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桂春蝶独演会 いたりきたり

 春蝶師はFB、ラジオ等を通じて昨今の公演の自粛について、その違和感はどこから発生するのか、理不尽さはどのように形成されているのか、主張は終始一貫されている。その意見に賛同してくれるファンの方がいて、小屋も理解してくれるなら、この社会状況下の中でもやり通す信念を持たれている。

 昨夜繁昌亭では桂枝雀師匠のネタ「いたりきたり」を演じてくれた。春蝶師がここ数年取り組んできた自作長編ものとしてのエルトゥールル号やニライカナイ、千日回峰行と言った、ある種社会派あるいは人間の業や生き死にを取り扱うと言う、ガチガチの硬派ではないネタが下ろされた。
シュールな言葉遊びをしている中にも、聴く者に対してモノゴトの真理をぶつけられると言う、枝雀師流の話芸。それを咀嚼し最後の落としにかかるパートを、春蝶師なりの味をつけて聴く者にぶつけてきた。
 枝雀師の噺の深層には「条理(あるいは道理)」と「暗部」があり、それを表情と身体というメディアを使って滑稽に魅せて中和させていた。枝雀師はその表現の面白さの裏に潜む「真理をじわじわえぐってくる狂気」が、聴く者に対して時に気付きを、時に恐怖を、あるいは戦慄をぶつけてきた。
 一方春蝶師は(私の個人的感覚なのだが)「千日回峰」での「憑依的」な話者として、凄みを感じた。そして、上方落語の流れを引きながら江戸前の「笑いのない噺」にも挑戦する、稀有な演者である。しかし今回のネタおろし「いたりきたり」は、上方落語という枠を取り払った枝雀師の噺を、登場人物に憑依することなく(それは、枝雀師への敬意でもあると感じられれる)、笑いも要所要所で起き、終演後じわっと考えさせられる話だった。公演自粛要請によって社会が鬱屈している中、「重すぎる」ことなく、楽しめる噺を演じてくれて、会場に足を運んだ方々も、おそらく満足して帰路についたのではないだろうか。
 何より先代を通じて枝雀師との関係の説明がくどくなく、さらりとしていたのが、すっと噺に入って行けるという構成になっていたところがたまらない。

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主にお笑いと音楽に関する、一回読み切りのコラム形式になります。時々いけばな作品も説明付きで掲載していくつもりです。気楽に訪ね、お読みいただければ幸いです。