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風のやむところで【3】

東武東上線の登り電車に乗車していた結衣は、帰宅ラッシュと反対方向であるガランとした車内で座席に座り、暗くなる窓の外の景色をじっと見据えていた。いつも思う、窓の外に見える街の景色に、人の気配が感じられないのは何故なんだろうと。まるで1枚の絵を見ているように、結衣にはその光景の中に人が生きているという感触がどうしても持てなかった。少しずつ灯されていく街の灯りが、ただの作り物にしか見えない。結衣はそのまま目を閉じた。ゆっくりと刻まれるような電車の走る音は、これから待ち受けている物事を包み込んでしまうような心地良さだった。
しばらくして、電車が停車した。結衣はゆっくり立ち上がるとドアが開くのを待った。
夜の街が、結衣を待ち受けていた。

成増駅は会社帰りのサラリーマンやOLでごった返していた。結衣は人並みをすり抜けながら歩いていた。
改札を抜けてしばらく進んで、北口に到着すると結衣は時計を確認した。19時ちょうどだった。スーツ姿のサラリーマンを眺めていると、その中に紛れて見覚えのある顔を見つけた。結衣は手を挙げて、
「福島さん。」
と声をかけた。福島は結衣の声に気付いて、足早にやって来た。
「ごめんごめん、もうちょっと早く来れるはずだったんだけど。待ったでしょ?」
「ううん。今来たところだったから。ちょうど良かったよ。」
「そう?それならいいけど。それにしても人が多すぎるな、どこか店入ろうか。」
福島と結衣は北口通りに出ると、歩いて10分ほどのところにあるジョナサンに入った。店内は混み合う直前だったらしく、ふたりは順番待ちに滑り込むように並んですぐに席に案内された。
「何でも頼んでいいよ。僕が呼び出したんだしね。」
そう言って福島はメニューを結衣に渡した。
「うん、ありがとう。でも飲み物だけでいいよ。」
福島は自分と結衣のぶんのコーヒーを頼むと、スーツの上着を脱いだ。結衣はその様子を見て
「なんか、福島さん。スーツ着てると普通の会社員みたいだね。」
と言った。それを聞いて福島は
「そりゃ、普通の会社員だからね。」
と笑って言った。
「そっか。」
と結衣も笑った。
「何だ、元気そうだね。もっと落ち込んでるかと思ったよ。」
福島は結衣の笑顔を見るとそう言った。結衣はほんの少しだけ笑顔を残したまま俯いた。
「良介さんのこと、だよね。福島さん、もう聞いたんだ?」
「うん、昨日。良介から電話かかってきて。」
結衣はテーブルに置いた右手にはめられた指輪をじっと見ていた。いつでも、寂しくないようにと。良介はそう言って、この指輪をはめてくれた、そう思うと結衣には良介を責める気にはならなかった。
「仕方ないよ、福島さん。会社ってそういうもんだって、良介さんも言ってた。それに、もう二度と逢えなくなる訳じゃないし…今までよりもちょっとだけ、距離が遠くなるだけだよ。」
結衣がそう言ったとき、ウェイトレスが2人分のコーヒーを運んできた。結衣は運ばれてきたコーヒーをじっと見つめていた。ここにこうしていることが、何だか間違いのような気になりながら。
「ちょっとだけじゃないだろう。」
福島はそう言って、コーヒーをひとくち飲むと結衣の右手の指輪を見た。
「今だって、決して近い訳じゃないだろう?距離の問題じゃない。お互いの関係って意味で。」
「福島さん、それは…」
結衣は顔を上げて言葉に詰まった。しばらくふたりの間に沈黙が続いた。結衣は俯いたまま言った。
「こんなこと言うのも変かもしれないけど…不倫とか浮気とか、そういうのはいいの、どうでも。私と良介さんの関係がそうだとしても、結局はお互いがどう思いあってるか、が問題だし、私は良介さんに思われていることが、とても幸せだよ。だってね…」
一瞬、何か今まで見えなかったものが見えた気がした。結衣にとって『幸せ』が何なのか、そんなことは改めて考えたことはなかった。当たり前のような『幸せ』はいつでも其処にあった。
「だって、良介さんは私のことを救ってくれたんだから。」
結衣はそれだけを言って黙った。福島は窓ガラスの外を通り過ぎる車のライトを目で追っていた。
「…良介が1年前に言ってた『自分にとってとても大切な子を見つけた。自分よりも大事だ。』ってね。でも良介には家庭があったから君を傍に置いておくことが出来なかっただろ?僕はそれを責めたことがあったんだ。一度だけね。」
「責めた?」
福島は小さく頷いた。
「それほど大切な子なら、全部捨てても守ってやれって。それが出来ないなら優しくなんてするなって。それが君にとってどんなに残酷で辛いことなのか、良介に分かって欲しかったから。」
「そんなことは…」
「それでも、良介は言ったんだ。『傍にいることだけが大事にすることじゃない』と。だから僕はそれ以上は何も言わないことにしたんだよ。どんな結果になろうとも、君が幸せだと思える環境を作ってやれているんだったらいいだろうと。だから今、君に聞きたい、今、本当に幸せかどうか。もうすぐ北海道なんて遠い場所に行ってしまう彼であっても、それでも幸せだと言えるかい?」
そう聞かれて結衣は黙った。そして、しばらくしてから思い出したように頷いた、小さく。

サンシャインシティの59階のレストランでは、圧倒されるような夜景が窓ガラスを通して映っていた。この灯りのひとつひとつが確かにこの街に存在しているのだと、結衣は気が遠くなるようだった。それでも、同じだった。
街自体は何も変わってはいなくて、ただ灯りが灯っただけのことだ。昼と夜の違いなんて、ただ目に映る景色が変わって見えるだけなんだと、結衣はじっと窓の外を見つめ思っていた。
「結衣。」
良介の声に、結衣は
「なに?」
と微笑んで答えた。薄暗い店内は静かなジャズが流れていて、他の客たちの会話は聞こえないくらい小さな声だった。良介はじっと結衣の目を見つめて言った。
「何も…考えてない訳じゃないんだ。」
「え?」
結衣と良介は、何も言わずにただじっと見つめ合っていた。良介はテーブルの上の結衣の右手を取って言った。
「結衣、もしも、ひとつだけ何でも願い事が叶うとしたら何を願う?」
良介の手が暖かいな、と結衣は思っていた。こんなに暖かい人に思われて、幸せじゃないはずがないと結衣はそのとき思っていた。本当に、自分は幸せなんだと確信していた。
「良介さんは?」
「僕?」
「うん。良介さんは何を願うの?」
「…結衣の幸せだな。」
「私の?」
「そう。」
「私は…良介さんの幸せを願うよ?」
良介は結衣の右手の薬指にはめてある指輪をじっと見つめていた。1年前に出逢ってからずっと、良介は結衣の手をそうやって手に取って確かめてきていた。
「お互いにお互いの幸せを願ったら、多分、お互いに幸せになれるんだろうな。」
結衣は良介の言葉に耳を傾けて、何か良介がとても疲れているように見えた。とても疲れていて、何かここに居る実感がないような、不思議な存在感を醸し出している気がした。
「良介さん、疲れてるの?」
結衣は良介の手に手を重ねて尋ねた。
「うん、まあ…そうだね。ちょっと疲れてる。」
「転勤の準備、忙しいんでしょ?もう明後日出発なんだし。私なら大丈夫だよ?」
良介はふと、結衣の手を離して窓の外の夜景を見渡した。ガラス張りの店内はぐるりと夜景に囲まれてまるで現実と逸れてしまっているような感覚を覚えさせていた。そのあと、しばらく沈黙が続いた。
「あのさ、結衣。」
良介はふと思いついたように口を開いた。
「なに?」
「僕が結衣に望むことがひとつだけある。何だか分かる?」
「良介さんが私に…?」
結衣は良介の目を真っ直ぐに見ていた。良介が自分に望むこと、何ひとつとして結衣に無理をさせたことのない良介が望むことなんてあるんだろうか。結衣はその目に影が映っていないことを確認するように黙って見つめていた。
「結衣は、そのままでいい。」
良介はそう言って椅子に背も垂れた。
「そのままで?」
「そう。そのままで居てくれればいい。僕が結衣に望むことは、それだけ。」
「…何も出来なくていいの?私が良介さんにしてあげられること、何もないよ?」
そう言って見つめる結衣の目を確かめるように良介は、
「うん、それでいい。」
と言って微笑んだ。
夜景は消えてしまうことはなく、ただそこで灯りを灯しているだけだった。そうやって街は時間を過ごして行く。
行き交う人々を夜の彼方に送り出しながら。そこには、本当は何もなかった。

<to be continued>

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