「礼に始まり礼に終わる」(中編)
(前回のつづき)
前回の記事では、特に小学校の低学年の場合、毎時間の授業開始時に日直の児童が、
「これから、○時間目の授業を始めます」
と唱え、それに続いて全員が
「は〜じ〜め〜ま〜す」
と、唱和するのが一般的だということを書いた。
そして、終了時にはその「終わります」バージョンが繰り返されるのである。
・・・私自身が現役の小学校教師だったときにはどうだったかというと、初任のころにはこの「礼に始まり礼に終わる」というシステムを採用していたと記憶している。
ただし、
「一人でも姿勢の悪い児童がいたら、日直には号令をかけさせないで何分でも待つ」
というような厳格なものはなく、ある種のルーティンとして行っていたと思う。
特段の信念があるというわけではなく、
「自分が小学生のときにもやっていたような気がするから」
「教育実習で配属されたクラスでもやっていたから」
「今の学校でも隣のクラスでやっているから」
という程度のものだったはずだ。
それを見直すきっかけになったのは、教員生活3年目のときに読んだ向山洋一氏の著作のなかで、この「授業の開始・終了時」のことが取り上げられていたからだ。
細部については覚えていないが、
「授業の開始・終了時の挨拶には意味がない」
「向山学級では、チャイムが鳴ったら、あるいは全員が着席したら授業を始めている」
という内容だったと思う。
・・・言われてみればそのとおりである。
「始まりの時間が来れば次の授業を始めるし、終わりの時間が来たら終わるのが当たり前」
「これから何の授業をやるのかは、黒板や時間割表に書いてあるのだから、改めて日直が言うまでもない」
ということなのだ。
それに、
「たとえ挨拶のときに全員が姿勢を揃えたところで、授業が始まってすぐに崩れてしまうのならば意味がない」
「全員が揃うまで待つということは、大部分の子にとっては『待たされる』ということだ。それはストレスフルな時間であるに違いない」
ということも言える。
・・・当時は向山氏を中心とする「教育技術の法則化運動(現在のTOSS)」がブームになっていた。それもあってか、私と同じように「礼に始まり礼に終わる」というシステムを取り止めた人が少なくなかったように思う。
(つづく)