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「A.I.」-絶望の平成に少年の「アイ」-

携帯電話の検索アシスタント、家電と連動できる高性能スピーカー、山手線新駅に設置されたナビゲートシステムなど、近年「AI(人工知能)」というものがますます身近になってきているという実感は、時代遅れのアナログ男である自分でも流石に湧いてきています。

こういったAIに溢れた世界に、人間はだいぶ前から強い憧れを持っていたと考えられます。その証拠に、AIやロボットがテーマだったり、それらに満ち溢れた世界を舞台にしたフィクション作品が、これまでに数えきれないほど製作されてきていますし、そこから数々のヒット作も生まれてきました。
代表的な所だと「シザーハンズ」「トランスフォーマー」、広い意味だと「ターミネーター」「マトリックス」「アイアンマン」もそういった側面の強い映画だと思います。邦画でも今年「AI崩壊」が公開されて話題になりましたね。あの作品はAIに対する様々な問題点とその利便性の両方をしっかりと提示しているので、これからの時代を生きる方々には是非見てほしいです。

このようにヒット作を多く生み出している分野の中、特に日本で大きく話題となったハリウッド映画があります。それが、今回の記事で紹介する映画、「A.I.」です。2001年に発表されたこの映画、実は本国アメリカではあまりヒットせず期待外れの結果に終わったそうですが、「母と子の物語」という面を強調してマーケティングした日本では90億以上の興行収入を叩き出して大きなヒット作となりました。
今回はそんな日本で大ヒットしたSF洋画大作「A.I.」について、アレクサというよりアシクサである自分が鑑賞して思ったことを、色々と感想としてまとめていきます。

ジゴロ

近未来-ついに”愛”をインプットされた少年型ロボット、デイビットが誕生する。彼を試験的に養子に迎えたスウィントン夫妻は、愛情深いデイビットをいつしか本当の子供のように思い始める。しかし、不治の病に冒されていた実子が奇跡的に回復したことで、デイビットは居場所を失ってしまう。母モニカに愛されたいデイビットは、人間になる方法を求めて旅に出る…。

天才監督と天才子役の邂逅

例によってですが、まずは本作の主要なスタッフとキャストについて紹介したいと思います。

本作の監督を務めたのはスティーヴン・スピルバーグです。
もはや説明不要の「ハリウッド映画界のレジェンド」の一人であり、代表作は多すぎて語り切れません。なので個人的に好きな作品だけ挙げさせてもらうと、「インディ・ジョーンズ」シリーズ「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」「マイノリティ・リポート」辺りがお気に入りです。申し訳ないですが「ジュラシック・パーク」はシリーズ全部をまだ観終わってないので外させて頂きました。謝るので食べないでください。
そして、本作の原案を担当したのはスタンリー・キューブリック
こちらも同じく説明不要の「伝説の映画監督」であり、1999年に彼が亡くなってからもずっと多くの映画ファンを魅了し続ける作品を数多く手がけています。有名なところだと「2001年宇宙の旅」「時計じかけのオレンジ」「シャイニング」などが挙げられますね。重ねて申し訳ありませんが、彼の高い芸術性とある種の狂気に満ちた作品群に対して、未だにピカソ画法から抜け出せないほどの芸術オンチである自分はビビりまくっているため、全然キューブリック映画は観られていません。謝るのでまぶたを固定させながら残酷な映像を観せないでください。

続いてはキャストです。
本作の主人公、少年型ロボットのデイビッドを演じるのは、天才子役として知られていたハーレイ・ジョエル・オスメントです。
1994年に「フォレスト・ガンプ」で主人公の息子役として映画デビュー、5年後には泣けるホラー映画として大ヒットした「シックス・センス」で幽霊の見える少年を演じて知名度が一気に上昇し、天才子役としてその名を世界に轟かせました。意外なところでは、人気ゲーム「キングダムハーツ」での主人公・ソラの声優としても活躍されているそうです。
この世のものではない者と触れ合う少年の次は「人間になりたいロボット」の役という、かなり特殊な演技が要求された彼でしたが、本作ではその力を遺憾なく発揮して見事に「人間らしくプログラムされた人造生命体」として振る舞っていました。後ほどもう少し詳しくお話しします。

森で彼と出会って以降行動を共にするセックス用ロボットのジゴロ・ジョーを演じたのはジュード・ロウ
1999年に「リプリー」でプレイボーイのディッキー役を好演、英国アカデミー賞の助演男優賞を受賞して有名になりました。本作以降も数々の有名作品にメインキャストとして出演しています。個人的には主人公の兄を演じた「ホリデイ」や、主人公の永遠の相棒・ワトソンを演じた「シャーロック・ホームズ」シリーズのイメージが強いです。主役の傍にいる関係性の深い男を演じるのが得意な役者さんと言えるでしょう。本作でも、「リプリー」の時のようなプレイボーイの臭いを醸し出しながら、デイビッドと同じロボットとして少しずつ彼を理解していくジゴロ・ジョーを熱演しています。

その他、デイビッドが慕い続ける「母親」のモニカ役には「死霊館 エンフィールド事件」フランセス・オコナー、デイビッドの生みの親であるロボット開発者・ホビー教授に「蜘蛛女のキス」「インクレディブル・ハルク」ウィリアム・ハート、人工知能のDr.ノウやブルー・フェアリー、超進化したロボットの「スペシャリスト」の声優として、ロビン・ウィリアムズやメリル・ストリープ、ベン・キングスレーらも参加しています。
ハリウッド映画の王様こと、スピルバーグ監督のSF超大作に相応しい絢爛なキャスト陣が登場している作品、それが「A.I.」なのです。

想像以上に不気味な描写が多い「現代のピノキオ」

本作を語る上で、「ピノキオ」という童話は欠かすことができません。
序盤でデイビッドがモニカに読んでもらった絵本として登場し、その後彼が目標とする「妖精を見つけて自分を人間にしてもらうこと」とも大きく関係しているのが「ピノキオ」であり、むしろ本作自体が「現代のピノキオ」としても捉えることが可能だと言っていいのかもしれません。

ディズニー映画版の「ピノキオ」を見た事のある方なら分かって頂けると思いますが、この話ってなかなか不気味な場面が多いんですよ。途中で出てくるおっさんの顔の怖さ、クジラに飲み込まれる時の恐怖、そして何よりロバにされる子供の断末魔の悲痛さ… なかなか子供には刺激的なアニメーションに仕上がっているんですね。
そしてこの不気味な雰囲気、実は「現代のピノキオ」である「A.I.」にも結構取り入れられているんですよ。自分はこの映画について子供の頃に見た予告編のイメージから「母親から愛されたかったロボットを巡る感動作なんだろうな~」と思っていたんですが、いざ観てみたらなかなかゾッとする話でした。「シックス・センス」より全然怖いです。

まずは序盤、デイビッドが「家族」の元で過ごすという一見ほのぼのとしたパートが展開されますが、ここでは「あまりに物や邪気を知らなすぎて怖いデイビッド」「デイビッドを一時は子代わりにしてしまうモニカたち」という狂気と不気味さを味わうことができます。
確かに自分と血の繋がりのない子供って、何考えているかよく分からなかったり無邪気ゆえの危うさみたいな側面もあって、恐怖の対象になり得る場合も十分あると思います。「エスター」なんかもそういった面を強調した映画でしたしね。しかもデイビッドは人工的な生命体なわけですから、ますます得体の知れない存在となって観客の前に現れるので余計に怖いです。ホウレンソウ食べるシーンなんか鳥肌モノでしたよ。

そしてそんなデイビッドに戸惑いを見せつつも、一旦は植物状態にある息子の代わりとして受け入れてしまったモニカですが、彼女のこの選択に関してもよくよく考えると狂気の沙汰のような気がします。回復する見込みが殆ど無いとはいえ、実の息子の代わりに半ば「自分たちの愛情の捌け口」としてデイビッドを受け入れるっていうのは親としてどうなんでしょうか?
勿論、苦肉の策的な選択だったとは思いますがそれでも選ぶべき道ではなかったでしょうし、案の定途中で実の息子であるマーティンが奇跡的に回復してからはデイビッドが邪魔になっている描写が多く登場しています。マーティンやその友人はデイビッドをからかっている場面が多かったですが、少なくともマーティンの気持ちになって考えればこういう行動に走るのも無理はないと思うんですよ。自分のあずかり知らぬところで、息子代理として家族の一員になっている「子供型ロボット」がいたら絶対に気分はよくないですからね。決して彼だけの責任ではないと思います。

そして結局デイビッドを森へと捨ててしまうモニカ。あ、こうやって無責任な妊娠は悲惨な末路を辿るんだなと、もっと言えば向こう見ずな考えでペットを飼ってしまった人々もこういう行為に走るんだなと、悲しくなってしまった場面でした。どこかで聞いた話ですけど、今日本に生息しているミドリガメって昭和の縁日で売られていたものを、結局は飼い主が捨ててしまって各地の池に住むようになったのが始まりらしいですからね。多分カメを捨てた人たちも本作のモニカみたいな軽率な気持ちから始めてしまったんだと思いますよ。

捨てペット

かなり話が脱線してしまいましたが、このように序盤の家族パート、つまりデイビッドの旅の目的を最も示しているパートにも関わらず、母と子の愛の物語というより双方の恐ろしさと狂気が目立ってしまい、その後にデイビッドが歩む冒険の数々に対する動機の積み上げがイマイチ伝わって来ませんでした。どちらかというと、ヒューマンストーリーというより当時の人々に対する皮肉や警鐘の意味が強い作品なのではないかと、この時点で思い始めました。

汚い部分を見ることも「成長」の一つ

森に捨てられてから、デイビッドはこの劇中世界で色々な場面や光景と出会います。何といっても強烈なインパクトだったのは、デイビッドが捨てられた森に同じく用済みになったロボットが沢山生息していて、それを回収して派手にぶっ壊そうという「アンチ人工生命体派」からの追跡から逃げる、というシーンでした。部品のあちこちが欠けていたり、ほとんど機能停止しているロボットが蠢くシーンは相変わらず怖いですが、それ以上にこのシーンには大事なものがあるように思います。
先ほど、デイビッドが捨てられたことに関して自分は、「無責任な妊娠」や「無責任なペットの飼育」などと関連付けて話しましたが、こうもこの森に大量のロボットが捨てられているのを見ると、単純に「消費社会の弊害としての、モノを大事にしない人間」という意味でもデイビッドの孤立は描かれているのかなぁと感じました。もちろん本作に登場するロボットはある種の感情を持ち、相手に合わせた言葉を話すなどしっかりとした「生命」として存在する一方、決められた機能を従順にこなすマシーンとして、言い換えると「商品」としても存在していますからね。そして、この「商品」としてのデイビッドという視点は、後半で描かれる「自分は唯一無二の存在だと信じていたデイビッドが、自分と同じ型番が沢山あるのを目にしてその信条を無残にも砕かれる」という何とも辛い場面にも、伏線として何気なく働いています。

そしてその後、デイビッドたちは「アンチ人工生命体派」が集う、ロボット破壊ショーなるものに連行されます。しかし、もう少しで壊されそうだったところで、デイビッドに「かわいそうだ」「どう見ても人間だろ」といった声が挙がったことで彼は助かります。
デイビッド助かってよかったね、とは思うんですけど、結局人間だから殺しちゃダメだっていう観衆たちのエゴが余計に際立っている気もしてすごく複雑でしたね。しかもこれに関しては、2001年のまだ人間に近いアンドロイドが珍しかった段階だからこそ可能な展開だったと思います。現在では、そういった面についてはかなり技術が進んでいるでしょうし、人間と見間違えるほどのロボットも夢ではない気がします。ちょっと前に話題になったゲーム「デトロイト ビカム ヒューマン」みたいな時代も、もう少しで来るのかもしれませんね。まあ、あの劇中世界でもアンドロイドへの反対運動はかなり活発に起こっているみたいですが…

そしてこんなハードモードな世界を徐々に知っていくデイビッドが、それでも一番の願いである「母親に愛されること」を目指していく様子、ようやくこの映画に「親への愛」というテーマが加わってきた気がしましたよ。まあ前提がアレなので思ったほど感情移入は出来ませんでしたが。(笑)
ジゴロ・ジョーとの出会いも、「セックスロボット」という人の欲望を満たすためだけのハードな存在がいるという点や、デイビッドが求める「親の愛情」とジョーが求める「性愛」の対比という点で、ストーリーの中で効果的に機能しています。こういうキャラ造形の上手さは流石スピルバーグ監督と言うべきでしょう。

人類の悲惨な末路を描きたかった?

ラスト、結局2000年ほど海中で眠っていたデイビッドでしたが、進化した人工生命体に復元されたことで目覚め、偶然手にしていたモニカの髪の毛からこれまた復元された彼女のクローンと、とても楽しい一日を過ごして愛情を受けながら眠る…という粗筋でこの映画は幕を閉じます。2000年の間に何故彼自身やモニカの髪の毛が朽ち果てずに残っていたのか、いくら氷漬けになっていようがちょっと無理は感じましたが、それよりも本作で大事なのは、ここで描かれている西暦4000年代の地球では人類は「絶滅」しているという点だと思います。

さすがに今から2000年後だったので人類が「地球上からいなくなっている」のは不思議ではありませんが、本作では明確に「絶滅している」という台詞があります。つまりSF大作でありがちな「他の惑星に移住している」などの対策が成功せず、人類が破滅の道を進んだ未来を描いたのがこの「A.I.」なのです。
これまでもこの映画では、人間の無責任さやエゴを明け透けに描写してきましたが、ラストでその人類たちの末路として破滅を表現し、元は彼らが産み出した進化型アンドロイドだけが地球上に生き残っているという何とも皮肉な展開が良い味を出していると思います。しかもその「絶滅」の直接的な原因については明言されていないのがまた良いですよね。劇中では、世界的な環境悪化が起きているという設定が前提としてあり、ラストには深い海の中に沈んだかつての都市が描かれてはいますが、この海面上昇が人類滅亡の直接的な原因だったとは限らないと思うんですよ。それこそ、「日本沈没」で描かれたようなことは人類が滅びた後に起きた可能性もあって、その前に身勝手さやエゴがきっかけとなって別の問題が発生して滅びていたという説も十分語る余地はあると思います。

いずれにしろ、本作には今の人類に対する大事なメッセージが詰まっていると思います。環境の悪化について真摯に取り組むべきだという事、身勝手に自分の家族や動物、愛用品を見捨てたりするなという事、人工知能と共存していく中で「人間」としてどう生きていくのかという事、そういった現代の人間についての問題を、製作陣はデイビッドの冒険を通じて描きたかったんじゃないかなぁと感じました。

余談ですが、映画ファンの間では「キューブリックならデイビッドが海中で機能停止するところで終わっていた」という意見が多く挙がっているみたいですね。これについてはスピルバーグ監督が「彼の草案の時点で2000年後のパートは既に存在していた」と発表しており、事実とは異なる意見ではありますが、こういう事をファンに言われてしまうとはキューブリック監督の作品ってどれほど幸せな結末の無い映画ばかりなんでしょうか?(笑) 今度、ライトめの作品でも観てみようかなと思いました。

親子では見ない方がいい映画なのは確か

という事で、本作は日本での「親と子の愛の物語」という宣伝とは少し印象の異なる、おどろおどろしい数々のシーンや現代を生きる人間に対する警告を含むメッセージ性のある完成度の高いSF映画だと思います。面白い映画なのは確かですが「親子愛の物語」を構築するのに必要な前提が上手く働いていないこともあり、少なくとも心温まる感覚をフィクションに求める人には不向きだと感じました。もちろん親子で見るのにも不適合です。これならばまだ「インターステラー」の方が適任だと思います。

「インターステラー」は映画ファンの間で「これは2001年宇宙の旅を超える傑作だ」という声も挙がっているほどの素晴らしい作品です。自分も学生時代に見ましたが、何かこう次元の違う映像的迫力とテーマ性を強く感じた、凄まじい映画でした。親子だけではなく是非ともいろんな人に観て頂きたいです。

今回も長文となってしまいましたが、最後までお読みいただきありがとうございます。また次の記事でお会いしましょう。

トモロー

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