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「珈琲/大根役者/鱗雲」、或いは「破片」

目が覚めて寝室から出ると、床に伏せた妻が居た。
周囲に黒い液体と赤黒い液体とを撒き散らし、緑色の欠片を散乱させた妻が。
机の上には封筒が一封。貴方へ、と書いてある。

ああ、死んだんだな、と思った。

彼女とは学生の頃に知り合った。
二年片想いした後に付き合うことになったが、初めての恋人に戸惑って亀の歩みを続けた。
進路の関係で一度別れ、再開したのは六年後。
お互いに大人になり、多くのことを経験していた。多忙を極め、疲弊しきった二人だった。
燃えるような情熱はもう無かったし明確に付き合いを始めた記憶は無いが、関係は学生時代の何倍も早く進行していった。
彼女は夜勤があった。互いに生活パターンが逆だと都合が良いと半同棲になった。
そのうち家賃が無駄だと言って彼女が部屋を引き払い、僕の家賃を折半するようになった。
二年ほどそれが続いた頃夫婦別姓が認められたのでノリで入籍した。
大恋愛で結婚なんてそうそう無いと思う。幻滅して離婚することにもなりそうだし。

なんやかんやあって結婚生活は三十年を数えようとしている。子は居ない。

ドライなようだが夫婦間の会話は多いし、休日は出掛けたりもする。いつも彼女が作り置いてくれる珈琲は美味しい。お揃いのマグカップは緑が僕で、彼女が赤。世帯収入の割に小さな部屋、二人ピッタリのソファ、小さな幸せ。
そうやって、生活してきた。

仕事のことで彼女が狂ったのは最近のことだった。若い頃から平常を装ってはいたが彼女は演技が下手だった。自分を責めているのが僕の目にははっきりと分かっていた。そういうときは彼女に珈琲を頼むのだ。美味い、と告げると幾分か楽になるようだった。
それでも抑えられなくなってしまったのか、ある日家に帰ると風呂場で死のうとしていたのをすんでのところで食い止めた。暴れるのを押さえ付けて布団へ運んだ。
殺してくれ、と泣いたので死ぬ時は一緒だと言った。
それでも彼女を待つ人がいた。彼女の手に沢山の命が掛かっていた。彼女はきっと仮面を被って、仕事に向かい続けた。
その反動は家の中でやってくる。
僕の負担も増え、そのことも彼女の引け目になっているようだった。彼女は何度も死のうとした。生きることはこんなにも辛いのかと言った。
弱音を吐いて、食物を吐いて、吐息を吐いて。そうやって彼女は空っぽになって仕事に行く。そしてまたいっぱいいっぱいになって帰ってくるのだった。
数ヶ月が経つ時には、"死ぬ時は一緒"は合言葉になっていた。
笑顔の減った彼女もこれを聴くと笑うのだ。
ありがとう、一緒に死んでね、と―――。

封筒の中には手紙が入っていた。

『拝啓 私を愛したひと
今まで沢山ありがとう。
私は貴方が私を愛したほどには貴方を愛せていた自信が無いです。
でも愛しています。信じて下さい。
支えてくれてありがとう。一緒に死のう、と言われたこと、確かに私の救いになっていました。
でも、いざ死ぬとなると、貴方を連れて逝こうだなんて思えません。
気まぐれに貴方のマグカップで珈琲を飲もうとしたら手が滑って。そんなことで、と思うかもしれないけれど、私にとっては命と変わらないような物なのです。
高校のとき貴方の誕生日にあげようと思って買ったけど補色のお揃いだなんて重いかしらと踏みとどまったものを、同棲するときに引っ張り出してきたのです。
これで貴方が珈琲を飲む度に若かったときの記憶が蘇ったりして、どうにか生きてきました。
今までありがとう。
私流の珈琲の淹れ方を書いた紙を、同封しておきます。
かしこ』

戸棚から赤いマグカップを出す。
紙に書いてある通りに淹れる。
紙には、『泡が浮かんだら満点です』と書いてあるが、泡は浮かなかった。
捨てて、もう一度。
もう一度。
もう一度。
何度も繰り返して、どうにか泡を立たせることに成功した。注ぐ勢いが強すぎるとダメだと気が付いた。
泡は揺らすと模様を変えた。暫く揺らすと疎らになって、鱗雲みたいだなと思った。
そうして彼女の元にしゃがみ込み。
一口飲んで。
うん、美味―――しくない。
...察していた。
やっぱりね。分かっていたよ、僕は。
そうだよ、ほら。
君が淹れなきゃ零点だよ。

立ち上がり、床にマグカップを叩き付けた。

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