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「コミュニティを持つ」という言葉への違和感

「自分のコミュニティを持つ方法」
「現代は家や金よりも、コミュニティを持つ時代」

のような言葉が良く見られる一方で、「コミュニティを持つ」って言葉に違和感を感じずにはいられません。なぜそう思うのでしょうか。

コミュニティのあいまいな定義

今さら「コミュニティとは何か」問題を議論する必要はないーというか色々な場所でされている議論を引用するしかできないのですが、よく社会学の教科書で言われているマッキーヴァーの定義では、場所や空間を共有する地縁の団体が「コミュニティ」、目的や関心を共有する人為的な団体が「アソシエーション」と言われていました。

次第にSNSなどのオンライン上でのコミュニティなども増え、「場所」がバーチャルな場にも拡大されていったわけですが、「管理人」はいても「所有者」はあまり聞かれなかった気がします。オンラインサロンや有料オンラインコミュニティのようなものが増えて、そのコミュニティを「持つ」という話が多く聞かれ、それを目的とする人が増えてきました。

コミュニティへのかかわり方と段階

会社は基本株主のもので、所有者は明確です。会社をマネージメントしている人がいれば(管理)、労働している人がいて(参加)、取引して関わっている人(関係)もいて、なんとなく周りで見ている取り巻き(傍観)もいます。

コミュニティに対しても、傍観者がいて、関係を持っている人がいて、さらに深く参加する人がいて、管理する人がいる。そこまでの関係は似ています。さらに、関係をもったり、参加したりするコミュニティがあることが幸せにつながることもわかります。さらにコミュニティを良くしようとおもって管理の側に回る人も一部はいるでしょう。そこには少し苦しいですが、やりがいがついてくるかもしれません。

しかし、コミュニティって所有できるものなのでしょうか?

コミュニティは所有するものではない?

現在「コミュニティを持つ」と言われている現象をひもとくと、

コミュニティを持つ=自分という存在にファンがついていて、自分を中心としたファンの輪ができている

状態を目指す人が多いのだと思います。さらにファンと自分が交流し、ファン同士も交流して楽しさを増幅しているという状況があれば最高でしょう。

ファンクラブができるような存在(タレントに近い存在)になる、ということに近いのかもしれません。しかし音楽や芸術、演劇、芸事など自分の専門分野を極めた結果ファンを獲得するってのは納得できるのですが、そこでの中心人物はコミュニティのシンボルでありアイコンではあっても、所有者ではないのではないでしょうか。中心人物はそのコミュニティをコントロールはできないものです。

もう1つは今「コミュニティ」と呼んでいるものの多くが「アソシエーション」に近いものであるということです。例えば「ライターの仕事を紹介するコミュニティ」みたいなものです。そこにはライターの仕事を得る、という明確な目的が存在しています。かなり会社に近い運用になります。共通の目的や利害を持って動いている場合、特にお金の管理が発生する場合は「マネージャー」よりもコミット力の強い「オーナー」がいたほうが運用しやすいのではないでしょうか。

それでもやはり、コミュニティが複数の人で構成されている以上、所有して思い通りにすることはできないのです。

同じ趣味や方向性を共有しながらも、ゆるやかにつながり、明確な目的に向かって行動するわけではなく、入るのも出るのも自由、という場は、「コミュニティマネージャー」のような人がちゃんと管理しないと絶対に死んでしまいます。でも、所有して思い通りに動かすこともまた、不可能なのではないでしょうか。

それでもコミュニティを「持つ」ことが夢だったり、目標だったりするのかなあと思うのです。実際の所、コミュニティを持ちたい人の本音はどういったところにあるのでしょうかね?聞いてみたいものです。


P.S.この記事を書いた後、英語の「Having Community」は「参加できるコミュニティがある」ということを表すと聞きました。多くの人が「コミュニティを持つ」と言っていることが「コミュニティに参加する」の意味であれば、幸せなことだと思います。

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