と好きな衣装や小物を手にとっていった。
中には、少しばかり自分のポケットの中に拝借していくものもいたが。
メイドや、自分の着替えを済ませて手の空いた他の娘に手伝ってもらいながら、なんとか全員が煌びやかな衣装に身を包んだ。
その時の部屋の騒ぎようは、満員御礼の舞台を演じている最中の、楽屋裏のようだった。
その時を見計らったように、衣装部屋の扉の向こうからノックがした。
メイドの一人が、扉を開けると、さっきとは違う服に着替えたN氏が立っていた。
「やぁ、皆すんだようだね。では早速庭まで出てもらえるだろうか」
娘達は、てっきり屋敷のどこかにあるステージか何かで踊るものだと思っていたが、これだけの数がいるのなら外で踊った方がいいのかも知れない、と全員が言葉に出さずに納得し、言われるまま今度は庭へと向かった。
庭には、稀少で華やかな草花に囲まれて、ここにあるには似つかわしくない大きな水槽が置いてあった。水槽には、一体どこからこの量を引いたのか、と思うほどの水が、なみなみと注がれている。
娘達の中から、少しのどよめきが上がった。
「やぁ、皆。すまないね、張り紙には踊り子を募集している、と書いたのだが、あれは分かりやすく書くための方便なんだ、実はー」
娘の一人は、やっぱりね、と自分の確信が、事実だと言うことを感じた。
一人は、自分の処女の体をN氏に捧げるための覚悟をしていた。
「皆には、この水槽の中に入って、人魚の精霊になってほしいんだ」
今度は、娘達からとても大きな、どよめく声が上がった。
「皆には、代わる代わるにこの水槽の中に入って、思い思いに泳いだり、髪を梳いていて貰いたいのだ。もちろん、息が苦しくなったら、すぐに上がって構わないし、体が冷えるから、風呂も着替えも用意する。暖かい飲み物も準備しておこう」
N氏は、美しいものには、神のような慈悲を与える人物である。
これを聞いて、娘の一人が拍子抜けしている間に、もう一人は、小さい胸を撫で下ろしていた。
娘達は、少しの間どうするか、相談し合っていたが、ステージの上で踊る事が、水槽の中で泳ぐ事に変わっただけで、特に嫌だとは感じなかったため、全員が承諾した。心の中では、悪趣味だの、金があればなんでも出来ると思っている、貴族趣味の坊ちゃんだと、N氏の事を謗る者もいたが、皆美しい顔には出さず、笑顔を向けた。
N氏の機嫌を損ねれば、約束の報酬が貰えなくなると、皆危惧していたからだ。
娘達は、ほぼ全員N氏の言う通りに振舞った。
金色の梯子を昇って、冷たい水の中に飛び込む。 緩やかな動きで衣装のような鰭をはためかせる金髪の人魚、硝子越しにN氏を愛おしそうに見つめる赤毛の人魚、
水面に顔を出し、硝子に寄りかかりながら、黄楊の櫛で髪を梳く黒髪の人魚、
鸚鵡貝の貝殻や、浮きの硝子玉で遊ぶ銀髪の人魚……
それらを、N氏は長椅子に身を擡げながら、優雅に眺めていた。
すぐ近くには、このような状態でも眉ひとつ動かさない、厳格をそのまま顔にしたような老齢の執事が、N氏専用の飲み物とタオルを持って、石像のように待機している。
まだ体が濡れていない娘達は、N氏の許可を得て庭や屋敷の中を自由に探索していた。
中には、N氏の膝元に子猫のように甘えるものや、逆に己の膝にN氏の頭を乗せて、髪を撫でたりするものもいた。
N氏は、母親にそうされる子供のように、目を蕩けさせながら、頭を撫でられる、心地よい感覚に浸っていた。
水槽の中にいた人魚の一匹が、もう耐えられない、という具合に、冷えた体で水の中から上がり、梯子を降りてくると、すぐさまメイドが人間に戻った娘を大きなタオルで包み、風呂場まで案内する。
早足で、屋敷の中へとかけていく娘の背に、N氏の声がかかった。
「時間がかかっても良いから、ゆっくり好きなだけ休んでくれたまえ!」
娘は、濡れた服をメイドに手渡してから、まず程よい暖かさのシャワーを浴びて、次に薔薇の花びらが浮かんだ暖かいミルク風呂で、体を温めた。
浴場は、娘が何人入っても、体をゆうゆうと伸ばせる広さがあった。
その娘を筆頭にして、次から次へと、風呂場までメイドたちに案内されて、新たな娘達がやってくる。
きっと、今N氏の周りに侍っている娘と、屋敷や庭を散策している娘に、水槽に入る順番が来た、とメイドを通じて、N氏からお呼びがかかっている事だろう。
真っ赤な花びらが浮かんだ、ミルク色のお湯は、優しい温度で娘達の冷えた体を包み込み、ほんのりと薔薇のいい匂いを漂わせる。
傍には、ホットミルクや他の暖かい飲み物も置かれている。
もうすっかり体が温まっても、皆、風呂から出たがらなかった。
長い時間入っていなければ、のぼせることも無い湯加減であり、自分の番が回ってくるのは、まだ当分先なので、この賓客扱いにいつまでも浸りきっていたいようだ。
産毛を生やした桃のように、頬を火照らせた娘達は、元々自分の家にいるように、和やかに談笑し始めた。
中には、ふざけて湯を掛け合って遊ぶものまで出てきて、はしゃぐ声と、それを年長者が窘める声とが、交差した。

そのようにして、N氏は毎日毎日、水槽の中の人魚を眺めた。
大勢いるメイド達は、濡れ鼠になった娘を包んで浴場に運ぶもの、衣装を乾かすもの、屋敷中にいる娘達に声をかけるもの、その他娘達の世話全般をするもので、全員てんてこまいであったが、誰もN氏に向かって文句などを言わなかった。
そうやっている中で娘達も、自然と順番と時間割が決まってきた。
その方が、私ばかり冷たい水の中に居るのに、あの子はいつも遊んでばかりで不公平だ、という声が上がらないし、皆この屋敷の中を思う存分に堪能したかったので、丁度いいのだろう。

けれども、当のN氏は、毎日水槽の中の綺麗な娘を見るだけで、だんだんと飽きてきた。
子犬のように、くりくりとした愛らしい瞳を向けた娘に、新しい腕輪が欲しいとねだられても、適当に相槌を打って、金を渡すだけ。
N氏にとっては、金など砂漠の砂粒程の価値であったし、量もそれ以上を持っていた。嫌らしい声で甘えてくる娘の相手をするのは煩わしいだけだ。
金を受け取って、大袈裟に喜んだ娘は、大急ぎで型録(カタログ)が置いてある部屋まで向かった。
いや、部屋に向かったように見せかけて、本当は懐に金を忍ばせて、違うことに使うのかもしれないが、そんな事N氏はもうどうでも良かった。
N氏は、娘の姿が完全に見えなくなると、優雅な仕草で大欠伸をした。

ある日、いつもの様に複数の娘が水槽に入って、N氏の目を喜ばそうと水中で舞っていたが、
「あぁ、君たちもういいよ」
N氏のその一声で、周りではしゃいでいた娘達も、しぃんと静まり返った。
一体何がいいのだろう、と娘達が凍らされたように固まっていると、N氏は長椅子の下から大きな槌を取り出した。
それを手に取るやいなや、玻璃硝子の水槽に向かって、振り下ろした。
凍った娘達の喉から、大きな悲鳴が上がった。
水槽の中にいた娘達は、水が押し出される力と一緒に、外へ投げ出されてしまった。
周りにいた娘達は、悲鳴を出しながら、あんなに優しかったN氏が豹変した様子に恐怖を覚え、四方八方に逃げ出した。
水と一緒に、地に堕ちた娘達は、しばらく動けなかったが、一人、また一人と、足から腕から、顔からと血を流しながら、その場をあとにする。
一番酷い一人は、重力に逆らうことも許されず、砕け散った大量の玻璃硝子に、そのまま直撃した。
きっと体の下は、恐ろしく細かく鋭い破片で、ずたずたになっているだろう
「どうして……」
顔も身体中も、傷だらけの娘は、己を見下しているN氏の足に、力なく縋ろうとした。
「どうしてって……もう飽きたんだよ」
犬の糞でも見るような目で、N氏は、美しい人魚だったもの、波打ち際に打ち上げらた、無残な死体のような娘に向かって、そう呟いた。
その様な凄惨な状況でも、やはり側仕えの老齢の執事は、片眉ひとつとして、動かさなかった。
彼女たちは、目の前の、残酷な幼児のような主の、欲と心を満たせなかった。それだけの話なのだから。
どこからともなく、担架を担いだ、二人組の従僕がやってきた。
従僕は、なんの感情も見られない顔で、そっと娘を持ち上げて、担架に乗せ、その場から運び去った。
娘はこのまま、屋敷の使われない客部屋まで運んで、そこでメイドの応急処置を受け、動かしても問題なくなったら、病院に搬送する手筈になっている。
客部屋に運ばれて、メイドにガーゼで滲みる治療を受けながら、傷だらけの娘は、この屋敷は異常だ、と思った。
主が、いきなり槌を振り上げて、水槽を割っても、狼狽えることもしない。
主が、罪もない娘達に怪我をさせても、主を責めるどころか、謝罪の一つもない。
娘は、もう怪我などどうでもいいから、さっさとこの屋敷から逃げ出したかった。
けれども、痛む体がそれを許さない。
まだ歳若い自分の体に、傷跡が残るかもしれないと思うと、あんな怪しい張り紙を信じ込んで、こんな恐ろしい屋敷にのこのこやって来てしまった自分が、許せないし、恥ずかしかった。
冷たい石の天井を見ていると、N氏の、あの氷よりも冷たい目が思い出されて、娘は豪華なベッドの上でひとり、震えた。

先程、自身の足元に縋った娘が、自分の振る舞いのせいで、恐怖におののいているなど知りもせず、N氏は庭で呑気に、考えていた。
「ふむ、やはり水槽には、本物の魚を入れるに限る」
今、N氏の足元には、散らばった硝子屑や破片を片付けようと、厚い手袋を嵌めたメイドや従僕達が、かがみ込んでいた。
「お前達、私がここを素足で歩いた時に、怪我などしたら、全員ギロチンにかけてやるぞ」
主のその声に、憤慨した声を上げるどころか、なんの反応も示さずに、召使い達は破れにくい袋の中に、次々と細かい破片を拾って、入れていった。
中には、目に見えないほど細かい破片もあった。
N氏は、ふん、とつまらなさそうに鼻を鳴らし、その場を離れた。

Nの屋敷に、また新たな水槽が届いた。
壊れた方の水槽は、作った印度の会社に、元のように作り直せと、送り付けたのだが、無理難題だと言われた。
ならば他に頼むだけだ、と別の会社に、新しい水槽を作らせて、持ってこさせのが、これだった。
新しい水槽を配置するために、前に頼んだ業者に招集をかけたが、どういうわけだか、一向に音沙汰がないため、その会社の従業員に、屋敷の望むところまで、水槽を運ぶように命じた。
前のように、従業員達に白い絹の手袋を渡しながら、N氏は言った。
「再三頼むが、水槽にお前らの汚らわしい手垢など付けるなよ、ヒビなど小さいものでも、あってはならんからな!」
気の毒な従業員達は、前にこのお宅から、注文を受けた訳では無いのに、と頭の上にクエスチョンマークを出していた。
さすがに、前の水槽ほどの大きさはないが、観賞魚を楽しむための水槽としては、かなりの大きさだった。
六角形の硝子の水槽を支えている台座は、とても固く頑丈なアカシアで出来ていて、森や湖の美しい、四季の様子が彫られている。
そして、その様子を、額縁に囲まれる絵画のように、金の細工がぐるりとしてあった。
N氏は、水槽が到着する日に合わせて、世界各地から観賞魚を取り寄せていた。
中でも、東洋の島国から、鮒から品種改良したという、花魁のような姿の金魚と、亜細亜の国の淡水魚である闘魚(ベタ)を多く取り寄せた。
どちらも、泳ぐ姿が素晴らしく、美しい。
衣装のような鰭は、あの美しい娘達を思い起こさせる。だが、
「やはり、娘より魚の方がよろしいな、人間の女は何かと騒がしく、世話も骨が折れる。そのくせ機嫌を損ねると、面倒くさいことになるからな」
「それに比べると、魚は文句も何も言わないし、大人しく水の中を泳いでいるだけで、世話も楽であるからな!」
N氏は、こうのたまっていたが、実際の世話も、水槽の掃除も、やはり召使いがこなすのだろう。
金魚の、妖しく緩やかな鰭の動きは、天女のようで、見るものを飽きさせない。
闘魚の、鱗の煌めきは、命の光を帯びていて、いつまでも魅入っていたくなる。
けれども、N氏の興味がいつまで続くのかは、分からない。
眺めるのに飽き飽きして、また水槽を割って、召使い達の手間を増やすと考えた方が自然であろう。

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