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父が死んだ 3

2020年10月22日。父が危篤と連絡を受けて、急いで病院に向かった。

車で約10時間の道のりを、少しの休憩だけで、夫がずっと運転してくれた。そのおかげで、22時に家を出た私達は、次の日の5時過ぎには病院に着いた。駐車場を探す夫に、病院の入り口で降ろしてもらい、父の元に急いだ。だが、ICUにいる父は処置中とのことで、すぐには会えなかった。なんだか拍子抜けした私は、ひとまず母と姉が待機している家族室ということろに案内された。戸を開けると、6畳くらいの和室に母と姉①がいた。毛布も何もなく、寝れなかったのだろう。足を崩して、壁にもたれかかり、疲れた様子だった。姉②と姉③は、近くのホテルで休んでいるらしい。この後、交代予定だったと言う。真ん中のテーブルの上には、コンビニのおにぎりとインスタント味噌汁のカップが無造作に置いてあった。

ここで初めて、父の病状を詳しく聞かされた。大腸がんだったこと。数ヶ月前から痩せてきたことを不審に思った母が、病院に検査をお願いし、半ば強制的に検査を受けたこと。治療しても2年、治療しなかったら1年と余命宣告を受けたこと。10月21日から手術に向けて入院予定だったこと。その数日前から体調が悪く、ずっと寝ている状態で、入院予定日の一日前に緊急入院したこと。緊急入院とは言え、父はストレッチャーに乗るでもなく自分の足で歩いて入院したこと。22日の夕方までは普通に会話もしていたこと。病院を後にした母が家に着いてすぐの夜7時くらいに病院から倒れたと連絡が入ったこと。説明している間の母は、長年かけて刻まれた目尻の皺のおかげで、深刻そうには見えなかったが、終始しかめっ面だった。

しばらくして、看護師さんに呼ばれ、ICUに入れた。広々としたICUには、仕切りのない煌々と灯りのついたナースステーションがあり、いくぶん明るさの抑えられたフロアには、ずらりとベッドが並んでいた。各ベッドにカーテンはあるものの、目が離せない患者さんばかりなのだろうか、ほとんどのカーテンは開いていた。患者のいない空いたベッドもいくつか見えた。父はフロアの真ん中辺りのベッドに横たわり、片方だけ閉められたカーテンの脇から、看護師さんが出入りしていた。モニターが、ピッピッと音を立てて、父の生きていることを証明している。緊張感の走るICUで一年ぶりに会う父は、全くの別人に見えた。首元には針が刺さり、機械へつながっている赤い血でいっぱいの管がいくつもぶら下がっていた。人工呼吸器のヒューヒューという音に合わせて、胸が上がったり下がったりしていた。少しだけ開いた父の瞼からは、黄色く濁った生気のない目が見えたが、眼球はぴくりとも動かない。どこも見ていない、何も見えていない眼だった。何年、いや何十年と触ったことのなかった父に触れてみる。指先はむくんで冷たく、頬はほんのり温かかった。「お父さん」とだけ言い、他になんて言ったらいいのかわからず、黙ったまま父を見つめた。

傍にいた看護師さんから、簡単に説明を受けた。倒れて一時心肺停止状態になったため、人工呼吸器をつけられていること。心臓は自力で動いていること。処置するためには動かないでいてもらう必要があるため、眠り薬で眠っていること。私は、父が苦痛の最中にいないかどうかが気になった。尋ねると、眠り薬で眠っているから、苦しさや痛みはないと思うと返ってきた。

父の様子から、その時はもう近いように見えた。死んでほしくないとか、まだ伝えたいことがあるとか、もっとこうすればよかったとかは、思わなかった。淡々と来るべきその時を待とうと思った。この一年、疎遠になっていたことは悔いたが、元々父とは、連絡をよく取り合ったり、なんでも話したりする関係ではなかった。ただ、いつも気にかけてくれていて、何も言わずに応援してくれていたこと、私にはありがたかった。父とは、言葉がなくても、分かり合い、通じ合っていたのだと思う。子どもの頃から、ほとんど一緒に遊んだことも、共に時間を過ごしたこともなかったが、時々ドライブに連れて行ってくれた。景色を楽しんで、おそばを食べて返ってくる定番のコース、回数は少ないが、よく覚えている。私が高校生の頃、母との関係がこれ以上ないくらい悪かった時も、父は支えだった。私を叱るでもなく、母を責めるでもなく、父は無口で優しい人だった。

願うことは、できるだけ穏やかに最期が迎えられるように、それだけだった。私は、「お父さんのタイミングでいいんだよ。」と心の中でつぶやいた。

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