小説「よくあるパンデミック」その4

※筆者の悪夢を元にしたゾンビ物です。グロ描写や胸糞展開あるので苦手な方はお控え下さい。

コンビニに戻り、奥のスタッフルームに入る。三兄弟の一番下の子は泣き止んだらしく、静かに寝ていた。電気は消してあり、テーブルには懐中電灯が、光が外に漏れないよう雑誌を被せられた状態で置いてある。ずっと弟を見守っていたのだろう、少し疲れた顔の長男が話しかけてきた。

「どうでしたか……?」

直接的な言葉は使わない聞き方。まあ当然だ。

「ゾンビには出くわさなかった。場所もちゃんと分けておいたよ。」

三兄弟の真ん中の子の死体を、ゾンビ達とは違う場所に埋葬して欲しいと頼んだのは彼だった。リスクはあるが、痛いほど気持ちは分かったので、希望通りにした。死体を1人ずつ、公園まで戻って埋める作業は案外時間がかかり、店の時計が今や深夜二時になっていた。

「そうですか……ありがとうございます……」

「君も寝なさい。見張りはやっておくから。」

それ以上の会話は必要ないだろう。

「ごめんなさい、ちょっと寝る前にトイレに。」

長男が去った。スタッフルームで寝息を立てている三男に目をやる。

ゾンビには出くわさなかったと言ったが、正確には「目覚めているゾンビには」だ。いびきをかいている血塗れの男を見かけた。ヤツらには睡眠があるらしい。しかし朝になれば、窓が割れている上に床も天井も血の匂いのこの店は、安全とは言えない。私はちっとも眠気を感じないので、食料や飲料水をリュックに入れておくとしよう。

長男はまだ戻らない。便所の方から鼻をすする音がする。聴覚はとっくに元に戻っているのにも関わらず、聞こえてしまう。


夜明け前に二人を起こし、店を出た。水やアルコールを私のリュックに入れ、二人のリュックには栄養機能食品や衣類を入れてある。目的地は200メートルほど離れた所にあるコンビニだ。長男がスマホを使って見つけてくれた。

歩いて向かう途中、三男が話しかけてきた。

「おじさん、重くないの?」

彼は振り返っている。先頭は長男で、私がしんがりだ。

「大人だからね。これくらい平気だよ。」

「ゾンビだから、ですよね。」

長男が振り返らずに指摘した。あえてそれには触れないようにしていたのに。

「ゾンビに噛まれても平気なの?」

「平気じゃなかったけど……今は平気かな。」

「なんで?」

「さあ……俺の甥も少し理性が残ってたし……人によるのかも。」

三男が表情が強張った。私は余計なことまで話してしまったようだ。

「……そういう体質の血筋なのかも?」

長男の助け舟に感謝だ……

「血か……それは考えたこと無かったな。」

「医療機関が残ってれば調べられるかも知れませんね。」

兄は普通のゾンビになったことを思い出したが、身内の死を話題にするのは今は辞めておこう。

「ねえ、あれ!」

三男が指したのは進行方向左手、道路を挟んだ向かい、鍵屋と思われる店舗の窓に、人がもたれかかって倒れている。

「大丈夫、距離はあるから、動き出しても対処できる。」

今持っている武器はコンビニから持ってきた脚立だ。今の筋力なら軽々振り回せる。

「そうじゃなくて!」

三男は怯えていた。長男が駆け寄りなだめる

「1人だしきっと死んでる……すみません、あいつの様子を見るの手伝ってくれますか?」

あいつ?

「知り合いか?」

「違います。でもマスクに見覚えが……僕らの家を襲ったヤツらです。」

マスク?家を襲った?気になることだらけだが、それは後にしよう。

体型と服装から、やはり男だろう。鍵屋の前に倒れている彼は、ガスマスクのようなものを顔に付けていた。

「聞こえますか?」

ピクリとも動かない、寝ているようにも見えない。屈んで顔に近づく。

「気を付けて下さい、そいつらは変なスプレーをかけてきます。それで母が感染しました。」

一緒にいる三男は明らかに震えている。長男の警戒の仕方も尋常ではない。

「まあ、多分死んでるよ、この人。」

私は男のガスマスクを外した。


目的地のコンビニにはゾンビがいなかった。その代わり店内が酷く荒らされていて、死体が4つも転がっていた。

「とりあえず日中はここで過ごそう。二人は使えそうな物資を集めて。マスクとゴーグルと手袋は忘れずに。」

兄弟に店番を任せ、私は死体を処理した。筋力や感覚の強化はもう自由自在で、背伸びをするように容易く、私は超人になれた。耳をすませば建物近辺で動く生き物の音が聞こえ、ゾンビと思しき足音には店の死体を鈍器にして先制攻撃をしかけた。

店に戻ると、スタッフルームで兄弟が眠り込んでいた。どうも私は信頼され始めているらしい。日が落ちるまでまだかなりある。未だに眠気を全く感じないので、先程剥がしてきたガスマスクを調べた。長男がスマホを点けっぱなしにしていたので、ガスマスクの機能やメーカーを検索できた。

外の足音が何人か、コンビニを素通りしていった。生存者ならコンビニには寄るはずだ。

ガスマスクの目撃情報を調べたら、ちらほらとヒットがあった。SNSへの投稿で、『このマスク付けた連中はテロリスト』と共に物陰から盗撮した写真が載せられていた。それがそのアカウントの最後の投稿ではあったが。

外の足音は増えたが、近寄ってくる気配はない。殺したゾンビ達を店から離れたところに詰んでおいたので、そちらに引き寄せられているようだ。

三時間が経とうかという頃、兄弟の下の子がうなされて起きた。

「うわっ!」

釣られるように、長男も目が覚めたようだ。

「おはよう、二人とも。」

「ごめんなさい、寝ちゃってました。」

長男はばつが悪そうだ。昨晩のように、見張りをするつもりだったのだろう。

「別にいいよ。片付けは終わったし、店の周りは今のところ安全。」

「ありがとうござい……あ、俺のスマホ……」

「ああごめん、少し借りてた。俺のは壊れちゃったから。」

投げ捨てたのは私自身だが。

「何か調べてたんですか?」

「このマスクをね……通販サイトにすらない、でもテロリストが着けてるって目撃情報は出てきた。君らの知ってる情報と照らし合わせたい。」

二人は顔を見合わせた。トラウマに触れる事になるのは分かっていた。しかし生き残りを真剣に考えるならば、情報は必要だ。

沈黙を破ったのは、三男の腹の音だった。

私はつい、笑ってしまった。二人も釣られて微笑んだ。

「食べてからにしようか。」


「親戚の結婚式から帰ったばかりで、家には俺たちも、両親もいました。」

三男も静かに聞いている。長男は席を外してもらおうとしたが、私といる方が安全なのと、何より本人が自分も話に加わりたいと言ったのが理由だ。

「チャイムが何度も鳴らされて、俺が覗き窓から見ると、マスクをつけた人が何人もいました。」

テロリストらしからぬ手口だ。

「二人とも教師だからか、両親の判断は早かったです。父がドア越しに連中に警告して、その間に俺が通報、母は弟たちを先導して庭から出ました。」

その際に武器を手にしたという。次男はシャベル、三男はバット、彼らの母は催涙スプレーを所持していたという。感心するほど防犯意識が高い。

「でも外には連中の仲間が待ち伏せしてて、母が変なスプレーをかけられました。弟がシャベルでそいつを撃退したんですが、母の様子がおかしくて。」

長男の声が少し震えてきた。三男が助け舟を出した。

「でね、お父さんが来て、『お母さんは任せて、早く逃げなさい』って。それで俺達、塀をよじ登って、逃げてきたの。」

さっき言ってたスプレーによる感染か。マスクの一味はこの一家を皆殺しにするつもりだったわけだが、テロリストが一般家庭を襲ったのが少し気になる。

冷静さを取り戻した長男が説明を続けた。

「三人で交番まで向かう途中、マスクの人達を何人も見かけました。それと、母のように様子がおかしい人達も。何人かは襲ってきたから、三人で撃退して、その辺のマンションの地下駐車場に隠れました。」

その後は外が豪雨になっていたこともあり、夜まで身を潜めていたという。

「兄ちゃんがスマホ持ってて、学校とか友達とかに電話したけど、誰も出なかった。」

雨が止んだ後、三人は食料と水を求めて外に出て、近くのコンビニに向かった。そしてそこで……

「辛かったね。よく頑張った。少し休憩を入れようか。」

「ううん、おじさんの話が聞きたい。」

三男と目が合った。真剣な目だ。長男もそれを見て、「お願いします。」といった。

「……分かった。」

私はスポーツアリーナでの出来事、コンビニに来るまでの経緯、先程調べた事を話した。途中何度か、二人は恐怖を感じている様子だったが、知ることから逃げようとはしなかった。

「ゾンビは怖いけど、殺す事はできる。本当に怖いのは、それを仕掛けた人間だ。生き残った人間にやるべき事があるとすれば、テロリストの排除、つまりは、」

「戦争ってこと……?」

空気に緊張が走った。

「そうだ。もちろん武器を取れなんて言わない。ただ俺は戦うことになると思う。君らは、自分の身を自分で守らなくちゃならない。」

三男はまだ小学生だが、事の大きさを感覚的に理解していた。長男が彼の頭を撫でながら言った。

「一緒に生き残る方法を、考えてくれますか?」

「ああ、そのつもりだよ。」

私達は「他の生存者を探す」方向で一致した。人は社会を作らなければ生きていけないからだ。まあ私は人と呼べるか怪しいが……

「さっきSNSを調べてる時に、生存者らしき投稿を見かけたから、コンタクトを取ってくれ。」

「ええ……でもテロリストの罠かも。」

「だから出来るだけバカのフリをしなさい。釣りやすいと思わせるんだ。汚い人間なら甘い言葉をかけてくるから。」

「おじさんってひねくれてるね。」

長男が弟をたしなめる間、私は静かに凹んでいた。自覚はあるが直に言われると流石に来るものがある……

SNSは長男に任せ、私は三男と店内に向かった。

「別に見なくてもいいぞ。」

「強くなりたいから、見る。」

三男は私が店の床や壁や商品についた、血の汚れを舐めるのを気持ち悪そうに眺めていた。

「美味しい?」

「俺は吸血鬼じゃないぞ……感染すると体が痺れてくる。体が火照って、感情が昂るんだ。頭がやけにすっきりする事もある。」

 流石に三男は引いていた。

「と、とにかく、紙コップを持ってきて。」

三男を食器用品の棚に向かわせて、私は左手を握りしめ、爪を手のひらにくい込ませた。簡単に血が滲む。そして思ったより、というより全く、痛くない。

「ええ、何やってるの?」

もう取ってきたのか。仕事が早いな。

「今度は自分の血を飲むんだ。どんな味かみてみる。気持ち悪ければあっち向いてなさい。」

三男が後ろを向いたのを確認し、私は手のひらの血を数滴、舌に垂らして飲んだ。

「ひぇっ!」

痺れがない。ただの血だ。私の並の感染者とは違うということか。ひょっとすると、甥の血も同じ味がしたのかも……

「お、おじさん……」

それにしてもさっきから三男のリアクションが聞こえる。

「なあ、本当に気持ち悪いなら無理しない方が、」

「これ見て。」

「ん?」

三男は私を見ていたわけではなかった。彼の指さす先には大きめのゴキブリがいた。

「虫が苦手?」

と言いかけて、三男が何に怯えているのかに気付いた。ゴキブリは、共食いをしていた……それも、仲間のゴキブリを生きたまま食べている。

「紙コップ、ちょうだい。」

私は返事も待たずに三男の手から紙コップ袋ごとをひったくり、素早く一つを取り出して、勢いよくゴキブリの上に被せた。

「は、速いね……」

「中で暴れてる……食い破る気だっ!目を閉じて!」

三男が目を瞑るのを視界の端に確認しながら、私は紙コップを抑えていた右手で、紙コップごとゴキブリを押し潰した。ぐしゃっという不快な音。

「殺したの?」

「ああ、こいつ感染してるかも……痛っ!」

右の手のひらに鋭い痛み。ゾンビ化した方はまだ死んでおらず、私に噛み付いているようだ。

「このっ!」

握りつぶすと、手の中で虫が静かになっていくのが分かった。

「虫にも伝染るんだ……」

紙コップに死骸を入れ、私はそれを部屋の隅に置いた。噛まれた所から痺れが右手首まで広がってきた。人間のものより激しい痺れだ。虫に感染したことで、ウイルスの変異が起きているのだとしたら、いくら私でも不味いのではないか?

「ここはもう安全じゃない。殺虫剤や虫除けを探してくるんだ、今すぐに!」

「う、うん!」

犬の感染例から、コンビニ周りの音はネコやカラスまで警戒していた。店内にゴキブリやクモがいるのには気付いていたが、音が小さく数も少ないためほぼノーマークだったと言っていい。

「うわぁっ!」

今度は長男の叫び声だ。立ち上がり、こちらに走ってくるのが聞こえる。

「どうしたっ!」

「アリが、たくさん湧いて……共食いを始めてて。」

長男が無事でほっとしたが、ゴキブリとタイミングが重なったのが気になる……感染した虫がどこかから入り込んだのだろうか。

「お兄ちゃん大丈夫?噛まれてない?」

「平気だけど……まさか虫もゾンビに?」

この兄弟は本当に察しがいい。

「さっき俺が噛まれた。始末したけどまだ右手は痺れてる。二人は虫除けを体に塗って、ここを出る準備を。」

「日没までまだありますが、」

「外のゾンビは俺が何とかする。何か嫌な予感がす……」

私の驚きは叫び声ではなく、沈黙だった。

ふと目をやったコンビニの窓に、びっしりと蛾が群がっていたのだ。兄弟達も戦慄しているのが横目で見えた。

「あの……これ、外に逃げられます?逃げるのは賛成なんですけど。」

「ねえ、裏口から出よ?」

「静かに。音を聞いてみる。」

私は目を閉じた……よし、搬入口の外には虫もいない……しかし、聴覚を研ぎ澄ませたせいか、かなり遠くの音まで聞こえた……ゾンビ達の歩く足音、倒れる音、死体を貪る音、そして、声……何か叫んでいる女性の声だ……この声、どこかで……

「……あははは、見つけたんだね!ありがとう虫さん達……」

まさか!声は近づいてきている、そして、四足で走っている。

私は目を開け、兄弟達と目を合わせる。数分後には突入されるだろう。

「搬入口の方は安全だ。急げ!」

二人が駆けだし、私がそれに続こうとしたが、背後の窓の向こうから風を切って何かが迫る音がして、私は思わず振り返った。また、あの女の声が聞こえた。

「……足止めしな……」

 さらに虫を送り込む気か、と思った次の瞬間、蛾のカーテンもろとも窓ガラスが割れた。

「うわっ、」

 商品棚に隠れて見えないが、獣の猛る声がする。ネコかイヌか、判別ができないくらいに濁った雄たけびだ。窓が割れたことで、蛾も侵入してきた。私は近くにあった酒瓶をつかみ、店の奥に退避した。くそっ、一分も経ってないのに!

「今の音は何?」

「ゾンビに窓を割られた。荷物は捨てろ、武器と携帯だけ持って先に行け!」

 私はスタッフルームのテーブルを引き倒し、入ってきたドアに背中で押し当てた。二人が搬入口を開けた瞬間、ドアの向こうにゾンビが到着したのが聞こえた。四足歩行が二体。さっきより増えている。三男は私をチラリと見た。不安そうだ。

「強くなるんだろ?」

 私は、とても苦手なのだが、微笑んで見せた。

 ドン!!!と背中側から体当たりの衝撃が来た。兄弟たちは外に出た。二人に迫る足音や羽音は聞こえないが、時間の問題だろう。さっさとこいつらを殺して追いつかなくては。

「こいよ化け物!!」

 私の叫び声に張り合うかのように、バリケードが何度も揺れた。ドアがみしみし鳴る。ひっかく音もする。さらに耐えている間に、ゾンビが向こう側に集まってきた。今は五匹。衝撃の頻度が上がってきた。

「まだまだ!そんなんじゃ足りねえよ!!」

 頭が熱い。噛まれた右手の痺れがひどくなっている。ふと、興奮した時にこの痺れはひどくなるな、と思った。私は高笑いした。何故だかわからないが、笑いがこみあげてくる。笑いながら、衝撃に耐え続けた。

 ドアの向こうで犬が一匹、倒れた。体当たりのし過ぎだろう。今や聴覚はかつてないほど研ぎ澄まされ、ドアの向こうの状況が音だけで正確にわかる。体当たりの勢いが弱くなっている犬と猫が一匹ずつ。こいつらはややふらついており、そのうち倒れる。だが……

「みんなもういいよー、あたしがやるから。」

 四体が下がったのがわかった、そして……来る!

 私がドアから離れた瞬間に、バリケードが吹き飛ばされた。酒瓶を手に、粉々になった入り口に向き合う。新手だ……いや正確には、

「昨日ぶりだね……」

 飼い主の女は、今や犬の体ではなかった。どうやったのかは知らないが、首から下は、別のゾンビ、男性の肉体だった。そして腰の後ろあたりから、別の人間のものと思われる、下半身が生えている。

しかし私は不思議な程に、落ち着いていた。

「まるでケンタウロスだな。あの犬はどうした?」

女は泣きそうな顔になり、

「食べた……食べるしかなかった……」

そして笑顔になった。

「おかげであの子と一つになれた……鼻がすっごく良くなって……あんたを匂いで……見つけた……」

四本の脚が動き出し、笑いながら女はこちらへ走ってきた。人間の脚とは思えない初速だ。

同時に私も、女めがけて跳躍した。脚を丸めてドロップキックの体勢をとると、飼い主女の驚いた表情が見えた、回避せず向かってくるとは思わなかったのだろう。こちらだっていい加減ゾンビの相手には慣れてきているのだ。頭部を蹴り潰せばもう蘇ってはこないはずだ。

 一瞬、体が動かなくなった。

 女は体をひねり、私との直撃を避けた。私は着地にやや失敗し、体のバランスを崩した。そのすきを見たゾンビ猫が二匹、襲い掛かってくる。

「手を出すな!」

 私は酒瓶で二匹をまとめて弾き飛ばした。しっかり頭をつぶしたので、飛ばされた二匹は起き上がって来なかった。

「また、止められなかったな。」

「よくも!」

 飼い主女が暴れだした。四本の脚でスタッフルームをめちゃくちゃに蹴り壊していく。破壊力はあるが攻撃が単調なため、いなすのは難しくない。問題は、ときおり体が麻痺することだ。あのゴキブリのせいだろう……特に右手がひどく、酒瓶を持ってられない。なら、

「ちょっとは落ち着けよ、これ飲んでさ!」

 酒瓶を女に投げつけた。頭をかばって出した腕に当たり、狙い通り瓶が割れて酒が女にかかった。あとは火を起こすだけだ。

「くそっ、」

 すでに私は女の背後に回り込んでいた。まだ痺れが回ってない左手で手刀を作り、女のうなじ目掛けて跳んだ。

「うあっ!」

 叫んだのは私の方だった。痺れではない、何が起きたのかすぐには分からなかった。

「あはははは!今度はお前が串刺しだ。」

飼い主女の背中は原型を留めないほどに歪み、そこから折れた骨が何本も突き出して、私の体の至る所に刺さっていた。

同時に、痺れが全身にまわり、体が全く動かせなくなった。

「お前もしつけてあげる。」

女の首はフクロウのように真後ろを向いていた。後ろ手で器用に自分の骨を折り、串刺し状態の私を床に落とした。そこに二匹のゾンビ犬が近付いてきた。

「まだだめ!ステイ!」

 犬達は主人に逆らえないようで、その場に立ち止まってはいるが、二匹とも視線はしっかり私に向いている。

「いい子たちでしょ?犬も猫も虫も、みんな最初は私の言うことを聞かなかった……だから叩いたの、こんなふうに!」

 女が私の顔面を殴り始めた。何度も、何度も。髪をむしられ、両目をつぶされ、私の血が部屋に飛び散った。。痛みはあまり感じないが、聴覚は生きていたので、自分の筋肉がつぶれたり、骨が軋んだりする音が聞こえて、不快だった。

「ほーら、だんだんいい子になってきた……あはは、あはははは!」

体の痺れさえ無ければ、目が見えずとも反撃に転じることはできたのだが。私は女の罵る声と、肉体の破壊される音を聞きながら、策を練ることしか出来なかった。

「あれー?もう死んじゃったかな……でも声は聞こえてるよね?」

女の声が耳元で聞こえた。

「私も一回死んだ時、音は聞こえてた。噴水のとこでお前にやられて、寄ってきたゾンビに食われて。」
 
なら今私は、死んだのかもしれない。

「そんで私思ったの。あの子が死んだ時もそうだったのかな……私の声は聞こえてたのかな……あれ、私ちゃんとあの子にさよなら言ったかな……ううん、私あの時叫んでただけだったじゃん……なんで?私バカじゃん?そんでこうやって食われてるのバカじゃん、バカじゃん!」

悲痛な声だった。私は初めて、この女も元は人間だったことに気付いた。

「そしたらなんでかな、私体を動かせたの。あの子の体を。それでそこにいたゾンビみんな殺して食って、私は生き返ったの。」

女の声は再び狂気を孕んでいた。

「それでね!殺したくてね!でも犬だから!殺せなくてね!食べてね!大きくなってね!!殺したくてね!!」

私の時と同じだ、感情が昂ることで、ゾンビに近づいていく。

「ああああ!いい子いい子!たくさんお食べ!早く大きくなってね!私が乗れるくらい!!」

控えていたゾンビ犬達の気配が変わったのが呼吸音で分かった。飼い主の発狂に怯えている。

「ご飯だよ、ご飯だよ!!」

飼い主女が私から離れ、動いた。バタバタと暴れる音。犬の悲鳴と、咀嚼音。

「食べて!大きく!殺したい!食べて!大きく!殺したい!」

ふと、私は体の痺れが治まっていることに気づいた。上体を起こせる。骨や筋肉が急速に再生しているのが音でわかる。目はまだかかりそうだ。

「あー違う違う、人間を食べなきゃ、人間には勝てないから……」

飼い主ゾンビが振り返り、こちらを見ているようだ。しかし私はまだ本調子ではない。痺れは消えたが、さっき骨に貫かれた傷がまだ完治していない。

「おいしそう、いただきます、ごちそうさま、ありがとう……」

 四本の脚を曲げ突進の体勢を取った……が、飼い主ゾンビはそのまま膝をついてしまった。

「あれ……あれえ……どうしたの、げんき、ないよ……」

 私は小さく噴き出した。そうか、そういうことか。

「食べる前に手を洗わないからだよ。」

 飼い主は私の血が付いた手で肉を食べた。ところが私の血には、虫の毒が入っていた。つまり飼い主は今、毒で麻痺している。毒と呼んだが、ウイルスの変異体なのかもしれない。

「びょうき……わたしびょうき……」

 脚の再生が終わったようだ。少し動かしてみると、カツンと何かに当たった。兄弟のどちらかが落としていったスプレー缶だろう。ちょうどいい。これでほぼ確実に飼い主を殺せる……私は缶を拾って立ち上がり、音を頼りに飼い主に歩み寄った。

「お、お前は!」

 飼い主女の意識はまだ消えてなかったらしい。私を襲おうとするが、体が麻痺して少し身をよじる程度だった。

「なんで……?!このっ、動けよ脚!」

 私は右手で手刀を作り、渾身の速さで振りぬいた。女の頬骨を爪がかすった。

「熱っ、」

 摩擦で火を付けるのには成功したが、振るのが速過ぎて右手の指先が欠けてしまった。

「熱い……何?火?!いやあああ!」

 火はすぐに女の体を包んだ。断末魔が聞こえる。多少熱さを感じるのか……発狂したままの方が楽に死ねたろうに。

「この!よくも!よくも!殺してやる!呪ってやる!!」

「そうか。好きにしてくれ。」

 やはり熱を帯びた感情は苦手だ。もう行こう。兄弟たちに追いつかなくては。

「おい!待てよ!いいこと教えてやるよ!!逃げた二人の行方だよ!!」

 身を焼かれながら女が叫んだ。何を言ってるんだ?

「匂いで分かる!二人とも今!ゾンビの近くにいる!」

 途端に私の聴覚が鋭くなった。数キロ圏内のあらゆる音の中から子供二人が逃げる足音を探した。

「駅の方!!ゾンビがいっぱい!!バカだね!!あははは!!!」

 聞こえた。体重差のある二人の足音……そしてなんと、少し離れた位置に、引きずるような足音、うめき声も聞こえる。

「……にいちゃん……」

「……ここはダメだ、別の道を探そう……」

肉が裂ける音がして我に返った。麻痺しながらも、飼い主女は何やら自らの体を引きちぎろうとしている。恐らく、

「首か。」

「うがァ!!」

ブツンと音がして、凄まじい速さで何かが私の方へ飛んで来た。気付くのが一瞬遅ければ危なかったが……想定内だ。

私は左手に持っていた殺虫スプレーを、飛んできた物体に突き立てた。

「んがっ!」

音と感触で、女は噛み付こうと口を開いていたこと、そこに缶がちょうどハマったことが分かった。そのままスプレー缶ごと、燃え盛る肉体の方へ投げ返した。私が素早く搬入口から出ると、ドアの向こうで爆発音が聞こえた。

走りながら、私は耳をすませた。自分の足音の反響で、障害物がある程度わかる。兄弟達は駅から離れるように逃げている。それを追うゾンビの足音が、五体分。

「……走れ、走れ……」

「……ダメだ、にいちゃん、こっちにもいる……」

囲まれている。だがこの距離なら三十秒とかからない。私は建物の屋根に這い上がった。

「隠れるんだ!!!」

「……いや、二人しかいない、俺が道をつくる……」

「……俺も戦うよ……」

声が届いていない。シャベルとバットを構える音がする。

「隠れてろ!!!」

ダメだ、先程の傷が喉に残ってる、大声が出ない。

「……やあっ!……」

シャベルが空を切り、骨を砕く音、ゾンビが一体倒れた。

「……にいちゃん、後ろ……」

三男がバットを構える。

「……すぐこいつも倒すから……」

「……急に走り出した……」

三男がバットを振り、ゾンビを倒す。長男も二体目を倒した。

「……よし、道はできた、行くぞ……」

あと二十、いや十五秒で着く!屋上、屋根、ベランダ、看板……今や音の反響で建物の形や高さが正確にわかる。

「……後ろみんな走ってくるよ……」

「……くそ、先に行け……」

シャベルを振るう音がする、しかし倒しきれず、ゾンビ達が長男に襲いかかる。

「……にいちゃん!……」

三男がバットをめちゃくちゃに振るいゾンビを払う。だが数が多い。腕を捕まれ、バットを振れなくなった……

「二人とも!!」

最後の三十メートルほどは飛び越えた、間に合った!呼吸音でゾンビを識別し、三男にかじりつこうとしていたゾンビを蹴飛ばした。長男が抵抗していた二体を投げ飛ばし、近くのゾンビを片っ端から殺していく。しかし数が多い。駅の方からどんどん近付いてきているのか。

「ありがとうございます!」

「二人で隠れてろ!!」

長男が三男に駆け寄る。これで戦いに集中できる!

「痛っ!!」

長男の叫びが聞こえ、見えもしないのに私は振り返った。

「痛いから、痛いから!離せって!」

 三男の呼吸音がおかしい、さらに肉を噛むような音がする。

「落ち着けって、なあ!もう大丈夫だから!あの人来てくれたから!」

 長男は、まだ気づいていないのか?
 
 近くのゾンビが三体同時に襲い掛かってきて、私は自分の動きが止まっていることに気づいた。

「ぐっ、離れろ!」

 二体の首をへし折ったが、次々と私に食らいついてくる。集中できない。音が聞こえにくい。兄弟はどうなってる?!

「くそ!二人とも!」

 頭が真っ白になりそうだった。体も重い。本来ならこんな雑魚みたいなゾンビ達に手こずったりはしない。

「いい加減にしてくれ!!」

 訳も分からず体をひねると、みしみしと自分の肉体が壊れる音がして、背や脚から骨が飛び出した。覆いかぶさってきていたゾンビ達が私の骨に刺されてか動かなくなり、一瞬の余裕が生まれた。

「貸せ!」

 手探りで一番近くにいたゾンビの腕を引きちぎり、手あたり次第振り回した。しばらく暴れると、近づいてくるゾンビの足音や、彼らの肉塊が飛んでいく音は完全に止んだ。

静まり返った街に、呼吸音が三人分……いずれも、正常な人間とは思えないほど、乱れていた。

顔の側面がほのかに暖かい……多分、西日だ。

「い、いつも父さんに言われてるだろ……さ、さ、三人兄弟仲良くしろって。」

 長男が弟を叱っている。彼も既に、激しく乱れた呼吸になっていた。私は二人に近づいた。

「なあ……無事か。」

何を聞いてるんだ私は。

「ええ、な、なんとか。でででも弟が怖がっちゃって、俺の、『袖を掴んで』、離さないんですよ。」

どうしていいか分からない。

「そうか……」

私は手探りで『袖を掴んでいた』三男を引き剥がし、餌を求める口に、私の右腕を噛ませた。

「ほ、ほら、いつまで『掴んで』いる気?」

続いて私は、長男の腕に、左手をかざした。爪を立てて手の平から血を滴らせ、長男の傷痕にかけた。

「そ、そうだ、あいつはどこ行った……??い、いつも俺の言うこと聞かないんだから……」

自分でも驚く行為だった。ファンタジー小説の吸血鬼のように、私の血に何らかの力があればと思ったのだ。馬鹿げた思い付きに、それを実行したことに、それを実行しなくては気がすまなかったことに対しての、驚きだった。

やめろ。それは上手くいかない……

兄が喋らなくなった。弟の噛む力が弱くなってきている。

お前のそれは、情熱だとか、執念だとかを越えた、狂気だ。お前が避けてきたものだ。

長男が倒れた。微かに痙攣している音が聞こえる。

お前は諦めるべきだ。いつものように。救護室の時のように。

三男はいつの間にか、動かなくなっていた。

「もう少し、待ってみよう……」

やめろ。苦しむのはお前自身だ。

「もう少し、もう少しだけ……俺だって、体を治すのに時間かかってるし……」

私は自分を諌める自分を無視し、待ち続けた。

しかしいつまで経っても、呼吸の音は一人分のままだった。


その5へ続く。

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