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廃校となった小学校に眠る土偶たち|横浜市ふるさと歴史財団 埋蔵文化財センター

今回訪れたのは、
「横浜市ふるさと歴史財団 埋蔵文化財センター」は、横浜駅から南に約15㎞、三浦半島の付け根に位置します。

先ずは、横浜駅から京浜東北線の港南台駅を目指します。
港南台駅からは「上郷ネオポリス」行きバスに乗って終点で降ります。
ん?よく聞くと、何だか気になるネーミングです。ネオポリスと言っても、最近できた街ではない筈ですし。

バスはアップダウンのある道をくねくねと、およそ20分。
乗客はつぎつぎと途中の停留所で降り、一人降り立ったのは、住宅街にある小さなバスのロータリー。

ぽ・つ・ん。人がいない。動くものもない。
カラスの泣き声だけが聞こえてきます。

広い道路に、整然と並ぶ住宅、シャッターの降りた商店街には人影はなく、
時折、思い出したように車が通ります。
いったい何処へ来てしまたんだろう?
まるで何十年も前にタイムスリップしたかのような光景です。

小さなバスのロータリーには、普段街中で見るよりはかなり控えめな感じのコンビニがあります。

飲み物を買いにと入っていくと、小さな店舗の奥にはテーブルを囲んで楽しそうに会話をする2人のご年配の姿が。
よく見るとそこは、コンビニに併設された住民のコミュニティスペースでした。

「上郷ネオポリス」は、東京のベッドタウンとして1970年代に造成された住宅地です。
当時賑わっていた街は、マイホームを求めた世代の高齢化と、駅まで遠いために若い人が住まなくなったことで、人口が減少し街の存続が危ぶまれているそうです。

そこで地元自治会や団体、大学からなる「まちづくり協議会」が結成され、街の存続のために様々な取り組みが進められています。その一つが、このコンビニに併設されたコミュニティスペースであったのです。

このロータリーから「埋蔵文化財センター」までは、歩いて2~3分。
廃校となった旧野七里小学校の校舎を利用しています。

使われなくなった校舎の一部が、郷土館や資料館などに利用されるのはよくあることですが、ここは校舎の殆どが埋蔵文化財センターとして利用されています。

「埋蔵文化財センター」は、市内で発掘された膨大な文化財を保管、整理・報告するという役割を担っているので、学校はその役割を十分に発揮できそうです。

シーンと静かな小学校は、
夏休みを思い出させます。

広い校舎の中は自由に歩き回ることができます。
発掘資料が保管されている教室、
職員の方が黙々と一人作業している教室、
給食の調理室はそのままに、
昔を思い出し探検するかのように見て廻ります。

役目は変わっても、以前の面影はそのままに、
静かに現役で働いている小学校です。

ピカピカの廊下
友達と競争しながらモップ掛けをしたのが懐かしい!
6年4組のみなさん、
お元気でお過ごしでしょうか?
廊下に置かれていた縄文の遺物たち。
興味がそそられる造形がいっぱいです!

そして、ここが縄文時代の遺物のある教室。
懐かしい理科室を思い出すような展示ケースは、横浜市内で発掘された土器や土偶などですっかり博物館仕様に様変わりです。

あの頃の理科室に並んでいたのは何だった?
 思い出せません。

同じ顔がいっぱい!

ここでは「顔面把手付土器」の顔が多く見られます。
似てるようでみんな違うのが面白い!
土器に付いている顔はのっぺらぼうです。

着せ替え人形のように、
顔だけ入れ替えてみたい♪
違うタイプのもあります。
同じ時期の同じ地域でも、
造作は自由であったようです。

土偶の顔はいろいろ

縄文時代中期から後期の土偶たちがいます。
一言で横浜と言っても、それぞれ個性的です。

今は顔だけになってしまいましたが、
元々は筒形の体がありました。
きゅっと外に反り返った手先は、
山形土偶の特徴です。
土偶の下半身です。
お腹、脚の表現は線文様で刻まれています。
バンザイしているような土偶です。
顔がちっちゃい~!
以前に紹介した粋なオバちゃん土偶です。

デザイン性あふれる土器

今でも新しいを感じるような斬新なデザインです。

中ほどの造形は、
どこか動物的に感じます。

縄文時代の浜っ子もおしゃれだった?

これらは今で言うペンダントトップです。
それぞれ穴が開いていて、紐を通して首にかけていたと考えられています。

左端は、「元町貝塚」から出土した、縄文時代前期のシカの角を削って作られたものです。

オシャレなデザインが色々あります。

「元町貝塚」は、今はおしゃれな観光スポットとしても知られる元町ショッピングストリートの近くに位置します。
「元町」は横浜開港当時の外国人御用達の店が集まって発展した商店街で、1970年代から80年代に流行した「ハマトラ」で一世風靡しました。

それはちょうどここ「上郷ネオポリス」が、多くのファミリーで賑わっていたころです。
静かな時間が流れるようになった今、こうして「元町貝塚」の遺物がここにあることに、なにか不思議な繋がりを感じます。

昭和という一つの時代、東京のベッドタウンとして多くの人が郊外に住宅を求めました。
毎日、満員のバスや電車を乗り継いで都心へ向かうサラリーマン、家を守るのが仕事であった主婦は、広い庭の手入れをし、商店街で買い物をし、つかの間の立ち話に花を咲かせる。

そんなだれもが平等で、頑張れば幸せになれる、明るい未来が待っている…と信じられた時代。
皆、頑張りましたよね。
改めて、「お疲れ様でした」って言いたくなってきます。

ちょっとノスタリジックな思いに浸りながら、縄文と向き合うことができるそんな場所。
バスに揺られて、行ってみませんか?

最後までお読みいただき有難うございました☆

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