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意味なんていらない

わたしにとっての「note」の場とは(現在は)遊び場であり、息抜きの場であり、「リアルのわたしとは少し違うわたし」がのらりくらりと歩き回る場所であります。

note上で小説やエッセイ、またイラストを描いていますが最近は「意味を持たせないこと」を意識するようになりました。

わたしは週4日フルタイムで働いています。週5で働いている人たちには本当に頭が下がります。
仕事柄、大の大人に理不尽なことで怒鳴られるのはよくあります。話が全く通じない方と1時間以上お話しすることも多々あります。そして仕事中には常にことの意味を考えながら業務を行います。
この説明をする意味、この動作をする意味、この結果を報告する意味。
毎日いくつもの意味と対峙し続けると、少しずつ心の奥の方にある何かがすり減っていると感じる時が来ます。

自分の中の何かがすり減ってしまったときは、置かれている思考や状況と真逆のことをすることで幾分か回復するように思われます。

わたしにとっての「意味を求める」ことの反対は無意味でばかばかしくてやってもやらなくてもどちらでもよくて、でも楽しくて没頭できることに集中することでした。
それがnoteにあげている記事たちです。

なぜ小説を書いているのかという点については何度か書いていますがその時々によって書く理由が異なります。はじめはストレス発散を目的にしていました。次が感情の吐露のため、そのあとは純粋な創作意欲から書いていました。残念ながら今は少し小説に関しての熱は収まりつつあります。

どんなものであれ何かに没頭すると、わたしの性格上ついつい意味を求めてしまいがちです。意味を求めると、抱き合わせで「なぜ」から始まる文章が頭にひっついてきてしまいます。これはわたしだけかもしれませんが「なぜもっとうまく書けないのか」「なぜプロを目指そうとしないのか」「なぜなんの役にも立たない無駄なことをしているのか」等々わたしを責めるわたしの声が時々聞こえ、そして「どうしてだろう」と立ち止まった瞬間から遊びの中の情熱は消えてしまいます。

これはわたしの元来の性格がネガティブだからというのも考えられます。もっとポジティブな性格ならば意味づけも前向きでいられたかもしれません。「小説を書くことで気持ちを整理できたね」「絵を描くことで誰かを喜ばせてあげたかもしれないね」いい意味づけは無限にあるはずです。なのですが、わたしの場合にはマイナスに傾く方が多いようです。そう言った予防線も含めて「意味づけ」を避けているのかもしれません。


#日記




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