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アガサ・クリスティー著「春にして君を離れ」を読んだら断食修行の思い出が蘇った

アガサ・クリスティー著「春にして君を離れ」を読んだ。

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今まであまりミステリー小説を通ってきておらず、アガサ・クリスティーの著書も読んだことがなかったのだけど、読了後、自分のミステリーへの先入観を恥じ、読まず嫌いを悔やんだ。

この本では殺人事件は起きない。分かりやすく不吉な出来事が起きるわけでもない。
一人の女性がバクダッドからイギリスの田舎町への帰路の途中、悪天候によって砂漠のレストハウスに数日留まることになり、退屈の中で自分の今までの人生を振り返る。
それだけの話。


しかし、一見すると何の翳りもない幸福な彼女の家庭生活は、どれもどこか不穏な歪さを隠している。
彼女自身はそれに気づいていない、もしくは気づくことを避けているのだけれど、読者にはそれが明確に分かる。いわゆる「信頼できない語り手」というやつだろうか。
ある意味、どんなホラーやミステリーよりも恐ろしかった。

ところが、どこまでも砂漠ばかりが広がる空間、どうしようもない退屈の中で、彼女は徐々に自分が目を逸らし続けていたものと対峙せざるを得なくなる。
今までの人生は幸福と成功に満ちたものなんかじゃなく、欺瞞に満ちたものだったのではないかと。
そして同時に読者も、否が応でも自分の来し方を振り返らざるを得なくなる。


読了後は、とんでもないものを読んでしまった…と暫く動くことができなかった。
とはいえ本の世界から抜け出し現実へ戻れば、そこは乾いた砂漠ではく、人々の談笑と食器のカチャカチャとした音が響くデニーズだった。
テーブルの上にはスマートフォンとイヤフォンと、今し方到着した桃のパルフェが置いてある。
本当の意味での退屈には到底辿り着かなそうな、情報と誘惑に溢れた日常。
これのおかげで、もしくはこれのせいで、私は今、どこまでも自分の深部と向き合わずに済んでいる。

助かった、と思う一方で、強烈に「砂漠」を欲している自分がいることにも気づいた。
スマートフォンの充電は切れ、映画やドラマを観るためのタブレットもなく、積んでいた本も読み尽くしたその後。
もはや私という人間がいるだけの状態になった時、私は何を考え、何に気づくのか。
それを知りたいと強く思った。


しかし、実は過去に一回だけ、これに近い状況に身を投じたことがある。
それはかつて成田山新勝寺で行われていた断食修行に参加した時のことだ。

20歳の頃、12歳の頃から断続的に発症する過食嘔吐癖に、私は心の底から疲れ果てていた。
メンタルクリニックに行ってもカウンセリングに行っても分かりやすい効果は得られず、半ば自暴自棄になった私は、「何も食べられない状況に身を置けば治るんじゃないか?」と考えた(※危険で極端な素人判断です。実際、私はいまだに完治したとは言えません)。
そこで何となく頭に入っていた「断食道場」というワードで検索し、最初にヒットしたのが成田山新勝寺の断食参籠修行だった。 

他にも完全な断食ではないファスティング合宿なども出てきたが、変に古い部分がある私は「そんなんしゃらくせえ!!やるならとことん断食だ!!」と思い、4泊5日の修行コースに参加することを決めた(※②危険で極端な素人判断です。実際、私はいまだに完治したとは言えません)。

当時成田山新勝寺の断食道場では、以下の決まりがあった。

  • 携帯電話は絶対に持ち込まないこと

  • 修行中は水だけで生活すること

幸い本の持ち込みは許可されていたため、事前に何冊かの本を見繕って持参した。
全ての本は思い出せないが、フィリップ・K・ディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」を持って行ったのは覚えている。

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また、修行中は体力を奪うとの理由で入浴が禁止されていたため、水のいらないシャンプーやボディーシートなども鞄に詰めて出発した。


成田駅に着き、近くの診療所で簡単な健康診断を済ませると、いよいよ入門。
私が入門した日はもう一人男性の方がいたのだが、携帯を持ち込んでいたようで早速担当の方に怒られており、内心「持ってこなくてよかった…怒られなくてよかった…」とホッとした。

一日に飲む水の量や掃除のルールなどの説明を受け、修行中に過ごす寮へ荷物を置きに行った。
寮は24畳ほどの畳の部屋で、1畳ごとに簡易的なローテーブルが置いてある。
他の参加者との相部屋とのことだったが、現在は私の他に女性は一人だけとのことだった。
部屋の角に荷物を下ろし、ざっと荷解きをして小さな自分のスペースを作った。

朝5時頃に行われる護摩への参加以外は特に決まったスケジュールがなかったため、その後は持ってきた本を読んで過ごしたり境内を散歩して過ごしたりしたが、境内には成田名物が並ぶお土産売り場があり、すでに空っぽになりつつある胃をキリキリと刺激した。

うっかりに羊羹やら最中に手を出さないよう早々に寮へと戻るものの、時計はまだ昼時を差している。ここに着いてからまだ3時間も経っていない。
この時初めて、「これは思っていたより先が長いぞ」と小さく戦慄した。

そしてやがて襲ってくる、狂おしいほどの空腹。
食べたこともないのに何故か二郎系ラーメンが頭から離れない。
事前に十分なリサーチをし、覚悟を持った上で参加したつもりだったけど、それでもこの空腹に耐えながら5日間を粛々と過ごすのは中々忍耐力と精神力が問われるのだと再認識した。

なるべく食べ物に意識を向けないため、滞在中はひたすら読書に没頭することにした。
だけど空腹を通り越して朦朧とする意識の中で「アンドロイド〜」を読み耽っていると、だんだん本の世界と現実との境目がぼやけてくる。私がレプリカント…?

今になってみると、あの環境であの本を読んだことは最高のトリップ体験だったなと思う。
本を読み終え布団に入ってからも、浮遊感と少しの気持ち悪さ、心臓のバクバクとした音で中々眠りにつくことができなかった。


翌日は早朝4時に起き、部屋を簡単に掃除してから本堂で行われる護摩に参加した。
燃え盛るお焚き上げの炎を見ていると、私の胃の中からもメラメラと燃える炎のように強烈な吐き気が込み上げてくる。
必死に耐え、護摩が終わると同時に一目散に寮のトイレに駆け込んだ。
体内に蓄積された毒素や老廃物を押し流す好転反応だと事前に聞いてはいたものの、これは想像以上に体に堪えた。

しかし、空腹と吐き気以上に辛かったのはやはり退屈だった。
まだ体力が残っている1日目、2日目は境内を散策することもできたけれど、だんだんとそれも億劫になってくる。
手持ちの本や寮の本棚にある本も読み尽くした後は、併設の仏教図書館に入り浸っていたものの、そこも17時には閉まってしまう。
ちなみに余談だが図書館には「寄生獣」が置かれており、それを熱心に読んでいると受付係のおじさんに「それ、、、やばいよねえ〜〜」と話しかけてもらったのはちょっとウケた。


そしてやってくる夜。
本当に辛いのは夜である。
早めに寝てしまおうと布団の中に潜り込んでも、心臓の鼓動がバクバクとうるさくて眠れない。
時の流れが5倍の惑星に流れ着いてしまったかのような夜の長さを痛いほど感じながら、もしかしたら一生ここから出られないんじゃないかとさえ思った。

そんな状況下では、嫌でも自分自身の過去や内面と向き合わざるを得なくなる。
どうやら体内の老廃物だけでなく、思い出すことを避けてきたバツの悪い記憶や、あやふやにしてきた己の狡さや怠慢さ、弱さも一気に押し出されるようだった。
だけどそれは不思議と苦しいだけでなく、どこか清々しくもあった。
むしろもっと出てしまえ、完膚なきまでに、とすら思った。
ここを出る頃には以前の私とは全く違う存在になっているように。

最終日も近くなるといよいよ精神状態も一つの到達地点を迎え、私は両親や当時の恋人など、身近な人たちに遺言状を書いていた。
なぜ手紙ではなく遺言状だったのかというと、死を迎える前でなければ到底書けないよな赤裸々な心情を綴っていたからだと思う。
結局その手紙は誰にも渡してはいないのだけど。

5日間の修行を終えたその日は台風が来ていて、大雨と強風の中ふらつきながら帰ったのを覚えている。
それでも体の怠さとは裏腹に、私の心は、魂はより一層強く、気高く生まれ変わったのだと感じていた。


あれから約10年。
結局断食修行を終え日常生活に戻った私は、やっぱり自分の狡くて怠け者な部分から目を背けるし、未だに過食嘔吐の波は訪れるし、やるべきことを先延ばしにするし、きっと人を傷つけることもある。
あれだけ長いと感じた修行もたったの5日間で、人間それだけで変わるのはやっぱり難しい。
それでもあの5日間は、私の人生の中で大きな、ある種異質の存在感を放っているのである。

2024年現在、成田山新勝寺では断食道場は行っていないらしい。
新型コロナウイルスが原因の一つなのかもしれないけれど、詳しいことは分からない。
もしかしたら「水だけで数日過ごす」という内容が今の時代に合わないということもあるのかもしれない。
実際結構危ないチャレンジではあると思う。


それでも「春にして君を離れ」を読んだ時、あの修行の記憶が一気に蘇り、同時にあの時間が無性に恋しくなった。
もう一度果てしない退屈の中で、ひたすらに己とだけ向き合う時間を過ごしたい。



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