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目立ちたい人を嫌がるのは、無駄を排除したいから

「つまんない」「飽きた」「やめよう」が口癖の10hです。このページは、あしたアップする「無気力という病」の途中から続いています。
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カイジ芸人という人が、「退屈……!」と書かれたTシャツを着ていた。ちょっとほしくなった。そして、人がどんな心理であれを着るのか知りたい。

無地に文字が書いてあるTシャツは非常に目立つ。ちょうどよかった。これから、「目立つ」ということについて書く。わたしは、人が目立とうとしていたら、本人および成り行きにまかせておくのが正解だと思っている。

目立つ価値のある人が、目立とうとするのは褒められたことだ。しかし目立つ価値のない人が、目立とうとすると疎まれる、嫌われる、冷ややかに見られる、バカにされる、愛されない、遂には相手にされなくなる。

ところで、ある分野の才能を持たぬ人が、それについての努力をすることは、いけないことだろうか。いいえ。人が何を目指そうといいではないか。もちろん自分が何したって。多くの無駄を抱え、人生を棒に振るが。

才能のない方面への努力は、利益はないとしても勝手であり、悪くないと言える。ならば、誰が目立ちたがってもいいはずである。しかし人はそれを認めようとしない。

目立つ価値のない人を排除したい気持ちが働くのは、2つの理由による。人はこう感じるだろう。
「いっときでも、目立つ価値もない人に注目してしまい、大事な時間と労力を負担してしまった!」
「それに、この人を知りたいと思う好奇心を抱いて収穫なしに終わったのがむなしく、もやもやする!」

このように、人は目立つ価値のない人の行動を掴まされるのを防ぎたい。「目立つべき人」だけが目立とうとするべきだと思い込んでいる。「目立つべきでない人」に付き合わされるのは損だと。迷惑をこうむりたくないと。

人は、自分の周りに価値のある人・物を置きたがる。その価値を受け取るのも得だし、自分の鏡のように感じられるから。自分の無能ぶりや存在理由のなさには無自覚に生きる一方で、自分こそは社会に通用するすぐれた存在だと思いたいのである。だから、価値のない(と自分が判断する)人・物が現れて、自分の時間と労力を奪い、好奇心を無碍にしたとなると許しがたい。

ところが、わたしは目立とうとする人に寛容である。その有り余るエネルギーを崇めるほどだ。彼[女]らに目立つべき価値がなくても、わたしは嫌がらない。価値を判断し享受する目を養えばいいのだし。「つまんない」を口癖にしているわたしには、太刀打ちできない人々なのだ。

誰からも相手にされない人が、人に見られたいと願うのに不思議はない。誰にも認められないからこそ、見てほしいのだろう。目立つべき価値のない人ほど目立ちたがるゆえんである。しかし、それを擁してやるほどの余裕は社会にない。そこにエネルギーを使うことができない。

世の中から必要とされない人、つまり役に立たない人は大勢いる。何も生みだせない人は。(彼[女]らが生きるに値しないかどうかは問題でない。)

人がどのようなことのための努力をしても自発性にまかせるほかないように、彼[女]らが目立とうとしても、わたし達はやめさせることを慎まなければならない。エネルギーを打ち消し合うのは愚かである。ただし、世の中には愚行を愛する人もいるので、止めはしない。

ありがたいことです。目に留めてくださった あなたの心にも喜びを。