「答えのない時代」にふっと一息立ち止まる。(奈良県東吉野村)

訪れた場所は東吉野村。人口は約1700人の村。
このnoteの写真はすべて東吉野村HPから。きれいな川と木々に囲まれた場所でしたが、写真がないという…。あと、天気も雨だったから、という言い訳はさておき。

今回足を運んだ理由は、”山学院”の開学記念イベントに参加するため。
テーマは「『答えのない時代』とアカデミア」。一体、山学院とは何なのか。テーマ同様、的確な答えはない、というのも中心メンバーの方も明確には決めていないから。あえて表現するとすれば、比較するためのレイヤーを取っ払い、対話することで一人一人が立ち止まって考える場所。なのかな?(答えのない時代。人によって答えは違うでしょう。)

思想家で合気道家の内田樹さんを学長に迎え、「オフィスキャンプ東吉野」をデザイン、運営している坂本大祐さんと、自宅を開いて「人文系私設図書館ルチャ・リブロ」を運営している青木真兵さんの三人のトークセッションから始まり、そこでの学びを中心に自分の頭でのつぶやき含めて書き尽くした。

初開催ということもあり、参加者は関西圏だけでなく、新潟やら山口、大分など津々浦々。なんと70人近く集まるという…。日曜にこんだけ集まれる人たちってナニモノ…?な方々。(笑)そんな疑問はさておき、自分の感じる違和感と今回の学び。
そこそこの文量と取り留めのない内容のため、空腹を紛らわす程度にどうぞ。

※個人の見解です。意見はご自由にお受付しています!
※下記は先述したトークセッションの3人のページ↓

どこやかしこから聞こえる”セイサンセイ”

今の社会が圧倒的指標として掲げている正確性とスピード。なるべくはやく、正解を。これはその先にある経済第一主義の典型のような気もする。企業だけでなくて、教育だったり、農業などの世界でも耳にする”セイサンセイ”。急げば急ぐほど、そして正確性を追い求めるほど、そこからはみ出した者ははじき出されていく風潮。第二次世界大戦後、高度経済成長を経て、驚異的な経済発展をさせてきた日本あるいはそれをモデルにしてきた人たちは骨の髄まで染み込んでいるのかもしれない。人は標準化され、いくらでも変えのきく存在になりつつあるっていうのは、ロボットと人間にそれほど差異が無いようですごく寂しい。発展ってなんなんだろうな。多様性って言葉を聞くようになったのも、多様性が失われているということの裏返しのような気がしてならない。決してテクノロジーを否定したいわけではない。むしろテクノロジーに生かされていることも事実。

学びとは?

今なされている教育は、先生と生徒という分断された関係、一方通行な関係。普段からお互いが学び合う状況ってほんとに少ない。もはや一方が他方を押し付けのような感じになっているとも捉えかねないし、そもそもそこにワクワクは芽生えるのか。内田先生の言葉を借りると、”学びとは見たことも聞いたことも触れたこともない、ミステリアスな暗がりに転がっているもの”。必ずしも正解があるわけでも、解明に必要に迫られているわけでも、ニーズがあるからというわけでもなく。
自ずから然る。文字通り自然と湧いてくる好奇心から繋がるのが学びなのではないだろうか。そこに点数をつけたり、早く結果を求めることで好奇心という心の火種を消し去ろうとしている教育のあり方にまた疑問が生まれた。

無駄なことをする。それが人間。

人間とロボットとの違いはなんなのか。その問いかけに対して、ある漁師は、無駄なことをする生きもんだと答えた。酒にしろ、タバコにしろ、ギャンブルにしろ、夜遊びにしろ、また音楽にしろ、絵にしろ、スポーツにしろ、そこに生産性を問われたら一切合切省かれてしまう。ロボットがお酒飲みますか?ロボットがタバコ吸いますか?生産性を叫びながららそれでも残る理由はなんなのか。これが人間とロボットの決定的違いだろう。

マッドサイエンティストとアカデミア?

アカデミア=学園 つまり集まって学ぷところ。ひと昔前の大学ではフィクション作品に登場するようなマッドサイエンティストの教授が何人もいたそうな。その中で、95%はいわゆる本当にヤバイ人だけれど、残り5%は世の中に革新的なものをもたらす人がいた。けれど、今の社会では数字や確率に重きをおくことで、100%のうち95%も無駄があれば全部無駄という扱いになるだろう。確率では決して測ることのできない、無駄の中の可能性が消されているのは事実だと思う。大きな産業に役立つ経済的背景を含んだ研究、国策が絡んだ研究ももちろん必要かもしれないが、学びとは際限のない好奇心の追求なのではないか。人が純粋な心を失ってしまうのはいつからだろうか。

学びの”場”で問い質すこと

学びの本質は“そもそも”と問い質すことにある。そんな気がした。物事は自動化し、製品は工業化し、社会が仕組み化していく中で一つ一つ自分の中で咀嚼し、なぜそうなるのか、自分はどう感じどうしていきたいのか。そんなこと考えなくても生きていける社会だからこそ、思考停止し思うがままに流される風潮に懐疑、そして危険すら感じる。それは政治の世界でも、教育の世界でも、どんな世界にも通じる。

でも思っていてもなかなか言える場所がない。一度流れに乗ったら立ち止まる場面すら与えられない。向き合い、見つめ直し、問い質す、そういう場が必要で、意見を言える心理的・社会的安全性が担保されるからこそ個々が対話できるのだと。その点において、山学院という場であったり、シェアスペースというのは重要な役割を果たすと思う。普段考えられないフレッシュで違うベクトルの考えに触れるところ、そして受け入れられるところ。受け入れられるとは、賛成、反対ではなく、もっと根本に聞いて理解してもらえること。本来のデモクラシーは、一人一人の対話から生まれるもっと草の根のようなもの。

滋賀県草津市でも古民家を改装し、みんながワクワクを共有出来る場所に。みんなのハナレ。8月8日オープンします。(キックオフセミナーで大祐さんと出会わせてもらいました。)


なにが違う?都市と地方論

都市と地方の違いは昨今よく言われるところ、どちらが良い・悪いとか、都市だから・地方だから、みたいな偏見も多少なりともあるかもしれないが、ここで大事にしたいのは厳密さではなく、程度。どこからの規模が都市でどこからのが地方みたいな議論は人によって違うので想像に任せる。

都市におこる格付け

なぜみんな都市に行きたがるのか、求めているのは比較であり、より厳密な格付け、自分の位置付けを知ることではないのか。というのも比較するにあたってその正確性はサンプル数に比例する。例えば、カフェを想像してもらうとわかりやすい。田舎に一軒あるカフェと同じ範囲に都会に10軒ほどもある場所。どういうメニューで、どこの売れ上げがいい、どんな客層を得ているか…。比較したがるのは人の心理であり、意識してしまうのは当たり前のことではあるが、それに苦しむ人も多い。世の中には競争することでしか勝てない社会がある、そういった思考回路が働いてしまう。一方、地方の場合では同業種や同じ土俵で比較できるもの、人が少ない。もちろん田舎でも良い車、良い家、とか格付けしあう社会はあるが、先述のように程度の問題とする。

格付け社会が向かう先

格付けしたい人あるいはされたい人の思考回路は、自分が果たして井の中の蛙であるのか確かめたい、という欲求で相対的な比較がないとそもそも成り立たない。田舎から東京に出て、自分の位置を知る。そこで上位に食い込めれば、次は世界での位置を知りたくなる。このループは、どのタイミングで外れることができるのか。身体を壊すまで、格付けでランク外になるまで気づかないのだろうか。

これはあくまで私見だが、そうではないように思う。年収、肩書き、人脈…のような決まったフレームの中に当てはめようとする人がいる一方で、いわゆる格付け上位にいても自分の探求心が勝り、そんなことには目もくれない領域の人も少なからずいるはずだ。格付けがモチベーションになることももちろんあるが、バランスが格付け一辺倒になることは避けたい。

デモクラシーの再構築

国の運命=自分の運命 そう感じられることこそが本来のデモクラシーだと思うが、その等式は、現在の日本で成り立つだろうか。
格付け社会と同じく、相対的なものでの比較が顕著に表れているのが選挙。ある政治家は選挙に負けた際、”この構想は市民に受け入れられなかった。間違いだった。”とコメントしたが、果たしてそうなのだろうか。おそらく結果は将来に過去を振り返った時にしかわからない事であり、多数決で決待ったことが真理とは限らない。にも関わらず、多くの国民が選挙の結果を真理とし、世論という誰の責任もない発言を借りて生活している気がしてならない。意見とは、少数でも多数でも変化しない、自分で紡いだ言葉であり、一人一人が違う背景を持ちながら世論で統一されるのも変な話だ。
暮らしと直結する政治の部分を蔑ろにしては、自分のしたい暮らしを蔑ろにすることと同値ではないだろうか。そもそも自分のしたい暮らしとは?と問いただすことからデモクラシーが再構築が始まると思う。

対話を生み出す場

会話ではなく、対話。対話とは、人(他人も自分も)を知るための方法。ただ物事を伝える、受け取るという手段や作業ではなく、人の心理(考え・感情)を表現し、理解し合うこと。これは、セーフティーネットとして存在できる場だからこそ実現することであり、急にカフェなどで自分は社会のあり方をこう思う…などと言い出す人はいないはず。果たして、誰しもが自分の意見を自由に言っていいんだ、という安心感・安堵感は何から醸成されているんだろう。一つは、そこに集う人がコンテンツよりマナーを重んじること。マナーとは、相手を受け入れる姿勢だ。いくらコンテンツが良かろうが悪かろうが、受け取ってくれる相手がいないと対話は成り立たない。もう一つは、原理より程度。何か言及した場合、すみません。その言葉の定義は何ですか?こんな質問が飛ぶような場所であれば、これも対話は成り立たない。それぞれによって言葉の解釈や理解の程度、見え方はちがうわけで、他人のフィルターにはめ直させる作業は話す側の人の言葉になりえない。


分断のない世の中。すべてが溶け合うように。

山学院での学びから、運営に携わっている滋賀県草津市で定期開催が決まったへの想いもついでに。

「生産者と消費者」「出店者と来場者」「社会人と学生」

ファーマーズマーケットをやる上で、どこか仕切りを感じる部分。なにかで区分けし、分断するのはもうやめたい。結局はどんな立場であれ、全部取っ払えば1人の“ヒト”なのだから。🕴

ステージに立つ演奏者と聴衆。グランドでプレーする選手とスタンドで観戦する観客。みたいな関係ではなくて。買う側がお金を払うから偉いとか、売る側が作ってる偉いとかでもなくて…。

「人という字は互いに支え合って人となる。」という言葉のように、お互いがお互いにとっての“伴走者”あるいは“伴奏者”であるような場所。
野球で言えば同じチームで別のポジションみたいなもの?
ファーマーズマーケットはそんな関係が芽生える場所であってほしい!(ってなことを考える時間にもなった。)

最後に

長ったらしく書きましたが最後まで読んで下さった方ありがとうございます。多少の空腹は満たすことができましたでしょうか。私見も多々含まれていますが、コメントいただければ幸いです。

p.s.東吉野村良いところでした。水がきれい。できれば天気のいい時に行きたかった…。


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