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その長い夜が明けるときまで【3】

人が何に救われるのか、なんてそんなことは本人にしか分からないことだ。ふとした瞬間に自分の中の何かが少しずつ解かされていく。それはほんの少しずつ。それと同じで人が何に対して追い立てられるのかそんなことは他人には理解出来ないのかもしれない。
きっと、時間が進む速度と正反対に徐々に迫る闇が自分を覆っていく息苦しい空気で空間を満たしていこうとする。それを払いのけるか、それに飲まれるか、どちらが正解なのかは定かではないし、どちらが本当の幸せなのかすら、多分誰にも分からない。

「愛している」と言う言葉が僕らの間で口に出ることは本当に珍しいことだった。特に何かルールを決めた訳ではない。ただ、「愛している」という言葉の真意が時々ふたりの間でとても軽薄な印象を与えてしまうことを僕らは知っていたからだった。それでも僕は、とある日を境に奈々瀬に「愛している」という言葉を伝えた。言葉は風に乗って何処へ行ってしまうんだろう。
消えてしまった、言葉。
そこには何も残らない。

「シャワー、浴びようかな。」
奈々瀬が思い出したように言った。
「シャワー?今朝、浴びたって言わなかった?」
「うん、なんか汗かいたしね。いい?」
「別に構わないよ。風邪引かないようにしなね。」
そう言って僕は読んでいた途中の雑誌に目を落とした。奈々瀬がバスルームのドアを開け、シャワーの出る音が聴こえてきていた。しばらく、僕はそのまま時間を忘れていた。雑誌を読み終わったときにハッとした。
「奈々瀬?」
シャワーの音はまだ聴こえていた。時計を見ると1時間経っている。シャワーを浴びるだけでこんなに時間がかかる訳がない。僕は慌ててバスルームに駆けつけてドアを思い切り開けた。
「奈々瀬!」
そこで見たものは、真実だった。
ドアの向こうには生温い浴槽の中で、血まみれになってまるまっている奈々瀬の姿があった。床には血のついた包丁が転がっていた。急いで奈々瀬を抱きかかえると体中から血が滴り流れてきた。
顔は青白く、息をしているのかどうかも分からなかった。腹部と胸と首に刺し傷があるのは分かったけれど、それ以上は僕には何も分からず、救急車を呼んだのも自分だったかどうか混乱した頭では何も考えられなかった。

奈々瀬のことを愛していた僕は、本物だった。お互いがお互いだということだけが本当ことで、その他には何もいらなかったのかもしれない。
今になって思う。奈々瀬がいつでも追い詰められていたのは、僕の愛に答えられない答えだったんじゃないかと。「愛している」の言葉に対して「愛している」と答えられない儚さや切ない気持ちが、奈々瀬にとっては闇だったのかもしれない。
「その意味が、形になってればいいのにね。」
奈々瀬が言った意味が今になると分かる。形にない感情を受け止めてしまうことの恐さが。何も誰も、確かなものを目で見て、手にして触ることも出来ない。

「愛している」って感情って何なんだろう?誰かが見せてくれるものなんだろうか?
そう問いかけても誰も答えてなんてくれないし、誰にもその結論は出せないものなんだろう。
奈々瀬は、愛せない恐怖に追いかけられていた。だからきっと、自分を愛してくれている僕のことを愛せないことを、ずっと背負ってきていたんだろう。
そんなことは、僕にとって重要なことではなかったのに。

愛されたい、なんて思ったことはなかった。
ただ、奈々瀬が笑っていられるならばそれで良かった。

奈々瀬が奈々瀬だということが本当のこと。
僕が僕だということが本当のこと。
それ以外の本当のことなんて、何もいらなかった。

「眠っててもね、いつになったら夜明けが来るんだろう、ってずっと考えてひとりで待ってるから。夜は何も見えないから嫌なの。何も本当じゃないみたい。」

いつかその長い夜が明けるときまで。
僕はやっぱり、奈々瀬を愛し続ける。

<END>

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