金川宏さんの第二歌集『天球図譜』を読む。

金川宏さんの第二歌集『天球図譜』を読む。

まず、この歌集を開いて気がついたことは、一首を二行書きで表記しており、一行目が21文字となっている。また、一ページに二首づつ配置されている。私はこういうレイアウトの歌集に初めて遭遇した。一般的に歌集は一首一行で記載されている。
歌集のサイズは縦19.3cm、横11.6cmで新書版より若干大きめである。表紙はソフトカバーで手に馴染む。いつでもどこでも、持ち歩いて読むことができる手軽さがある。最近出版された山階基さんの歌集『風にあたる』もほぼ同じサイズだ。(山階さんの歌集の方がわずかに小さい)また、表紙を覆うパラフィン紙は、レトロな感じがして好感が持てる。

雪の夜の書庫へ返せばくらぐらとほのほあげゐむ天球図譜は/15

タイトルにもなった「天球図譜」の歌である。天球図譜とは、いわゆる星図のことで、天球上での恒星・星団・星雲など星座の位置や天体の明るさや名称を平面で表した地図のことである。
雪の夜の書庫へ返したのが何であるのかはっきりしない。書庫であるので、なにかの本であることが省略されている。しかし、「雪の夜の書庫」がすでにレトリックになっている。 天球自図譜自体が炎をあげているのであるが、天球図譜のなかに記されている星団などが、くらぐらと燃えているようにも読める。書庫へ書物を返したとき、天球図譜を燃やしてしまいたという主体の陰性の心情をわたしは感じる。歌集の冒頭に「凶(まが)つ世に、天球図譜輝けり」というフレーズが引用されている。「凶つ世」とはこの星、この国のことであり、この星が輝いている。凶つ世が輝くという、ありえない、そうであってほしくない現状は受け入れ難い、故に焔で天球図譜を燃やしている、燃やしたいという主体の心情と重なる。
また、天球図譜でこの星の位置を再度確認しているのかもしれない。それは自分の立ち位置や、未来を確認することなのかもしれない。天球図譜は人自身の履歴書や戸籍のように再発行不可能なものである。しかし現在は、戸籍謄本はデジタル化され、何度でもプリントアウトが可能である。

◯見えてはいないものを詠う

夜半ふかきマンホールより不可思議のウサギの国はつづきゐるらし/6
臓物のごときわが部屋灯(ひ)を消せば月のひかりに浄まりてゆく/7

マンホールの下や臓物など、目に見えないものへと意識のベクトルが向かう。マンホール下にも国の続きがあり、灯を消した自身の部屋は臓物であり、月のひかりに静置されている。読者はマンホールのなかの世界を錯覚してしまうし、また、臓物の中へ行くことを希求しているかのようにも受け取れる。

その他にも、見ていないものを詠っている歌が散見された。

鱝(えひ)眠る夜の冷蔵庫いつの日かわれにも明けむ見知らぬ朝は/21
ひるふかき書店の奥処(おくか)しんしんと鏡をなせるウサギの国家/23
井の底の遠き炎天ぬばたまの夜となれば夜の鳥がよぎりつ/28
コインロッカーに置き忘れきし襟巻のまぐはひをらむひと夜の闇と/49
鍵穴にかぎ入れしときふるへゐむ冬の月光棲めるわが部屋/82

鱝(えひ)の眠る(保存する)冷蔵庫、書店の奥処、井の底、コインロッカーのなかの襟巻、鍵をかけた部屋のなかなどなど、その映像がはっきりと読者にもイメージされる。鱝(えひ)の眠る夜の冷蔵庫というシチュエーションの意外性に惹かれる。また、「鏡をなせるウサギの国家」とはどのような国家なのか、具体的なイメージが浮かばない。「なせる」は「成せる」「為せる」から「ある形、状態をしている」の意であり「鏡の状態であるウサギの国家」というような意味にとれる。歌意は、「昼のふかい(おそい、おそらく3時から4時くらい)書店の奥処(おくか)にしんしんと鏡の状態でいるウサギの国家がある」というような意であろう。書店のおくにあるウサギ(作者自身)の国家、鏡は奥に仕舞われていて鏡の機能を充分に発揮していない。国家としての機能を発揮していない国家、というような意味だろうか。なにかの暗喩のようにもとれる。
コインロッカーに置き忘れきた襟巻が夜の闇とまぐわう、まるで襟巻きが蛇のように夜に絡みついている情景を想像した。夜は男性で襟巻は女性であろうか。
夜遅くに部屋に戻れば、月光が棲んでいる冷たい澄みきった部屋を連想する。

◯企業人として主体
この歌集は金川さんが三十代半ばの時期に出版されており、1980年代を職業人、企業戦士として過ごされて、自らを「ウサギ」と呼んでいる。ウサギの歌はたくさんあるが、その当時の感慨を実生活の記録と重ねて詠っている。ウサギの歌を引用した。

夜半ふかきマンホールより不可思議のウサギの国はつづきゐるらし/6
ひるふかき書店の奥処(おくか)しんしんと鏡をなせるウサギの国家/23
いつもの書店いつもの場所に ほら、空いているだらう兎の穴が/24
鳥羽玉の深夜書店に入りゆきて「時間の国のウサギ」購ふ/25
ワイシャツにネクタイきりり締めてゐるねじまきウサギ<カネカワヒロシ>/29
企業戦士<Mr.Usagi>棲息すビルのあわいの鏡の国家/53
右中間に深き飛球を追ひゆきて行方知れずの少年ウサギ/54
やはらかき雨となりつつ世紀末を<意味>のかなたへウサギよ、走れ/54
耳垂れてウサギ紳士はのぞきをりキャラメル箱の蒼き星雲/55
屋根裏にひとりし棲みて夜ごとよごとtara-tara-ta-rit-taうさぎのダンス/55
跳べ、ウサギかなたの闇へビル街に星星死して渦を巻くひる/62
「Love song」机上に置きてねむりゐるウサギ男の聖金曜日/94
むずむずと土曜の夜に侵さるる日曜の朝ウサギ氏眠る/95
ウサギのレストランに入りてウサギの耳を食ひゐたり鬱に入る午後/95
ウサギ氏はけふ安息日わずかなる塩を二本のビールに替えて/96
金属廃棄物(メタリック・ジャンク)の海を疾駆する白き流体<Rabit>われは/103
燃えつきし地図の果(はた)てに見失う都市潜入者ウサギの行方/105
ジュール・ヴェルヌ通り五番地真夜中の屋根裏部屋に泛かぶウサギ座/105

これらの歌は、職場や仕事をイメージするものが多い。これらの歌からは、仕事に疲弊している主体を想像する。歌のなかの言葉を抽出すると、「書店に空いている兎の穴」「深夜書店」に入る主体、「ねじまきウサギ」「耳垂れてのぞくキャラメル箱の蒼い星雲」「むずむずと土曜の夜に侵される」「ウサギの耳を食う」「塩をビールに替える」「メタリック・ジャンク」「都市侵入者」などである。

いつもの書店いつもの場所に ほら、空いているだらう兎の穴が/24
いつも立ち寄る書店のいつもの場所、詩歌コーナーであろうか、そこに空いている穴、詩の言葉では充足されない空白がある。
耳垂れてウサギ紳士はのぞきをりキャラメル箱の蒼き星雲/55
耳を垂れる主体、仕事や生活に疲弊した主体がイメージされる。キャラメルの箱の中を覗いたとき、そこに見えたものは「蒼き星雲」であった。「蒼き星雲」からは混沌とした掴みどころのない立ち位置や心情をが連想される。「蒼き」の色のイメージに明るさは感じられない。金川さんの歌には宇宙や銀河、星雲、星座、といった壮大な世界をイメージする歌が比較的多いが、そこには明るさがあまり感じられない。

ウサギのレストランに入りてウサギの耳を食ひゐたり鬱に入る午後/95
自らをウサギと呼び「ウサギの耳」を食べてしまう。「鬱に入る午後」、尋常ではない情景が見える。他人のことばが聞こえない、また聞こうとしない内に籠もっている主体がいる。

燃えつきし地図の果(はた)てに見失う都市潜入者ウサギの行方/105

燃え尽きた地図の果てに自身を見失ってしまう。現世を「燃え尽きた地図」という喩で 表現しており、自らを「都市潜入者」と呼ぶ。都市(社会や職場)での自らの場所を見失ってしまった主体をイメージするのである。また「燃え尽きた地図」というレトリックから、自らも燃えつきてしまったようにもイメージされる。

その他に、仕事の歌には

集金区の地図に増えゆく赤マルの発火するまであやふし夏は/87
鉄骨を組める虚空(そら)より火を零らす溶接工といふを恋ひをり/88
集めきし紙幣ことごとく鳥となり叫びゐむ黒き鞄のなかに/89
新規契約「なし」と記せる日日続くひそかなれ聖労働週間/89

などの歌もみうけられる。

「赤マル」は集金済みの家だろう。家々を巡って集金しているのであるが、集金済みの赤マルが増えてゆくと発火してしまうというふうに想像している。

眼に見えるかたちでの達成感はうすい。ものを作り出すという溶接工の仕事にこそ仕事の達成感や充足感がある。おそらく作者は事務職であり、仕事のなかでの具体的な達成感、例えば何かを創り出すというワークが希薄なためだと想像する。
集めた紙幣が集金鞄のなかで鳥となって叫ぶとは面白いレトリックだ。紙幣が鳥のように飛びたがっているのを連想する。集めた紙幣に、紙幣としての価値を見出せないのかもしれない。契約者「ゼロ」が続く日々、ノルマを達成できず労働週間という言葉の虚しさがある。「聖」の文字にアンニュイなイメージがある。

◯母の葬儀の歌に心が揺さぶられる(P.39からp.43)

炎天の野に忘られし井の戸ひこの世のほかへ草ひばり翔つ/40
井戸の底にあるという「この世のほか」へ飛翔する草ひばりに、母親のイメージが重なる。炎天の野であるからこそ、忘れられたこの世のほかが、明るくしかし痛みを伴って読者へと伝わってくる。

葬列にはぐれてゐたるゆふまぐれ岬にほのか枇杷の実けぶる/40
葬列にはぐれてしまった、そこに枇杷の実がかすかに輪郭をたもって見えている。岬というシチュエーションが悲しい、枇杷の実は、母親の喩であろうか。

秋の鏡に呼びもどす母しんしんと背後なだるるまでのくれなゐ/42
秋の鏡に母を呼び戻している。その背後に傾るるくれなゐ、「くれなゐ」は美しかった母のイメージであろうか、「なだるる」に、母の顔や姿がだんだんに薄く崩れていくような 映像が揺曳される。

あさきゆめあさのなぎさのさざなみにゆれてゆられて死ににけるかも/43
「死」の文字以外は全てひらがな表記であり、朗読すると音が流れていくようで韻律もよい。あさきゆめ、あさきなぎさの、さざなみ、と「あ」の音が心地よく響く。「死ににけるかも」に不思議に読んでいて悲しみが和らぐのである。

その他、好きな歌を列挙してみる。

八月のカスタネットのひびきくるもろこし畑よ永遠にあれ/10
珈琲店「アンニュイ」の午後充たしゐる音楽といふやはらかき臓物/19
デルヴォーの月光都市にたたずめる少女らさむく陰毛巻きて/34
月明の峡(かい)の底ひに零れつぐはるけきみづをさくらと言はむ/34
黄落の森にまぎるる母の耳朶ひそけく時間(とき)は積もりゆくらし/38
月光(つき)のなかに覚めておもへりパチンコ店「銀河」に忘れきし洋傘(かうもり)を/46
貨車過ぎし気流にふかく頭(ず)を入れて乾きし夜の踏切渡る/48
昏き扉のはつかひらきてゐるひるを少女らが浴むみづおときけり/108
瞠(みひら)けばたちまち陰画(ネガ)となる街に鳥獣を売る店の灯れる/111
霧湧ける夜深き街に少女らの胴体を売る聖・楽器店/115
犀・駱駝・象・雨鳥たひきつれてまばゆき午後の屋上に来つ/117
天球のまほろばわたるくろがねの自転車さぶし翼を搏ちて/127

金川さんの歌には「夜」を連想することばが比較的多い、夜、夜半、灯、月光、寝台、黒鳥、眠る、などなど列挙したら霧がない。企業戦士としての職場詠というよりも、企業戦士として働く中での、心の葛藤とか陰影のようなものが「夜」を連想する言葉として引き出され、歌の中の他の言葉と繋がっているように感じられた。
また「NF96ブラッドベリ・アパート」とか、<Hal 9000>などに当時の社会性が思い出されて同世代の読者には共感をよぶだろう。
また、デルヴォー、ヴェクサシオン、ドメーニコ・スカルラッティ、エリック・サティなどは、当時の作者がどのような絵画をみて、どのような音楽を聴いていたのかが垣間見えて興味ふかい。
一方、レトリックを駆使することで喩にリアリティーがあり、またコンテクストの飛躍が読んでいて心地よいと感じた。今の若い世代の歌人はこのようなレトリックを駆使している歌が少ないように感じるのである。 約30年前に出版された歌集であるが、古さを感じさせない、むしろレトリックの使い方やコンテクストの飛躍など、学ぶべき点が多いと 感じた。

(未来短歌会:白井健康)

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