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籠宮胡蝶は何故死んだのか?

 籠宮婦人から胡蝶嬢が死亡したと連絡を受けたのは、診療所の開業時間直前の出来事である。

 電話口で狂乱気味だった婦人を宥めつつ、私は可能な限り事の詳細を聞き出した。大まかな状況を把握すると、必要な検死道具類をくたびれた革製の鞄に手早く詰め込む。
 そして、早番の看護士達へ今日の開業時間を少しばかり──つまり私が帰るまでだが──遅らせるように指示し、愛車へと飛び乗ったのだ。
 籠宮邸までは車で片道一時間弱の距離になる。
 山間にうねる舗装道は普段から車通りも少ない。
 左手に滑る磯の香り高い海原と、融け合った青々しい夏空とが、暑い煩わしさを少しばかり緩和してくれた。天空のキャンバスに目一杯描かれた真っ白な入道雲は、清々しくも爽快な解放感を演出している。
 それらの情景は、これから検死現場へ向かうという鬱な現実を、私から忘れ掠めてくれた。
 だから、その片道は気の重さを負う事もなく軽快さすら覚えたものだ。
 これを不謹慎と捉えるかどうかは諸氏の判断に委ねたいが……。
 さて、やがて遠目に見えた山腹の豪邸こそは、この地域に代々根付く華族家系の遺産──即ち〈籠宮邸〉だ。
 その佇まいは不気味なほど色褪せていながらも、しかし、確実に住人が現存する生活臭を纏わせている。
 まるで過去の亡霊が古びた偉功を誇るかの如く、悠々と伐り拓いた緑林の中で君臨していた。
 通い慣れた山道を抜けると、軽く寂れた黒色の門が待ち構えている。
 軋む顎が重々しく開き、専属医である私を招き入れた。
 毎度、車の誘導に現れる老執事は、深く刻まれた顔の皺が忠実なる奉仕の歳月を物語っている。
 老人は無言の会釈を恒例の社交事例として、降車した私を応接間へと案内した。
 骨董価値には明るくない私の目から見ても、室内を占領する数々のインテリアが秘めた高額さは見て取れる。一挙一動に張り詰めた気を使ってしまう。
 籠宮婦人は、既に応接間で私の到着を待ち詫びていた。
 私の到着を知るなり、すぐさま気落ちした表情が同情を求めて緩んだ。我が手へと縋る落胆に悔やみの言葉を捧げて宥めると、堪えていた涙をポロポロと流しながら婦人は座り込んでしまった。
 しかし、そうは言っても時間は惜しい。
 私は簡潔に検死現場を訊ね、二階にある一室へと案内を望んだ。
 胡蝶嬢の自室である。
 不必要なほど、きらびやかに飾られた部屋であった。
 胡蝶嬢に対する婦人の過剰なまでの愛情が、過保護として見事に結実している。
 そこに胡蝶嬢は確かに死んでいた。
 自らの何百倍も重量に押し潰されて……。
 高価な敷物には流れ出た体液による染みが汚らわしく、胴体から干切れたスマートな腕や脚は無惨にも四散していた。
 生前の息を呑むような美しさも、こうなっては忌まわしい残骸でしかない。生の儚さというものは無情だ。
「こんな事にならないように、私は日頃から気を配っていたのに……部屋からも出さずに! ああ、それなのに……まさか、こんな…………」
「死因は圧死ですね」
「そんな事、見れば解りますわ! けれど! そんな事よりも! この子が死んだという事実が私には受け入れられないんです!」
「まあまあ、奥様。気を落とさずに……」
 婦人としては逆鱗に触れられたかのような非礼さを感じたのかもしれないが、私も検死状況を簡潔に自答したに過ぎない。斯様な事でいちいち癇癪をぶつけられても、迷惑この上なかった。
 第一、こちらはわざわざ開業時間を遅らせてまで来ているのだから、それをこのような理不尽に当たられては割に合わないというものだ。

 形式的な儀式は淡白に終わり、検死作業は思いの外に早く結論着いた。
 不慮の事故による圧死──それが、この状況に対する公正な見識だ。
 取り立てて不自然な事柄や過失的要因も殊更見当たらないのだから、万に一つも刑事事件とされる可能性すらない事は私の医学人生の全てを賭けて誓ってもいい。胡蝶嬢には気の毒な話だが、間が悪かったのであろう。不慮の事故というものは、誰にでも起こり得る事だ……。
 婦人の機嫌を損なわぬよう腕時計を盗み見ると、既に開業事件を二時間近くオーバーしていた。
 私は検死道具をテキパキと鞄へ収納し始めると、帰り仕度がてらに籠宮婦人へと今後の方針を示す。
「死亡診断書は診療所へ帰り次第まとめますから、明日にでもコチラから御届けに伺いますよ」
 そう言いつつも気懸かりだったのは、恐らく今日朝一で診察へ来るであろうトメ婆さんの血圧具合の方だった。また漬け物三昧の塩辛い食生活を繰り返して、血圧が悪化してなければよいのだが……。

 愛車の運転席へ滑り込んだ私は、見送りに出て来た婦人と老執事へ軽い会釈を交わしてドアを閉める。
「心中御察し申し上げますが、どうか御気を落とさずに。ああ、それから老婆心ながら申し上げますがね、これからは百科事典のような重い本は本棚の下段へ入れた方がいいでしょう。あまり頭より高い位置だと、今度のような事故がまた起こりかねないですからね」
 まだ気持ちの整理がつかないであろう事は見て明らかだったが、私は敢えて苦言を呈して籠宮邸を後にした。
 バックミラーに泣き崩れる婦人の姿を見ると罪悪感にも似た跋の悪さがあったが、実際のところ、今回は胡蝶嬢だから良かったようなものだ。これが、あの老執事などであった日には、さすがに婦人も寝覚めが悪かろう。

 滑る海原に憂さを投げ捨て、愛車は帰路を走る。
 カーラジオのスイッチを入れると、私は新曲の美声に気を紛らわせた。
 トメ婆さんは、はたして来ているだろうか?

 それにしても……だ。
 つくづく奇妙な時代になったものだと思う。

 飼っている〈虫〉にまで、死亡証明書が必要な世の中だとは……。

[終]

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