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ノクチルのG.R.A.D.編「まわるもの」説

 どもー。こちらはいれぶんであるよ。こちらはノクチルのG.R.A.D.編を読んでいたら誇大妄想にとらわれた気狂いによる怪文書です。以下注意点です。

・ノクチル4人分のG.R.A.D.編のネタバレを含有しまくりです。
・自分に都合のいい誇大妄想及び拡大解釈の極みです。
・そんなんなのであまり内容を真に受けないでね!「正しい解釈」なんてものは存在しません!
・ゲーム内プロデューサーのことは「シャニP」と呼称します。

以下本文です。

はじめに

 さて、この怪文書を始めるにあたって、とりあえずこれらを掲載しておかねばなりません。

 この怪文書はこれら4つの読み取りを前提として書いてあるので、普通に読むと話がしっちゃかめっちゃかだと思います。そういうわけなので、まずこちらの方に目を通していただいた方がいいかと思います…と言いたいんですがこれ4つとも全部読みますと、さも当然の如く10万字ほど読む羽目になります。そんなもの読んでくださいとか口が裂けても言えませんので、それでもとりあえず読むか~っていう人は…なんか…こう…心で感じてください(投げやり)。内容はやりたい放題だし。そんなこの記事も15000字くらいあるけど…。引き返すなら今です!!

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 あと、当然のように書いてありますが、「まわるもの」というのは上掲のイラストのカード、【まわるものについて】浅倉透からの引用です顔が良い(突然の発狂)!!個人的にはかーなり重要なカードなんじゃないかと思っているんですが、最近プチセレ交換に追加されたので持ってない人は貰おう!
 そんなこんなで、ノクチルのG.R.A.D.編「まわるもの」説をこじつけちゃうぞのコーナー、始めますねーーーー!!!!!!(クソデカボイス)

円香から透へ、諦めへの肯定

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 さて、まずは透のG.R.A.D.編を振り返ります。透はG.R.A.D.編において自分の周囲を取り囲む人々の言葉や反応によって、自分が「息してるだけ」の存在で、苦労することもなく周りを食い荒らしてしまう巨大で孤独な「捕食者」であるかもしれないという感覚を抱いてしまいました。そのことで透は「自分は世界を作り上げている命の営みの中にいない、外れた存在である」という強い疎外感を覚えてしまい、何とか自分にもそういう輪の中に居られるような「命」「心臓」があるんだということを証明しようと、身に合わない無理矢理な仕事や努力を重ねようとして冗談抜きで危うく死ぬ寸前でした。怖すぎるだろ。アイマスなんだぞこれ。

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 しかし、最終的に透は自分がそもそもそんな輪から外れていなかったということをシャニPとのやり取りの中で気付きます。どんな大きさの命も同じように心臓があって、自分が頑張れているのか、自分には「心臓」があるのか、それは自分自身が決めていいのだと思うことができて透は「ミジンコの心臓」を確認できました。それは最初からそこにあった、そして生きている限りそうであるという答えを得た透は最終的に「自分がどんな形をしているって思われていもいい」と言えるようになりました。これは一種の「諦め」です。透は自分が息してるだけで周りを食らい尽くすクジラではないんだということを証明したくて苦しんでいたのですが、「例え周りからそう思われていてもいい、自分には確かに心臓があるんだ」と思えるようになったことから来る希望に満ち溢れた「諦め」と言っていいでしょう。

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 ここで円香のG.R.A.D.編を考えてみると、円香は「何かを諦めることは終わりを意味するものではない」という気づきから、あの知り合いのアイドルの子がアイドルの道を諦めることを「重い一歩である」とポジティブに肯定し、彼女の新たな世界への歩みの背中を支えてあげました。もしここでアイドルでなくなるにしても、これまでの思いや時間は決して無くなるものではないのだと伝え、実際にあの子がその言葉をどう感じたかは描写が無いですが、おそらくはきっとその思い一歩が「軽やか」になったんだろうと思えますよね。泣いた。

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 円香がG.R.A.D.編で導き出したこの答えは、自身がクジラだとかミジンコだとかチゴガニとかだとかと、どういう風に見られるかということに固執せず、前を見据えて海へ飛び出そうという透の「諦め」を支えることができるものに思えます。彼女が軽やかに、湿原に吹く風みたいに踊れるように、円香は透のその一歩の重さを支えてあげられる存在なのかもしれません。
 透はG.R.A.D.編で委員長にその容姿とかアイドルであるということでなく、あくまでその喋りが雰囲気に合ってるからとただナレーションだけを任せてくれて、そのことが透はとても嬉しかったんだろうと思いますが、今まで透のそういう「息してるだけの捕食者じゃない」浅倉透をずっと見ていてくれたのはきっと円香なんですよね。「樋口がわかってるならそれでいい」という言葉はきっと、そんな軽いものじゃないんだね。湿布の貼り方だけじゃなくて!

小糸から円香へ、失敗への肯定

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 次は円香のG.R.A.D.編を考えましょう。円香はG.R.A.D.に挑む少し前に、あの伝説の【ギンコ・ビローバ】に出てきた円香のことを慕う知り合いのアイドルの子に出会います。そこでその子もG.R.A.Dに出場するということ、そして「円香は願い続ければ願いは叶うと言ってくれた、だからこそ終わりにする時は自分の意思で」と言い、G.R.A.D.で勝てなければアイドルの道を諦めるという意思を伝えます。
 このことは円香に深い深い影を落としました。円香がその子にかけた言葉は本当に「諦めないで頑張れ」という思いを伝えるものだったはずなのに、その子は円香の言葉により諦める覚悟を決めてしまいます。円香はこの時、きっと「自分は失敗した」と感じたと思います。円香の思いはあの子に意図しない形で伝わってしまっています。

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 更にまずかったのが、あの子と番組共演した際にあの子が起死回生の策として言い放った「自分は無能系アイドルである」という言葉に我慢ならずそれを否定したことが、あの子に「チャンスを潰された」「自分のことを見下して憐んでいたのか」と取られてしまいます。ここでも円香は自分の思いを伝えることを「失敗」しました。その事は大きく円香に傷を負わせ、シャニPと喫茶店で話した時には「取り返しのつかないことをした」と自分の事を強く責めていました。しかし円香と同じように思いをなんとか伝えようとするシャニPのパーフェクトコミュニケーションにより、円香は「諦めることは終わりを意味するものではない」と気づき、最後の最後にはあの子に自身の重い思いを軽やかに伝えることができ、円香もまた一歩踏み出すことができました。彼女は「失敗」を乗り越えています。

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 さてここで小糸のG.R.A.D.編を考えます。小糸のG.R.A.D.編は、言ってみれば途轍もない「失敗」をします。それは「小糸が自分の考えをシャニPに伝えられなかったこと」と「シャニPが小糸の思いに気づけなかったこと」ですね。これらの失敗が重なった結果、今まで見たことが無いほど2人がすれ違ってしまい私の胃も擦り切れそうになってしまいますが、小糸と珍しくガチ凹みしたシャニPの2人はその後にしっかり話し合い、最終的には小糸の方がシャニPの想定を上回るほどの不屈の再起を見せてG.R.A.D.を勝ち抜きました。「小糸が諦めない限りそこには道が続くんだな」という言葉を物語中にシャニPが言いますが、これ本来シャニPがアイドル側にかけそうな言葉ですよね!でもそんな気づきをシャニPから引き出すほどに小糸は「失敗」しても立ち上がれるのです。一度や二度しくじったくらいで道が途切れるわけではないのだということを小糸は示して見せたわけです。

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 そう考えるとこの小糸の不屈の精神は、円香が抱えてしまった「自分は取り返しのつかない失敗をした」という感情を否定できます。例え失敗しても、いっぱい反省して、いっぱい考えて、何度でもチャレンジして見せるということ、それが小糸のスタンスですね。そして実際に円香は小糸のようにいっぱい考えて、最後まであの子に言葉を伝えることを諦めずに、最終的にはあの子に「あなたの思いは軽くない」と伝える事に成功したと言っていいでしょう。
 円香は本当に優しくて、周りのことをよく考えて行動するが故に、あまりに色んなものを抱え込んでしまいます。それが重過ぎて疲れてしまうこともわかっているからこそ、普段は驚く程に怠惰で冷たく振る舞って他者を避けようとしますが、隣に立つ小糸は色んなプレッシャーに苛まれても決して諦めません。円香はやたらと小糸に甘い時がありますが、そういう小糸の在り方が本当に偉いと思っているからでしょう。…偉い、小糸。飴あげる。そんな小糸の力強い不屈の姿は、思慮深いがために自身の力や思いを小さく評価して物事を諦めてしまいそうになる円香の後ろ向きな背中を優しく支えてあげられるはずですよね。
 円香は小糸がいる時に凄いカッコつけようとしてる時がある気がしますが、それは弱みを見せたくないという部分もあるだろうと思いつつも、小糸の頑張る姿を見ると「自分も頑張らなければ」という気持ちが湧き起こってくる部分もあるんじゃないかなと思いますね。「天塵」で小糸と同じくらい走り込みをしてたのもそういうことなんじゃないかなーって。そんな感じしない?どうだろ?ふふ、わからん。

雛菜から小糸へ、自分本位への肯定

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 さて今度は小糸のG.R.A.D.編です。小糸のG.R.A.D.編では、「何のためでもない」レッスンばかりを続け、何も結果が出せないことに強い焦燥感を覚えていたところにG.R.A.D.出場の話が舞い込み、その場で即出場を決めます。それを受けたシャニPは驚きつつも、そんな小糸の焦りに引っ張られてしまい、「小糸のレッスン姿をインターネットに晒す」とかいう地獄の提案をします。野郎、タブー中のタブーに触れやがった…!当然小糸はそれが嫌で嫌で仕方なかったわけなんですが、「自分みたいなのはそういうこともしなくちゃダメなんだ」という悲壮な思い込みから「嫌だ」とシャニPに言えずに2人はすれ違います。

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 シャニPも何とかそのことに気づいて、2人はちゃんと話し合い反省します。シャニPはビビるくらいに凹んでいて、「絶対してはいけなかったことをした」と自分を責めますが、小糸もまた「自分もちゃんと思いを伝えるべきだった」と反省します。そんな反省から小糸は「自分は『何か』が起きるのを待ってるだけだった」と気づき、「これからは自分で出来ること、成し遂げたいことを考えて進んでいきたい」という答えを出し、「ゆううつな受動態」を捨て去って「自分本位」の在り方でG.R.A.D.を優勝しました。

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 ここで今度は雛菜のG.R.A.D.を考えます。雛菜はG.R.A.D.や「恋ませ」の収録の中で、「自分はどうしたいのか、どうなりたいのか」という正に思春期みたいな悩みにぶち当たりました。周囲から求められるような、いわゆる「大人になる」みたいなものからそういう悩みにぶつかるのは如何にもって感じですが、それでも雛菜はそういう周囲からのプレッシャーにしっかりと応えつつも自分の「しあわせ」を追求するのもやめない、そしてそんな姿を通して自分に関わる「なんか大変な人」たちをも巻き込んで「しあわせ」になる『市川雛菜』でありたいという、強い「自分本位」の覚悟を抱きながらG.R.A.D.を乗り越えます。

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 この雛菜の「自分本位」でありたい、その事が周りの人間すらもしあわせにできる、してみせるという姿は、「自分なんかじゃ『こうしたい』なんて言えない」と感じて縮こまる小糸を勇気付けてあげられます。小糸は兎にも角にも「自分はこうしたい」と言うのが苦手で、怖がって色々と遠慮してしまいます。その事が災いしてG.R.A.D.編でシャニPに「嫌だ」という思いを伝えられずにああいうことになってしまいましたが、これはやはり小糸が「自分本位」でいられないということと言ってもいいでしょう。
 それでも最後にはちゃんと「自分はこうしたい」と思える道を見つけ、それをシャニPにしっかり伝えて、最終的には当のシャニPすら引っ張ってG.R.A.D.を勝ちました。しかもその結果、「あまり変化はない」と思っていたのに、見知らぬディレクターさんに顔と名前を覚えられているという形で、言ってみれば「自分本位」の外側の人間をも巻き込むという形で小糸は「しあわせ」になれましたね。これはとても『市川雛菜』的な在り方です。やは〜〜!!
 雛菜はよくワガママに、「自分本位」なアクションで小糸を振り回しますが、そのことで小糸が嫌な目にあった事はありません。「海へ出るつもりじゃなかったし」で事務所の食べ物やココアを飲み食いしようとした時も静止しようとする小糸を巻き込んで結局2人でおやつを食べていましたが、別にその事をシャニPは咎めず、寧ろそれを見られて謝り倒す小糸の事を不思議がっていたほどでした。更に雛菜はファン感謝祭編でも「自分のやりたいようにやってみんなもしあわせになるならそれが一番いいんじゃない?」と小糸に直接言った事もあります。きっと雛菜は小糸が必要以上に自己主張できない事をわかっていて、小糸の前では「もっと自分を主張していいんだよ」という事を伝えるためにそういう風に振る舞うのだとすら思うのですが、他のアイドルを出せないシナリオであるこのG.R.A.D.編においても間接的にそのことを示してきた気がしますね(誇大妄想)!!実質ひなこいです!!ぴゃは〜。

透から雛菜へ、在り方への肯定

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 最後は雛菜です。雛菜はまず「恋ませ」の収録にあたって、自身の「在り方」を自身に問うこととなります。「恋ませ」で共演することになった、自分の周りの人間やファンのために台本に従って嘘をつくトール、自身のモデルとしてのキャリアを失わせてもおかしくないとしてもトールに自分の思いを伝えたかったモデルの子。この両名のスタンスは言ってみれば「周囲に合わせる大人になるか、自分を通すか」というもので、その両方に触れた雛菜は「自分はどうしたいんだろう、どうなりたいんだろう」という事を沢山悩みます。

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 それでも雛菜は最後には「自分は『市川雛菜』でありたい」という答えに辿り着きます。それは今まで我々をビビらせたり感心させたりしあわせにさせてきたりした、あのどこまでも周りが見えて空気が読めて、それでいて自分の「しあわせ」も追求していける頭も要領も良い『市川雛菜』を貫こうという事です。その後にはG.R.A.D.に挑戦することや「恋ませ」のオンエアを通して、今度は「自分にも『すきな人が自分の全部になっちゃってる人』がいるかもしれない」という可能性に気付いてまた同じように悩みますが、それでもやはり雛菜は『市川雛菜』という「在り方」を貫き通してG.R.A.D.を勝ち抜きました。雛菜凄い!

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 さてお判りでしょうが、ここでは透のG.R.A.D.編を振り返ります。一番最初の項でも書いたように、透は自分にも心臓があって、自分が頑張っているかどうかということは自分自身が決めていいと思えたことから、「自分がどんな形をしていると思われていもいい」という風に思えるようになりました。透は委員長から任された仕事のことやG.R.A.D.へ臨む過程で、「自分は息してるだけ、頑張れていない、生きていない」、つまり「自分には心臓が無いかもしれない」という感覚を強く覚え、それを見つけようとして死にかけました。しかし最後には自分にも心臓があったということをしっかり確認します。そしてそれは最初からあったもので、言うまでもなく透は生きていて、頑張りたくて頑張っていました。そういう意味で透は最初から「浅倉透」という「在り方」であったと言っていいでしょうし、透はそれに気づけたからこそ、「どう思われてもいい」と言えるのです。

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 もう既定路線ですが、この透のG.R.A.D.編が示した結論は、その雛菜の「『市川雛菜』でありたい」という覚悟の大きな支えになれるものでしょう。雛菜は聡いが故に周りがよく見えていて、それに合わせて行動できるということは何度も見えていたものです。最初の頃に感じていたワガママでマイペースなように思えていた印象の雛菜はいったいどこへ…と思ってしまうくらいに諸所の行動からは雛菜の周囲への視線の鋭さを感じます。しかもそれでいて「敢えて空気を読まない」みたいな形で上手い具合に立ち位置を作るというとんでもなく器用な立ち回りをしますが、それでもやはり雛菜はまだ15歳の少女です。
 「恋ませ」やG.R.A.D.の中での彼女のぶつかった「自分はどうしたいんだろう、どうなりたいんだろう」という問いは如何にも思春期の中高生的な悩みで、だれしもぶつかりがちな普遍的な悩みにあの雛菜が直面して悩みこんでしまうというのは、私のようなオタクがすぐ雛菜のことを「つよい」と表現してしまうことの浅はかさを感じさせてきやがります。そんな雛菜ですが、G.R.A.D.編の最後まで『市川雛菜』というアイデンティティを貫く姿勢を崩しませんでした。そういう意味ではやはり雛菜は強くて、それは「誰にどう思われようが自分は自分だ」という風に思えたからその覚悟を持てたのだろうと思います。透にも変わらない「心臓」があるように、雛菜にもまた「心臓」があって、それは絶対に揺るぎません。雛菜が『市川雛菜』でありたいと思う限り、雛菜は『市川雛菜』でいられるでしょう。
 そう考えると、「天塵」での例の生配信の事件の時に、そのライブ直前に透が「いつも通りの私たちでいい」と言ったことを受けて、その後の例の透の口パク暴きを「凄いことが起きそうだと思った」と表現した上で、「透先輩、好きだな」と言っていました。このことから考えても、雛菜が透のことをすき~なのは、透の顔が良いからとかそういうのじゃなく、透のその「不変性」みたいな部分が大きいんじゃないかなと思います。雛菜にとって浅倉透という存在はきっと昔から変わらない4人のリーダー的存在で、そんな透の存在が過ぎ去った過去をネガティブに振り返ってしまいがちな雛菜のことを引っ張ってきた側面があるのかななんて思います。そうであるならば、やはり透がG.R.A.D.編で「どう思われていもいい」「自分が頑張りたいことは自分で決めていい」と先に進むことを決めた透の「在り方」は雛菜に勇気を与えるものなんじゃないかな~。そう思います。

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 ただちょっと面白いのは、実際透がそういうブレない存在だったかというとちょっと違いました。実際透はG.R.A.D.編で悩みながら「赤ジャージの子」になろうとしたりしていて、そういう意味では普通にブレていますよね。そう考えると、雛菜のG.R.A.D.編に出てくる、「周囲に合わせて嘘をつく」立場である男性アイドルの名前が「トール」なのはちょっと意味深いですな~!透だって周りからのプレッシャーなんかで悩むしブレるし変化します。まあそれでも「心臓」は絶対に変わらないって話なんですけどね!流石に雛菜ならそういう部分まで折り込み済みで「すき〜」なのかな?どうだろ?わからん。

「まわるもの」

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 さあ!ここまで来たらノクチルのG.R.A.D.編がどう「まわるもの」なのかはお分かりでしょう。要は透←円香←小糸←雛菜←透といった順番で、それぞれがG.R.A.D.編でぶち当たった問題や悩みに対してひとつのアンサーと言ってもいいようなものを順番的に後ろのメンバーが提示できているように見え、それは透を始点とするなら最終的には雛菜から透に一周します。「まわるもの」じゃないこれ?ということなんですね〜。まあこじつけなんですけど。
 そんなこじつけなんですが、もしこれが本当に真実味のある解釈だとするならば、ちょっと面白い考えが浮かびます。というのは…、

いや…シャニPとかいう男、要らなくない??

というものです。そう思いません?この「まわるもの」説においては、彼女たちは彼女たちの中で支え合って答えに辿り着けるという解釈になってしまいます。そうなるとシャニPとかいう男はいなくても彼女たちの問題はなんとかなったのでは?と言えてしまうんですが、そうです(断言)。全くその通り、彼女たちの関係にシャニPは必要ありません。私はそう思います(独自解釈)。
 …と言ってしまうと語弊が有り過ぎるのでもう少し正確に言います。「幼馴染みアイドルユニットノクチル」がこれから先アイドルとしてやっていくためには、シャニPという男は不可欠なものです。一方で、彼女たちが「仲良し幼馴染み4人組ノクチル」でいるためにはシャニPという男は一切必要ありません。そうですよね?

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 その事を考えるためにここでちょっと話を逸らし、ひとつキーワードらしきものを出します。『サードシーズン』、覚えてますでしょうか?そう!雛菜G.R.A.D.編で雛菜が出演した「恋ませ」が『サードシーズン』でした!この言葉、凄いすんなりと出てきてたんですが、雛菜のG.R.A.D.のテキスト的に大事な意味を持つ『』(二重鉤括弧)がつけられているんですね〜。その時点で怪しいのでこじつけの犠牲になってもらいます(深読み病)。
 この『サードシーズン』というものは、ノクチルのこれまでの物語に適用できるものではないだろうかという風に私は思っています。この区切りについては諸説ありそうなので断言できませんが、ここではひとつ一例として挙げます。彼女たち4人が出会い、簡単には切り離せないような深い絆を築いた幼少期の物語が「ファーストシーズン」。その後、小糸だけが違う中学校に進学し、離れ離れになりながらも最後には一緒の高校に通うことになる物語が「セカンドシーズン」。そしてそこから誰もアイドルになりたかったわけでもないのに何故かみんなアイドルの世界に飛び出してしまった今現在我々オタクが見ている物語が『サードシーズン』。こんな風に考えられます。

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 ここでちょっとおかしな質問をします。「恋ませ」は今回『サードシーズン』です。とするならば、「ファーストシーズン」「セカンドシーズン」は一体なんという番組でしょう?
(どこぞのマイクロソフトが作ってるPC用のOSみたいなふざけたナンバリングでない限りは)考えるまでもなく、それは「恋ませファーストシーズン・セカンドシーズン」のはずですよね。
 では!今『サードシーズン』かもしれないノクチルの「ファーストシーズン」「セカンドシーズン」は?当然それも、「ノクチルファーストシーズン・セカンドシーズン」でしょう。

 これが「シャニPは『仲良し幼馴染み4人組ノクチル』には要らない」ということです。つまり、彼女たちは「最初から『ノクチル』だった」と私は言いたいのです。
 ノクチルの4人はただ一緒にいたいからアイドルやってるだけ、というのは1年目の中でも何度も見えていた彼女たち独特のスタンスですが、この「まわるもの」説では「今アイドルをやっている彼女たちが、アイドルじゃなかった時の関係性のままアイドルとしてぶつかる問題も解決できる」という形を示せます。それはつまり、彼女たちはシャニPから「ノクチル」という名を受ける前から「ノクチル」であったと言っていいのでは?ということです。そう考えるならある一定のラインでやはり「シャニPは要らない」と言えますね。
 この読み取り方に関しては、気が狂った私が最初に世に出した一番最初のクソデカ怪文書の最後のまとめに書いている考え方にかなり依拠してしまっているのですが、やはり私はノクチルの持つ輝きを「最初からそこにあったものの輝き」であると思っています。それはここで導き出した「彼女たちは最初から『ノクチル』だった」という考え方とガッチガチに合致してしまうのでこのようにこじつけちゃうんですね〜(再狂気)。
 しかしそうなると「俺たちのシャニPが不要だと…!?」と全国283億人のシャニP担当Pたちが憤りを覚えることになってしまうので、シャニPのことも考えなくてはなりませんね。

シャニPとノクチル

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 さて宣言通りシャニPのことも考えます。まず、この「まわるもの」説で提示したような彼女たちの関係性は、ネガティブな言葉を使えば矮小かつ閉塞的なものであると言えます。ただそれが悪いってことではなくて、きっとそれはそれでいい関係なんです。マイルドヤンキーみたいな感じですね。まあそれ全然アイマス的じゃねえけど。
 そしてその彼女たちの閉じた関係性に対し、当のシャニPは全く否定的でないことは明らかです。彼女たちはその小さな関係性の中で完結したスタンスによって例の「天塵」での事件を起こしましたが、それを見たあの男は「言葉にできない輝き」を感じていました。シャニPはあれを美しいと感じ、失わせたくないと思っています。
 しかしその一方で、シャニPは彼女たちをあくまでも「幼馴染みアイドルユニットノクチル」として成長させようとしています。別にアイドルじゃなくたって彼女たちは元から「ノクチル」なのに、アイドルになったことでその輝きがボケてしまうかもしれないのに、何故そうするのだろう?ほっときゃいいのに…やっぱりシャニPお前要らないのでは???

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 そんな気がしつつ、またぐちゃぐちゃと考えます。彼女たちのG.R.A.D.の物語そのものや、彼女たちの関係性が「まわるもの」になっているというのはここまで確認してきました。ここで考えたいのは透のG.R.A.D.編です。透のG.R.A.D.編に出てきた委員長は湿原で起こっている命の循環に言及し、「それは世界のどこでも同じように起こっている」と言う風に言っていて、透もまたその事に気づいて自身の心臓を確認できました。
 この命の循環というのもまた「まわるもの」なんですが、それが世界中のどこでも同じように起こっているということ、それはつまりその大小に関わらず全ての物事は「まわるもの」の中にあるということを示します。透が導き出した「クジラにもカニにもミジンコにも心臓があってドキドキしてる」というやつですね。

 さて、ここまでノクチルの関係性が「まわるもの」であるという話をしましたが、この世界そのものが「まわるもの」であるという事もまたひとつの形です。そうだとすると、めちゃくちゃ極端な言い方しますが、彼女たちの関係性はこの世界の形そのものですし、この世界の形は彼女たちの関係そのものです。ただどちらかがクジラみたいに大きく、どちらかがミジンコみたいに小さいかの差しかありません。
 彼女たちの矮小な関係は当然、ミジンコですね。そしてそのままでもきっと彼女たちはしあわせだったはずです。それでもひょんなことから「アイドル」という、ミジンコよりかは少し大きいであろう存在になってしまい、挙げ句の果てにシャニPとかいう男に目をつけられてしまいました。ご存知の通りこの男、あまりにも目敏さが過ぎるので、彼女たちの矮小で閉塞的な「まわるもの」の関係性はこの大きな「まわるもの」の世界のどこにでもあるようなものであって、しかしだからこそその小さな「まわるもの」の関係は大きな「まわるもの」に拡大し得る輝きの可能性を持っていると気づいてしまったのかもしれません。しかもそう感じるのにあたり、シャニPは彼女たちが最初から持ってたその輝きはこのアイドルとしての『サードシーズン』で失われることはないという確信を持っているのではないかとすら感じられることすらもあります。

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 シャニPはそういう風な確信を抱いているのではないか、というか俺もそんな確信を持てる気がするけど?というのは去年から感じていました。「天塵」で劣悪なステージに立たせたり、「海へでるつもりじゃなかったし」で騎馬戦の優勝を求めたりとかそういうやつですね。いつぞやTwitterでギミー先生も「ノクチルは何をやってもノクチルなんだ…」みたいなこと言ってましたし(飛び火)。しかしながら、そういう状況での彼女たちの輝き方を見るとその確信はほぼ正解なのだろうと思えます。みんなそう思わない?どうだろ。兎も角、その感覚に答えられるひとつの答えがこのG.R.A.D.編の読み取りで見えた気がしています。

 シャニPや私がそう感じるためには、この世界がずっとこれまでも、そしてこれからも「まわるもの」であるように、彼女たちもまた「ファーストシーズン」からノクチルで、もしアイドルを辞めるにしても、これからもずっとノクチルはノクチルであるという風に思わなければならないと言えますが、そう思わせてくれたのは何より彼女たちのG.R.A.D.編の物語です。
 思い返してみれば、透と雛菜がG.R.A.D.を通して出した答えは「自分たちがやりたい事をやっていい、他人がそれをどう思っても自分の根底にある本質は変わらない」というスタンスを示します。そして円香と小糸は「失敗しても何度でもやり直せるし、先に進む事で何かが変わる・何かを諦めるにしてもそこには新たな道が続く」という答えを出せています。これらは全く矛盾しなくて、彼女たちは「ノクチルはやりたいようにやるしそれがどう思われようがどうでもいい、それで失敗しようがノクチルはノクチルのまま何処へでも進み続ける事ができる」というスタンスであると思えますし、これは「天塵」での例の事件を起こせた彼女たちの根底にあるものだと思えば頷ける事じゃないでしょうか。そんな在り方を彼女たちは、もしかするとシャニPという存在を介さずに彼女たちだけで出せていたかもしれないというのがこの「まわるもの」説ですが、こうして考えると「天塵」の時点でそうだったようにも感じますね!このG.R.A.D.編でその感覚が強まるのも頷けます。こいつらは最初からノクチルなんだ…。そうなってくると、シャニPは今までずっと彼女たちがそういう答えを出す隣に居たし、それを我々オタクたちはそれを神の視点で見ていたわけですから、そりゃそういう「どこまで行っても彼女たちは変わらない」みたいな確信を抱けるわなという感じです。よね?

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 ここでようやく本題です。シャニPはそういう確信を抱いているとするならばこそ、彼女たちをアイドルにしたと言えますよね。そうだからこそミジンコなんかじゃなく、でもクジラ程大きくなくたっても、国際条約で保護されるような雄大な湿原じゃなくても、そこらの潟に踊るチゴガニくらいのものでいいから、騎馬戦で優勝しなくてもいいから、何より彼女たちの「まわるもの」の関係性がこの大きな「まわるもの」の世界の中で、この世界と同じように美しく輝いていたんだという事を少しでも大きく世に刻み付けたい。何故なら昔からずっとその輝きを持ち続けてきた彼女たちならきっとそれができるからというのが、シャニPのプロデューサーとしてのスタンスなんだと思います。というか俺がそう思いたいんです(白状)。
 そして、アイドルのプロデューサーを生業にするシャニPにとって、その輝きを少しでも大きく見せる手段が「アイドル」だった、それだけの話なんですね。つまりこの男が彼女たちを「幼馴染み4人組アイドルユニットノクチル」にしたのは、ただ「自分がアイドルのプロデューサーだったから」「この4人がたまたま283プロにアイドルになりに来たから」「こいつらならそういう『言葉にできない輝き』を見せてくれると思えたから」、きっとそれ以上の理由なんてありません。もしシャニPが某ゲームのトレーナーだったら今頃ノクチルの4人は騎馬戦の時のフォーメーションでパドックを歩いているでしょう。んな訳あるかい。いやあるかも。ふふ、わからん。でもそれは、ある意味でノクチルの基本的なスタンスである「『アイドル』はみんなで一緒に楽しむための手段に過ぎない」というスタンスと似てますよね。やはり天才だなこの男。おそらく無意識にノクチルの在り方に沿っています。シャニPもまた、「アイドル」を彼女たちを輝かせる手段のひとつとして用いてるだけなんですね、きっと。

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 しかしながら、シャニPがそういう立場だから勝手にそんな確信を抱いてそうしたというのは、シャニPのエゴであるとも言えるでしょう。これに関しては否定しようがないのですが、そんな話をしてしまえば、このゲームは「アイマス」だぞ!という話になってしまいます。このゲームがアイマスである以上、シャニPは必然的にアイドルのプロデューサーであらざるを得ないし、俺のようなオタクの視点として欲求を代替するアバターの役割を果たさざるを得ないのです。つまりシャニPのエゴは俺のエゴでもあるのです。
 そう考えるならば、再度になりますが、確かにシャニPは彼女たちが「仲良し幼馴染み4人組ノクチル」である事には必要無い一方、彼女たちが「幼馴染みアイドルユニットノクチル」であるためには必要なのです。だってこいつがアイドルマスターシリーズのアイドルマスターシャイニーカラーズというゲームのプロデューサーであるが故にこいつらは(というか全ての元凶の透が)アイドルになったんだから。その上で私のような気狂いのオタクみたいな視点による彼女たちの魅力を認識しつつ、彼女たちの小さな輝きを少しでも大きく美しく見せようという一種のエゴを抱きながら、「アイドル」という手段を通してその輝きを我々に見せてくれるのはこの男しかいないんです。そしてそれは正に「アイドルマスターシャイニーカラーズ」というゲームがアイドルという存在を通して私みたいなオタクに見せたいことなんでしょう。いややっぱりシャニP必要だわ。シャニPが…シャニマスなんだ…(意味不明)。ただ自分が良いと思ったアイドルを少しでも世に広めたい、そういう感覚を持つシャニPもまた非常にアイドルマスターのオタク的ですね。俺と違って高身長で(おそらく)イケメンだけどな!!ふぁっきゅー!!

つづく、ノクチル

 いかがでしたか???(アフィブログ特有の挨拶)いかがも何もあるかっての。ここまで書いてきたことは全て憶測の域を出ない妄言です。しかしここまでごちゃごちゃと話を膨らませられるとは…新たな才能が開花したかもしれねェ…(勘違い)。
 あまりにもごちゃごちゃしてるのでザックリ言うと、「何の変哲もない幼馴染み女子高生4人組はアイドルになる前から完成された関係性のノクチルだったし、今もこれからも彼女たちはノクチルで、その事を理解してる外野の(オタクの欲求の代理人である)シャニPはアイドルという手段を通して少しでも彼女たちの持つ輝きを遠くへ届けたがっている」という形がこの「まわるもの」説で見えるんじゃない?と言う話がしたいだけです。それだけ!

 何度も言うように、やっぱり彼女たちはわざわざアイドルでなくてもきっと良かったはずです。彼女たちはどこにでもあるような小さな「まわるもの」の関係として完結できていますから。
 それでも彼女たちはひょんなことから海に飛び出してしまい、その小さな「まわるもの」は、日が明けたり暮れたり、季節が巡り巡ったり、命が終わったり始まったりして時が流れていく、そういう大きな「まわるもの」の中に確かにあって、しかもそれと変わらない輝きを、今までもそしてこれからも放てるという可能性をシャニP(と俺たち)に示す形、つまりアイマスの「アイドル」として現れてくれたってわけです。ありがて〜。

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 ただ、こっちをそんな気持ちにさせてくる割に、ノクチルはよくコミュの中で「終わり」みたいなものを匂わせてきます。彼女たちの古い記憶があやふやになっていたり忘れ去られていたり、【思い出にもならない】や【雨情】で小糸が物事の終わりを寂しんでいたり、雛菜の後ろ向きな姿勢なんかがそうですよね。
 身も蓋もないですが、実際ノクチルもいつか終わるでしょう。彼女たちが永久にアイドルであるとも思えないし、メタな話をすれば「アイドルマスターシャイニーカラーズ」という作品が終わればノクチルというアイドルユニットも終わりです。こればかりはしょうがないですね。
 しかし、本当の意味で終わるか?と言えば違います。「人は2度死ぬ」という言葉がありますが、2度目に死ぬのは「誰かに忘れ去られた時」です。もし彼女たちがノクチルというアイドルを終えたとして、コンテンツの供給が我々に届かなくなったとしても、やっぱり誰かは彼女たちの事を長らく覚えているでしょう。俺とか。しかももしかしたらノクチルのことが好きなオタクが将来、もしかしたらノクチルの影響を受けた新しい何かを世に出すかもしれませんよね?これって生と死の循環、正に「まわるもの」じゃないですか!季節が終わらずに巡るように、彼女たちもまたどこまでも「まわるもの」のはずです。そしてそんな答えは彼女たち自身がこのG.R.A.D.で導き出せているはずです。
 「物事の終わりと始まりは渾然一体としていて、世界はそうやってまわりまわって道はどこまでも続く」というのは彼女たちのG.R.A.D.編全てに見えるテーマであると私は読み取りましたが、やはり何よりその事が彼女たちのありふれた関係性とその存在の絶対性、そしてこの先の彼女たちへの期待を強めます。そしてそうだからこそ、シャニPも、俺も、彼女たちの輝きをずっと見ていたくて、もっと輝いて欲しくて、そうしてノクチルに脳をやられちまったって訳です。その結果がこの怪文書。誰か助けてくれ〜〜!!


 もう色々わけ分からなくなってきたので終わり!相変わらず話を綺麗にまとめられません。まあ取り敢えずこれだけは言わせてくれ…。

ノクチルのG.R.A.D.良すぎんか?????

 あまりにも良かったのでこんなぐちゃぐちゃの記事たちをまとめ上げるのに実装から1ヶ月半以上もかかっております。シャニマスくんの出してくるストーリーが面白過ぎるのが悪いんだぞ!
 ここまで読んでくれた人、もしかしたら前の4つまで全部読んだ人、こんな虚言妄言オンパレードのためにお時間頂きありがとうございました!もっと良い時間の使い方、あったんじゃないですか…?(小声)
 でもやっぱりありがとう!余り散らかしてる秘密のメモ帳あげる(在庫処分)。

 ノクチルという連中は仲良しの幼馴染み女子高生4人組が偶然アイドルになったに過ぎません。それは大きな「まわるもの」の中にある小さな「まわるもの」。
 そんな小さい「普遍」的な存在が、色の変化というテーマを持つG.R.A.D.編を通してその「不変」性を示したということ、それはどこまでも美しく輝いて見えました。
 そしてそれが、今までそうであったように、これから先、ほんの少しでも大きくなってもっと美しく輝いてみせることに期待を抱かざるを得ません。例え彼女たちの青春が終わり行くとしても。
 やはり彼女たちはどこまでも…「いつだって僕らは」「ノクチル」で、そのままこの先も「ノクチル」は【つづく、】のでしょう。そしてそれはもっともっと輝くはずです。そう思いたい!だからこそ最後はこれに尽きますね!!

「いっぱい生きろ」!!ノクチル!!!

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この世において、とりわけ青春時代が過ぎ去ってしまったときに、幸福であるためには、間もなくその一生が終わるであろう一人の孤立的な個人として自分を感ずるだけでなく、さらにこの生命の流れの一部分が最初のそもそもの胚種から遠い未知の未来まで流れつづくものであることをみずから感ずることが必要である。

バートランド・ラッセル「幸福論」より


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