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名前のない色【1】

明け方の一番闇の深い時間が、規則正しく刻まれていく頃だった。
僕は何をする訳でもなく、ただぼんやりとその時間を刻む時計の秒針を見つめて遠く離れてしまった思い出に気持ちをそっと、重ねてみたりしていた。
記憶は、どうして時が過ぎる度に薄れていってしまうんだろう。大切に守っていても、時間と共にどんどんと景色は霞んでいってしまう。君の優しい笑顔ですら、僕の目に映ったはずなのに、はっきりとは思い出せない。

それでもそれは、僕にとってはただの不安でしかない。不安に不安を重ねて僕の脳裏にはもう何も残らずに、ただ君の持っていた優しい空気だけが、微かに思い出せるだけだった。ほんの少し乾いた空気だけを。

僕は今でも思ってしまう。この現実が現実ではなく夢だったなら。もしかして目が覚めていないだけなんだろうかと。眠りから覚めると目に映る空っぽの今日が「これが現実だ」と教えてくれる。
そして僕は思う「今日も現実だ」と。

「もしも、あなたと出会えてなかったら私はどうなっていたかな。」
そう言って彼女はまるで夢の中に居るように不思議な声で僕に話しかけた。
「どう思う?」
そして彼女は笑う。その笑顔はどこかしら無邪気で少女のようだった。僕は僕の周りにまとわりつく風の気配を感じながら、彼女の質問の答えを考えていた。
「僕と出会ってなかったら?」
「そう。どうなっていたかな、私は。」
彼女の影が長く伸びていた。僕は彼女の目をじっと見つめて、その色に惹き込まれる。
「泣いていたかもしれないな。」
僕はそう言って、日の灯りが僕らを優しく照らしているのを確認する為に空を見上げた。それでも、そこにはもう灯りはなかった。ただ、透明な空があるだけだった。彼女も僕と同じように空を見上げた。そして、とても遠くを見るような視線を投げると
「そう。泣いていたかもね。」
と言って微笑んだ。風はまだ僕らにまとわりついていた。どこから吹かれているんだろう、僕は何ひとつ知らなかった。風の生まれる場所は何処なんだろう。
「今日が終わったら、またあなたに逢えなくなるのかな。そして私は泣くのかな。」
彼女は僕に向かって右手を差し伸べた。僕はその手を確かに握った。
「今日が終わったら、明日が今日になるだけだよ。君を泣かせるなんて…。」
「いいの、別に。」
繋いだ手から感じる温もりは、夢ではなく現実だ、と言っているようだった。僕はただ、君の手を離さないようにしっかりと握っていた。
「こんな風に手探りにお互いの存在を確かめていたって、結局現実は記憶より確かなんだから。」
彼女はそう言って僕の手を離してしまう。もう少しで彼女を抱き寄せることが出来たのに、と僕は離れた彼女の手をいつまでも求めていた。
「大丈夫、寂しいなんて言わない。泣いたとしたって私は悲しい訳じゃないから。」
そう言う彼女の姿が僕の目には霞んで行ってしまう。どうしたら正確にその姿を記憶に焼き付けることが出来るのか、僕はずっとそのことを考えて来た気がした。
記憶の中に残るのは、彼女のまとった空気と透明な優しい声だけだった。
「さよなら、また明日ね。」
そう言って彼女は彼女の色が滲んだ窓ガラスに解けて消えた。ほんの数秒で。

<to be continued>

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